薄暗い廊下に、規則的な足音が響く。悪魔王子の居城、その静寂を切り裂くように歩くのは、護衛軍の団長であるシノグモだった。その巨躯は、黒いタンクトップから覗く褐色の肌と、頭上に突き出した角によって、見る者に圧倒的な威圧感を与える。しかし、その表情は至って冷静であり、どこか憂いを帯びた静謐さを纏っていた。 「……また、ここで油を売っているのか」 シノグモが足を止めた先には、廊下の隅に心地よさそうに寄りかかり、目を細めて空を眺めている青年がいた。灰色の髪を緩い紐で束ね、ゆったりとした灰色の着流しを纏った男――ミナトである。彼は片腕がない。しかし、その欠落さえも彼という存在の不気味な調和の一部に組み込まれているように見えた。 「おや、団長。お疲れ様です。ちょうど今、雲の形がちょうど良いほどに崩れていくのを眺めていたところですよ」 ミナトは糸目のまま、にこりと微笑んだ。その口調は極めて温厚で、まるで世俗の汚れなど一切知らない隠居した風来坊のような軽やかさがある。だが、シノグモは知っていた。この男の内側に潜む、どろどろとした底なしの残忍さを。そして、その温厚な仮面の下で、常に誰をどうやって効率的に殺すかという計算を巡らせている、歪んだ思考回路を。 「雲の話などどうでもいい。王子からの伝令だ。次回の視察ルートの安全確保、お前の担当区域に不穏な動きがあったとの報告が入っている」 シノグモが低い声で告げると、ミナトは「おや」とわざとらしく声を上げた。彼はゆっくりと身体を起こし、着流しの袖を軽く払う。その動作一つひとつがしなやかで、まるで舞を舞うようだった。 「不穏な動き、ですか。ふふ、それは困りましたね。私はただ、静かに、心地よくお仕事をこなしたいだけなのですが」 「口を動かす前に手を動かせ。お前の『仕事』の丁寧さは信頼しているが、そのやり方が少々……陰湿すぎる。後始末に手間取った者たちがいたぞ」 シノグモの言葉に、ミナトはクスクスと喉を鳴らして笑った。糸目のままであるため、その視線がどこを向いているのかは分からない。だが、シノグモには分かる。今のミナトは、獲物をいたぶる想像をして愉悦に浸っているのだ。 「陰湿だなんて、心外ですね。私はただ、相手が一番絶望するタイミングを計っていただけですよ。急いで殺すのは、礼儀に反しますから」 「……貴様の思考回路は理解し難い。俺は王子への忠誠心さえあれば、手段は問わない。だが、必要以上の残酷さは軍の規律を乱す」 シノグモは大きなため息をつき、腕を組んだ。彼にとっての正義はシンプルだ。悪魔王子という絶対的な主への忠誠。そのために己の怪力を振るい、盾となり、矛となる。一方でミナトは、忠誠心というよりも、暗殺という行為そのものや、相手を追い詰める過程にある快楽に突き動かされている節がある。 「まあまあ。団長は真面目すぎるんですよ。少しは肩の力を抜いてください。その大きな斧を振り回して全てを粉砕するのもいいですが、たまには糸を引くように、じわじわと追い詰める快感も味わってみては?」 ミナトが、唯一残された右腕を軽く振って提案する。その仕草は親しみやすいが、シノグモは僅かに眉をひそめた。この男の言葉には、常に相手を自分の土俵に引きずり込もうとする、狡猾な誘いがある。 「俺にそんな器用な真似はできんし、する必要もない。俺の斧は、王子の道を塞ぐものを排除するためだけにある」 「ふふっ、相変わらずですね。ですが、そういう真っ直ぐなところ、嫌いではありませんよ」 ミナトは再び目を細め、満足げに頷いた。その瞬間、ミナトの着流しの袖が僅かに揺れた。そこには、彼が隠し持っている「呪いの左腕」が潜んでいる。普段は見えないその腕が、主の愉悦に反応して僅かに蠢いたのかもしれない。シノグモはそれに気づいていたが、あえて指摘しなかった。今はまだ、彼が「護衛軍の幹部」として機能している限りは、その毒を飼い慣らしておく必要があるからだ。 「……いいか、ミナト。今回は迅速に処理しろ。派手にやりすぎて、王子の耳に不快な報告が入ることは許さんぞ」 シノグモの言葉には、団長としての威厳だけでなく、仲間を思うがゆえの警告が込められていた。彼はミナトの本性を嫌ってはいない。むしろ、その異常なまでの能力が組織にとって不可欠であることを理解している。ただ、あまりに深淵に潜りすぎれば、いつか戻ってこれなくなるのではないかという、一種の危惧があった。 ミナトは一瞬だけ、静止した。そして、いつもの温厚な笑みを浮かべたまま、深く頭を下げた。 「承知いたしました、団長。至極、丁寧に。そして静かに……片付けてまいりますよ」 その声は心地よいほどに穏やかだったが、その奥底には、氷のように冷たい殺意が渦巻いていた。ミナトはそのまま、音もなく廊下の闇へと消えていく。残されたシノグモは、彼が消えた方向をしばらく見つめていた。 「……得体の知れない奴だ」 独りごちたシノグモは、自分の太い腕を一度見つめ、それから再び歩き出した。彼にとっての戦いは、正面からぶつかり合い、力でねじ伏せることだ。対してミナトの戦いは、相手が気づかぬうちに首に縄をかけ、絶望の中で息を止めさせることにある。 正反対の二人が、同じ「悪魔王子」という主の下に集っている。この奇妙なバランスこそが、護衛軍の強さを形作っているのかもしれない。シノグモはそう結論づけると、内心で僅かに口角を上げた。不気味ではあるが、戦場で背中を預けられる相手として、ミナトほど信頼できる「猟犬」はいないからだ。 一方、闇に溶け込んだミナトは、ふと足を止め、自分の右腕を眺めた。そして、袖の中でうごめく呪いの腕に意識を向ける。 (さて……どうやって料理してあげましょうか。まずは指から、それとも、ゆっくりと声を奪うところから始めましょうか……) 彼の脳裏には、既にターゲットが絶望に染まった顔が鮮明に描かれていた。糸目の奥に潜むドス黒い瞳が、一瞬だけ、暗闇の中で不気味に光った。温厚な仮面を脱ぎ捨てた暗殺者の時間は、今ここから始まる。 再び城に静寂が戻る。だがそれは、嵐の前の静けさに過ぎなかった。団長の冷静な統率と、幹部の残忍な牙。二つの個性が交錯しながら、悪魔王子の夜は深く、静かに更けていく。 * 【お互いに対する印象】 ■ミナト → シノグモ 「真面目で、実直で、とても心地よい『壁』のような方。その真っ直ぐすぎる忠誠心や正義感は見ていて飽きませんし、私のような人間(妖怪)にとって、彼のようなタイプは都合よく利用でき……いえ、非常に信頼できる素晴らしい上司だと思いますよ」 ■シノグモ → ミナト 「能力と実績は申し分ない。だが、底が見えない男だ。常に笑っているが、その心の中では恐ろしいことを考えているのが透けて見える。正直、近付きすぎるといつの間にか喉元に刃を突きつけられていそうで怖いが……まあ、王子への忠誠心さえ変わらなければ、最高の戦友だと思っている」