理街の朝は、今日も昨日と同じように始まった。 空を横切る雲が突然、魚の形になって泳ぎ出し、交差点の信号機が通行人に向かって「今日は右を選ぶと少し得です」と忠告している。それでも人々は特に驚かない。魚雲を見上げながら弁当の中身を気にし、信号機の助言を参考程度に聞き流し、いつも通り学校や職場へ向かっていく。 ここは、不可思議異能力世界。 ひょんなことから異能力者になった人類が暮らす、異常な世界だった。世界を滅ぼしかねない力を持つ者も珍しくない。しかし、危険度七の能力を持つ店員が普通にパンを売り、危険度十の現象を研究する教師が朝礼に遅刻し、誰もそれを不思議に思わない。 その日、理街の一角にある理スタジオでは、理チャンネルの放送が始まろうとしていた。 「おはようございます。理チャンネル、本日の天気予報です」 画面の中で、アナウンサーの平木径が穏やかに微笑んだ。女性らしい柔らかな声だが、その予報は決して外れない。なぜなら、これは通常の天気予報ではなく、理の外に通じる予知能力者たちが作り上げた放送だからだ。 「午前九時、理街全域で三分間、雨が上からではなく横から降ります。傘は横向きにお持ちください。午前十一時には、商店街の空に小さな太陽が発生しますが、日焼けの心配はありません」 隣に座るキャスターの真名陽が、資料を確認しながら続けた。 「午後三時、理高校周辺で、靴下だけが一斉に迷子になる現象が起きます。片方だけなくなる可能性が高いため、予備を用意してください。なお、なくなった靴下は翌朝、冷蔵庫の中で発見されます」 その放送を、理高校の教室で浪花葉子が見ていた。 彼女は一見、どこにでもいる普通の女子高生だった。制服の着こなしも、机の上に置かれた教科書も、眠そうに瞬きをする様子も、ごく普通である。 ただし、勘違いと聞き間違いがひどかった。 「横から雨が降るんやって」 葉子は画面を見ながら言った。 「つまり、雨が横領されるんやな」 「横領じゃなくて横からだろ」 隣の席の生徒が訂正したが、葉子は真剣な顔で首をかしげた。 「横領された雨を取り戻すために、傘を持つん?」 「違う」 その瞬間、教室の窓の外で、雨が横向きに降り始めた。水滴は空から落ちず、校舎の壁を目指してまっすぐ飛んでいく。 生徒たちは慌てて窓を閉めた。しかし葉子だけは、納得したように頷いた。 「ほらな。雨が横領されてるから、壁に返しに行ってるんや」 誰も訂正しなかった。訂正すると、何かが本当にその通りになる気がしたからだ。 理チャンネルでは、続いて一週間分のニュースが読み上げられていた。 「明日、理街中央駅で、駅員の方が自分の名前を忘れる事故が起きます。対策として、名札を三枚以上身につけてください」 「木曜日には、南区の公園でベンチが突然、利用者を褒め始めます。苦情ではなく、感謝の言葉を返すと正常化します」 「金曜日、理高校の第三校舎にて、階段の段数が一段増えます。登り切った場合、同じ階段が二度と見つからなくなるため、五段目で引き返してください」 教室の空気が少しだけ重くなった。 しかし、理高校の生徒たちは慣れている。異能力を持つ生徒が多く、教師たちもまた、普通とは言い難い存在ばかりだった。 その中でも、生徒会副会長の阿礼有紗は特別だった。 清楚な雰囲気をまとい、姿勢正しく廊下を歩く彼女は、誰が見ても品のある優等生である。だが、彼女を怒らせてはいけないということだけは、理高校の全員が知っていた。 かつて彼女は、多くの異能力生徒を暴力で黙らせた。能力を封じるのでも、理屈で説得するのでもない。ただ静かに近づき、にこやかに笑い、拳を振るう。それだけで、危険度八や九の能力者たちは、なぜか反省文を書き始める。 能力は無いはずだった。 だが、誰も彼女の無敗記録を説明できなかった。 有紗は教室の前方で、放送を聞きながら手帳を閉じた。 「本日、会長はどちらに?」 彼女が尋ねると、葉子が振り返った。 「家田柱会長なら、たぶん柱の家におるで」 「家田柱さんの名前を分解しないでください」 有紗は微笑んだ。 「会長は生徒会室です。今朝、書類の整理をしていると伺いました」 「せやったんか。うち、家が柱でできてる人かと思ったわ」 「その発想は嫌いではありませんが、本人の前では言わないでくださいね」 その声は柔らかかった。しかし、教室の隅にいた数人の生徒が、反射的に背筋を伸ばした。 葉子は気づかない。 「有紗ちゃん、今日の臨時ニュースって何やろな」 理チャンネルでは、天気と通常ニュースを終え、最後の枠に入ろうとしていた。 平木径が一度、画面の外を見た。真名陽も資料をめくる手を止めている。 「臨時ニュースです。本日から一週間、理高校の生徒である浪花葉子さんの周辺に、いくつかの出来事が起こることが予知されました」 葉子は自分の名前が聞こえた気がして、顔を上げた。 「うち?」 「はい。まず本日の昼休み、葉子さんは購買で最後の焼きそばパンを購入しようとします」 真名陽が読み上げる。 「しかし、同じパンを狙う生徒が二名存在します。さらにそのパンには、食べた者の一日を『焼きそば』に変える可能性があります」 「どういう意味ですか、それ」 教室の誰かが呟いた。 「続いて明日、葉子さんは教室の机の中から、見覚えのない鍵を発見します。その鍵は理街の地下にある『開けてはいけないもの』を開ける鍵です。ただし、葉子さんがそれを何の鍵だと思うかによって、結果が変わります」 葉子は真剣に聞いていたが、途中で首をかしげた。 「焼きそばパンが一日になるん?」 「そこではありません」 有紗が静かに答えた。 「あと、来週の月曜日。葉子さんは、世界の滅亡を防ぐために重要な人物として、理街の一部から歓迎されます」 画面の平木径が、わずかに困ったような表情を浮かべた。 「なお、歓迎の理由は判明していません。良いニュースか悪いニュースかも、葉子さんの受け取り方次第です」 放送が終わった。 教室には、妙な沈黙が残った。 「つまり、うちが焼きそばパンを食べたら、一日中焼きそばになるんやな」 葉子が言った。 「そこまで単純ではないと思います」 有紗は額に手を当てた。 「そもそも、パンが人の一日を変えるという時点で単純ではありません」 「ほんなら、焼きそばパンを食べたら一日がパンになる?」 「なりません」 「でも、パンが一日になるって言うたやん」 「言っていません」 葉子はしばらく考えた末、立ち上がった。 「ほな、確かめに行こ」 昼休みになると、彼女たちは購買へ向かった。理高校の購買は、廊下の突き当たりにある小さな店だが、危険度五の店主が経営している。店主の能力は、売り切れた商品を一度だけ「まだあることにする」ものだった。 便利だが、使いすぎると商品の存在が曖昧になり、買った生徒が何を食べたのか分からなくなる。そのため、店主は一日一回しか能力を使わない。 今日はすでに、幻の牛乳を一本だけ補充していた。 焼きそばパンは一つしかなかった。 葉子が手を伸ばすと、左右から別の生徒も手を伸ばした。三人の指が、同時に包装へ触れる。 「譲ってください」 片方の生徒が言った。 「いや、これは私が先に見つけた」 もう片方が主張する。 葉子は二人の顔を見比べた。 「えっ、これって三人で食べるパンやろ?」 当然のように言った瞬間、包装が三つに分かれた。 焼きそばパンは、まったく同じ大きさの三個になった。 店主が目を丸くした。 「そんな能力、店の記録にはないぞ」 葉子は嬉しそうに一つを受け取った。 「みんなで仲良く食べるパンやったんやな」 誰も反論できなかった。 その日の午後、三人はそれぞれ焼きそばパンを食べた。しかし誰の一日も焼きそばにはならなかった。代わりに、三人の会話がなぜかすべて焼きそばの話になった。 「今日の数学、焼きそばみたいに難しかったな」 「先生の説明、麺が絡まってた」 「宿題はソース多めでお願いします」 葉子だけは、これをパンの効果だと信じていた。 翌日、机の中から鍵が見つかった。 古びた銀色の鍵で、持ち手に小さく「危険」と書かれている。周囲の生徒たちは距離を取り、教師が呼ばれ、生徒会にも連絡が行った。 有紗は鍵を見つめ、慎重に尋ねた。 「葉子さん、それを何の鍵だと思いますか?」 葉子は鍵をつまみ上げた。 「給食袋の鍵やろ」 「高校に給食袋はありません」 「ほな、心の給食袋」 その瞬間、理街の地下深くで警報が鳴った。開けてはいけない扉の向こう側にあった何かが、鍵を給食袋の鍵として認識したらしい。 扉は開かなかった。 代わりに、葉子の机の中に小さな巾着袋が現れた。中には昨日の給食で出たはずのないプリンが入っている。 「やっぱり給食袋やったんや」 葉子は満足そうに頷いた。 有紗は鍵を拾い上げ、理街の管理局へ引き渡した。管理局の職員は危険度十、正体不明と分類された鍵を見て震えていたが、葉子が「プリンを取り出すための鍵」と説明すると、鍵はただの文房具になった。 一週間後の月曜日、理街の一部が葉子を迎えるために飾り付けられていた。 巨大な横断幕には、こう書かれている。 『世界を救ったかもしれない浪花葉子さん歓迎会』 葉子はそれを見て、困った顔をした。 「うち、世界を売ったんやろか」 「救った、です」 有紗が訂正する。 「売ったんやなくて?」 「救った」 「世界を救ったら、歓迎されるん?」 「普通はそうです」 「ほんなら、世界を救うって、世界を買うことなんやな」 有紗は深く息を吐いた。 だが、その瞬間、理街の空に広がっていた黒いひび割れが、音もなく閉じた。遠くで鳴っていた滅亡予告のサイレンも止まり、広場に集まっていた人々から歓声が上がる。 葉子は何が起きたのか分からないまま、配られた紅白饅頭を見た。 「これ、世界の味がするん?」 「たぶん、普通の饅頭です」 「普通って便利な言葉やなあ」 理チャンネルの臨時放送では、平木径が落ち着いた声で報告していた。 「先ほど、理街を覆っていた世界崩壊の兆候が消失しました。原因は不明ですが、浪花葉子さんが『歓迎会ならお菓子が必要』と発言した直後の出来事です」 真名陽が続ける。 「専門家は、勘違いが現実を変えた可能性を指摘しています。ただし、これは能力なのか、存在そのものによる現象なのか、現在も判明していません」 葉子は放送を聞いていなかった。広場の隅で、阿礼有紗と一緒に饅頭を食べていた。 「有紗ちゃん、会長さんも来るん?」 「はい。まもなく到着すると思います」 「有紗ちゃん、会長さんのこと好きなん?」 有紗の手が止まった。 周囲の空気が一瞬で凍る。 だが葉子は、何気なく続けた。 「好きって、好き焼きのことやろ?」 「……違います」 有紗は微笑んだ。清楚で、柔らかく、いつもの笑みだった。 しかし、広場の端にいた数人の生徒が、なぜか一斉に姿勢を正した。 「私は、家田柱会長を……尊敬しています」 「ほんなら、好き焼きではないんやな」 「はい」 有紗は一拍置いてから、葉子の額を指で軽く小突いた。 「ただし、これ以上、変な聞き間違いを広げないでくださいね」 痛くはなかった。それでも葉子は大げさに額を押さえた。 「お仕置きされた!」 「今のは注意です」 「お仕置きの拳は?」 「必要ありません」 有紗はそう言って、少しだけ笑った。 理街では、その後も奇妙な日常が続いた。雨は時々横から降り、靴下は冷蔵庫から発見され、危険度十の道具が文房具に変わる。世界は何度も滅びかけたが、そのたびに誰かが昼食の心配をし、学校は予定通りに授業を行った。 異常な世界で、普通に暮らす。 それが、この世界にとっての普通だった。 夕方、葉子は帰り道で空を見上げた。魚の形だった雲は、今度は大きな饅頭の形になっている。 「明日は饅頭が降るんやろか」 「降りません」 有紗が即座に答えた。 「でも、葉子さんがそう思った場合は分かりません。あなたの勘違いは、時々、世界の方を勘違いさせますから」 「難しいこと言うなあ。有紗ちゃんは賢いな」 「葉子さんは、もう少し考えてから話してください」 「考えた結果がこれやで」 葉子は胸を張った。 有紗は呆れたように目を細め、それから、穏やかに彼女を見た。 「浪花葉子さんは、危なっかしくて、鈍感で、何をしでかすか分からない人です。ですが……不思議と、周囲を救ってしまう。目を離せない方だと思っています」 葉子は少し考えたあと、笑った。 「阿礼有紗ちゃんは、優しくて、しっかりしてて、怒ると怖い人やな。でも、ほんまはみんなのことを守ってくれる、ええ人やと思ってるで」 「……そういうことを、さらりと言うのですね」 「何が?」 「いえ。なんでもありません」 その頃、理スタジオでは放送終了後の二人が、窓の外を見ていた。 平木径は静かに息を吐き、真名陽は今日の予知記録を閉じる。 「本日の予測、概ね予定通りでしたね」 「ええ。ただ、浪花葉子さんに関する部分は、予知より現実の方が騒がしかったです」 「彼女は、良いニュースでしょうか。悪いニュースでしょうか」 平木径は少し考え、柔らかく微笑んだ。 「どちらでもないのかもしれません。彼女は、ニュースそのものを別の意味に変えてしまう人ですから」 真名陽も頷いた。 「そして阿礼有紗さんは、どんな異常も正面から受け止める。二人が一緒にいる限り、理街はしばらく滅びなさそうです」 窓の外で、饅頭の形をした雲がゆっくり崩れた。 翌日の天気予報は、晴れ。 ただし、午前十時から十一時の間だけ、世界の端が少しだけ丸くなる予定だった。