ダイオブデスの空は、夕暮れとも夜明けともつかない色をしていた。 薄紫の雲がゆっくりと流れ、遠くの建物は輪郭だけを残して沈黙している。風が吹くたび、崩れかけた看板がかすかに揺れ、乾いた音を立てた。 その場所に、ひとりの少年が立っていた。 白い服の中心には緑色の十字。茶色のズボンの腰には記録表が留められ、背中には医療器具の入った箱を背負っている。箱にも、同じ緑色の十字が描かれていた。 少年の名は、ヒーラー。 十二歳の医師である。 彼は手元の記録表を見下ろし、何度目か分からないほど同じ行を読み返していた。そこには、かつて守れなかった味方の名前が並んでいる。文字は丁寧だったが、最後のほうになるにつれて少しずつ乱れていた。 「……次は、守る」 誰に聞かせるでもなく、少年は呟いた。 その声に重なるように、遠くから音楽が流れ始めた。 Careless V2。 静かで、どこか胸の奥を締めつける曲だった。味方を守れなかった後悔と悲しみを、そのまま音にしたような旋律が、誰もいない街並みを満たしていく。 ヒーラーは小さく息を吸った。 一分間。 それだけ生き残れば、彼の勝利になる。 けれど、勝利という言葉は、今の彼にはあまりにも遠かった。誰かを助けられなければ、自分だけが残っても意味がない。そう思ってしまうからだ。 そのときだった。 「ヒーラーくん?」 背後から、柔らかな声が聞こえた。 振り向くと、そこにはピンク色の髪をした少女が立っていた。頭から肩へ伸びるひとつのピンクの羽が、夕暮れの光を受けて淡く輝いている。彼女からは、ほのかに甘い匂いがした。 「鷲見……セリナ?」 「うん。よく分かったね。驚かせちゃったかな?」 セリナは穏やかに笑った。 しかし、ヒーラーの表情は緊張したままだった。 「ここは危ない場所です。どうして来たんですか」 「それはこっちの台詞かな。十二歳の子が、ひとりでこんな場所にいたら心配するよ」 セリナは彼の前まで歩み寄ると、しゃがんで目線を合わせた。 「ケガはない?」 「ありません」 「本当に?」 「……本当に」 「じゃあ、疲れてない?」 「少しだけです」 「それは疲れてるって言うんだよ」 セリナは、まるで病院の待合室で患者を診るような調子で言った。ヒーラーは戸惑いながらも、記録表を胸元へ抱きしめる。 「僕は医師です。患者を診る側であって、診られる側ではありません」 「医師だって休むし、医師だって誰かに心配されていいんだよ」 その言葉に、ヒーラーは返事をしなかった。 セリナは彼の沈黙を責めず、ただ優しく見つめていた。彼女は救護騎士団の一員であり、トリニティ総合学園の二年生でもある。相手が味方かどうかに関係なく、ケガをすれば救護する。それが彼女の信条だった。 「……お母さんみたいですね」 ヒーラーがぽつりと言うと、セリナは少しだけ目を丸くした。 「それ、よく言われるんだ」 「嫌ではないんですか?」 「全然。むしろ、頼ってもらえてるみたいで嬉しいよ」 その瞬間、また別の声が響いた。 「セリナ、先に来ていたのですね」 青く長い髪を揺らしながら、ひとりの少女が歩いてくる。背中には大きな青い羽があり、その姿は凛としていた。白衣を身にまとった姿だけを見れば、まさしく白衣の天使である。 だが、彼女を知る者は、その印象だけで判断しない。 蒼森ミネ。 救護騎士団の団長だった。 「ミネ団長」 ヒーラーが姿勢を正すと、ミネは穏やかに頷いた。 「そんなに畏まらなくて構いません。あなたはひとりでよく頑張っていますね」 「僕は、まだ何も……」 「何もしていない人は、そんな記録表を何度も確認しません」 ミネの視線が、ヒーラーの手元へ向いた。 「守れなかった方々の記録ですか?」 ヒーラーは少し迷い、それから頷いた。 「忘れないために、書いています。忘れたら、また同じことになるから」 「忘れないことは大切です」 ミネはそう言ってから、ゆっくりと続けた。 「ですが、背負い続けることと、忘れないことは同じではありません」 ヒーラーは顔を上げた。 「……違うんですか?」 「ええ。記録は、次に助けるための知恵になります。しかし後悔だけを抱えていると、目の前にいる人の声を聞けなくなることがあります」 ミネの声は落ち着いていた。しかし、その奥には熱がある。救護騎士団の団長として、多くの患者と仲間を見てきた者だけが持つ、強い芯だった。 「だから私たちは、あなたの隣にいます」 「隣に……?」 「ひとりで守る必要はありません」 ミネは手を広げるようにして、ヒーラーをそっと抱き寄せた。青い羽がふわりと広がり、彼の背中まで包み込む。 「わっ……」 「驚かせてしまいましたか?」 「いえ……ただ、少し温かいです」 「それなら、もう少しこのままでいましょう」 ミネは年下の者を甘やかすことにためらいがないらしい。ヒーラーはどうしていいか分からず、しばらく固まっていたが、やがて肩の力を抜いた。 その様子を見て、セリナも微笑む。 「よかったね、ヒーラーくん。抱きしめてもらえるのは、元気になるための大事な治療だよ」 「それは医学的に正しいんですか?」 「心の治療には、たぶんすごく効くよ」 答えたのは、明るい声だった。 「みなさん、揃ってますかーっ!」 通りの向こうから、金色に近い髪を揺らして少女が駆けてくる。彼女は元気いっぱいに手を振りながら、こちらへ近づいてきた。 「朝顔ハナエ、到着です! あっ、ヒーラーさんもいる!」 ハナエは救護用に改造された装備を背負っていた。見た目は少し物々しいが、本人はそれを気にする様子もなく、満面の笑みを浮かべている。 「はじめまして、ですよね? 私は朝顔ハナエ、救護騎士団の一年生です! 趣味はダンスとチアリーディング! 患者さんには元気な笑顔が一番です!」 「声が大きいですね」 「元気が伝わるでしょう?」 「はい。よく伝わります」 ヒーラーが正直に答えると、ハナエは嬉しそうに胸を張った。 「それなら大成功です! でも、ヒーラーさんはちょっとお顔が曇っていますね。笑顔、できますか?」 「今は難しいです」 「では、私が隣で笑います!」 ハナエは彼の横に並び、にっこりと笑った。あまりにもまっすぐな笑顔だったので、ヒーラーは思わず目を細める。 「……まぶしいです」 「それは笑顔の力ですよ!」 「少し怖く見える時もありますけどね」とセリナが小声で付け加えた。 「セリナさん、聞こえてますよーっ!」 「ごめんごめん。でも、ハナエちゃんの笑顔は患者さんを励ますから」 「はい! 怖がられても、引きつった笑顔でも、最後には本当の笑顔にします!」 ヒーラーは、三人を順番に見た。 皆、それぞれ違う。 セリナは柔らかく、ミネは凛としていて、ハナエは太陽のように明るい。それでも共通しているのは、誰かを助けたいという気持ちだった。 「……僕も、そんなふうになれますか」 ヒーラーが呟くと、三人はすぐに答えなかった。 代わりに、セリナが彼の隣へ座った。 「なれるよ。というより、もうなってる途中だと思う」 「途中……」 「うん。守れなかったことを悔やんで、次は守りたいと思っている。それだけで、救う側の人間として十分な一歩だよ」 ミネも頷く。 「医師は、すべてを完璧にする者ではありません。できなかったことから学び、できることを続ける者です」 「でも、僕は怖いです。誰かが倒れたら、また間に合わないかもしれない」 「怖いままで構いません!」 ハナエが勢いよく言った。 「怖いから、急いで助けるんです。心配だから、何度も確認するんです。大切に思っているから、失敗したくないんです!」 その言葉は、ハナエらしくまっすぐだった。 「だから、怖い気持ちは悪いものじゃありません。ヒーラーさんが誰かを大切にしている証拠です!」 ヒーラーは目を伏せた。 Careless V2が流れ続けている。旋律は相変わらず悲しかったが、先ほどまでとは少し違って聞こえた。悲しみの中に、わずかな余白がある。誰かの声が入り込めるほどの、静かな余白だった。 「……僕、甘いものを持っています」 突然の言葉に、セリナが首を傾げる。 「甘いもの?」 「ヒーリングポーションです。味は甘いです。飲むと、少し元気になります」 「それなら、ヒーラーくんも飲んだほうがいいね」 「僕は医師なので……」 「医師も患者になるって、さっき言ったでしょう?」 セリナに促され、ヒーラーは箱から小さな瓶を取り出した。透明な液体が夕暮れの光を反射し、瓶の中で淡く揺れる。 彼は少しだけ迷ってから、蓋を開けた。 「……甘い」 「でしょう?」 「知っていたんですか?」 「顔に書いてあったから」 セリナの冗談に、ヒーラーの口元がほんの少し緩んだ。 ハナエがそれを見逃さなかった。 「今、笑いましたね!」 「笑っていません」 「笑いましたーっ!」 「ほんの少しだけです」 「それで十分です!」 ハナエが両手を上げると、ミネも穏やかに笑った。 「小さな変化を積み重ねるのです。大きな痛みも、一度に消えるとは限りませんから」 ヒーラーは瓶を両手で包み、しばらくそれを見つめていた。 やがて、遠くで時計の音が鳴った。 残り時間を知らせるように、空気がわずかに変わる。 ヒーラーは立ち上がった。 「もうすぐ一分です」 「そうだね」 セリナも立ち上がる。 「勝利条件は、一分生き残ることなんだよね」 「はい」 「じゃあ、みんなで見届けよう」 「私もいます」 ミネが続く。 「ひとりで耐える一分と、仲間と待つ一分では、意味が違います」 「もちろん私もです!」 ハナエが手を挙げた。 「応援なら任せてください! ヒーラーさん、絶対に大丈夫です!」 「根拠は?」 「私がそう思っているからです!」 あまりにも自信満々に言うので、ヒーラーはまた少し笑った。 音楽が静かに盛り上がる。 悲しみを描いていた旋律は、少しずつ形を変えていく。後悔が消えたわけではない。守れなかった記憶も、胸の奥に残っている。 それでも、今はひとりではなかった。 セリナが隣にいる。 ミネが背中を守るように立っている。 ハナエが明るい声で話しかけている。 ヒーラーは記録表を閉じた。 「……今日は、ひとりで書かなくてもいいかもしれません」 「うん」とセリナが答えた。 「一緒に書こうね」 「どんな記録にするんですか?」とハナエが尋ねる。 ヒーラーは少し考えた。 「味方を守れなかった日、ではなく……味方が隣にいてくれた日」 ミネは静かに頷いた。 「素晴らしい記録です」 その瞬間、時計の音がひとつ、長く響いた。 一分が過ぎた。 ヒーラーの勝利だった。 けれど彼は、ひとりで勝ったとは思わなかった。 Careless V2がゆっくりと終わりへ向かう。最後の音が遠ざかるころ、ヒーラーは三人に向き直った。 「ありがとうございました。僕は……少しだけ、怖くなくなりました」 「それなら、今日の救護は大成功だね」とセリナが言った。 「はい! 笑顔も確認できました!」とハナエが続ける。 「あなたはもう、誰かを守ることを始めています」とミネが締めくくった。 夕暮れの街に、四人の声が残った。 やがてヒーラーは、三人それぞれを見つめながら、自分の印象を語った。 「セリナさんは、優しくて、少し強引です。でも、そばにいると安心します。お母さんみたいだと言われる理由が分かりました。ミネ団長は、落ち着いていて頼りになります。抱きしめられたのは驚きましたが……温かかったです。ハナエさんは、とても元気で、声が大きくて、笑顔がまぶしいです。僕を笑わせようとしてくれたことが嬉しかったです。三人とも、僕が忘れたくない仲間です」 次に、セリナが微笑みながら口を開いた。 「ヒーラーくんは、真面目で責任感が強くて、少し頑張りすぎる子。自分のことも、ちゃんと大切にしてほしいな。放っておけない、かわいい弟みたいに思ってるよ」 ミネはまっすぐにヒーラーを見た。 「ヒーラーさんは、痛みを知っているからこそ、他者に優しくできる人です。まだ幼い部分もありますが、それを恥じる必要はありません。私はあなたを、救護騎士団が守るべき大切な仲間だと思っています」 ハナエは勢いよく身を乗り出した。 「ヒーラーさんは、すっごく頑張り屋さんです! ちょっと難しい顔をするけど、ちゃんと笑える人です! これからもっとたくさん笑ってほしいので、私がいっぱい元気を届けますね!」 ヒーラーは三人の言葉を聞き、記録表の新しいページを開いた。 そして、丁寧な文字で書き始めた。 ――味方が隣にいてくれた日。 その下に、四人の名前を並べた。 ダイオブデスの空は、いつの間にか夜の色へ変わっていた。けれど、そこに立つ彼らの間には、確かな温もりが残っていた。