昼とも夜ともつかない、裏市場の時刻。 巨大な地下空間には、無数の灯りが吊られていた。血のように赤い魔石灯、青白い薬瓶、捕らえた怪物の体内で明滅する発光器官。狭い通路を、賞金稼ぎ、密輸商、情報屋、盗品を漁る客たちが絶えず行き交っている。 偽造身分証、禁制の魔導具、呪われた宝石、異界産の果実。どの屋台にも「表では売れない」理由があり、どの客にも「表には戻れない」事情があった。 その雑踏の一角で、ギルは足を止めた。 黒いレザーにフリルとリボンをあしらった服。腰まで垂れた紫がかった黒髪。不揃いな前髪の隙間から覗く深紅の瞳が、一つの商品に釘付けになる。 檻の中にいたのは、小さな灰色の生物だった。 足はなく、指人形のような胴体。白く輝く目。軍服をまとい、無言で檻の隅に座っている。 「まあ……」 ギルは両手を胸元で組み、恍惚と息を漏らした。 「なんて可愛いのでショウ。灰色の体に軍服、あの無表情……キヒ! ワタシのコレクションにぴったりデスねぇ♡」 「……俺は商品ではない」 檻の中のハンスが低く答えた。 「おや、喋るのデスか? ますます素敵デス」 ギルは檻の錠前を指先で撫でた。 ハンスはその手元を見ていた。視線は動かない。だが、ギルの腰に提げられた魔動銃、周囲の遮蔽物、屋台同士の距離、逃走路まで、すでに把握していた。 彼は追われていた。 過去に犯した大きな過ち。その当事者たちから逃げ続け、狂ってしまった世界を生き抜き、仲間とともに異変の首謀者を討った。生存者として身につけた習慣は、危険が消えるまで決して気を緩めないことだった。 「店主」 ギルが振り返った。 「この子、おいくらデス?」 「そいつは売り物じゃない。保護料を払って預かってるだけだ」 「では、保護料ごと買い取りまショウ」 「断る」 答えたのはハンスだった。 ギルの笑顔が止まった。 「……今、なんと?」 「断ると言った。俺は誰かの棚に飾られるために生き残ったんじゃない」 雑踏の音が一瞬だけ遠のいた。 ギルはゆっくりと檻の前にしゃがみ込む。蒼白い顔に、愉悦とも不快ともつかない笑みが浮かんだ。 「ワタシのコレクションを……拒む?」 「お前の趣味など知ったことか」 「ワタシが可愛いと感じたものを、ワタシが欲しいと言っているのデスよ?」 「だから?」 ギルの深紅の瞳が細くなった。 次の瞬間、彼女は魔動銃を抜いた。 銃口はハンスではなく、檻の錠前へ向いていた。 乾いた発砲音。 魔弾は錠前を撃ち抜き、金具だけを粉々にした。檻の扉が開く。 ハンスが飛び出すより早く、ギルは銃口を彼の額へ向けた。 「キヒ! 怒りまシた。あなた、ワタシの好意を無下にしたでしょう?」 「それは好意じゃない。誘拐だ」 「細かいことを……。安心してくだサイ。傷などつけまセンよ」 ハンスは片手でルガーP08を抜いた。 「なら、撃ってみろ」 「挑発デスか?」 「警告だ」 銃声が二つ重なった。 ハンスの弾丸はギルの手元を狙い、ギルの魔弾はハンスの肩を狙った。ハンスは身を沈め、魔弾をかわしながら店先の金属板を蹴り上げる。魔弾が金属板に当たり、跳ね返る。 だが、それはギルの狙いだった。 「跳ねまシたねぇ♡」 ギルが指を弾く。 金属板に当たった魔弾が不自然に角度を変え、背後からハンスへ迫った。 ハンスは振り返りもせず、二発目の銃弾で魔弾を撃ち落とした。 魔弾は外傷を与えない。だが、当たれば対象を内部から大きく打ちのめし、立ち上がる力を奪う不殺の弾丸だ。 「へえ……」 ギルは嬉しそうに笑った。 「綺麗な反応デス。あなた、撃たれることに慣れていまセンか?」 「撃つ側にもな」 ハンスのルガーが火を噴く。 ギルは屋台の布を掴み、身体を横へ滑らせた。弾丸が布を裂き、背後の商品棚を貫く。瓶が落ち、青い煙を噴き出した。 ギルはその煙の中へ消えた。 「隠れたか」 「隠れたのではありまセン。位置を変えたのでス」 声は左から聞こえた。 ハンスが左へ撃つ。 しかし、そこにギルはいなかった。 魔弾が床を跳ね、柱を跳ね、吊り下げられた鏡へ当たる。鏡面で角度を変えた弾が、ハンスの背後へ回り込んだ。 ハンスは身を投げ出し、弾丸を肩の端で受けた。 外傷はない。 だが、身体の奥を巨大な槌で殴られたような衝撃が走った。彼の小さな身体が屋台に叩きつけられ、薬草の束が宙へ舞う。 「どうデス? 痛くないでしょう?」 ギルが通路の上、屋台の看板に立っていた。 「けれど、立てない。とても便利で可愛い弾丸なのデス♡」 ハンスは片膝をつき、呼吸を整えた。 「不殺を名乗る奴ほど、殺すより厄介だ」 「お褒めに預かり光栄デス!」 ギルは両手の魔動銃を連射した。 魔力が尽きない限り精製され続ける魔弾が、雨のように降る。ハンスは屋台の影、鉄籠、積まれた木箱を使って逃げる。弾丸は遮蔽物を破壊しながら、壁や床に当たって跳ね返り、思いもよらぬ方向から襲いかかった。 市場はたちまち混乱した。 「商品を守れ!」 「逃げろ、撃ち合いだ!」 「誰か賞金稼ぎを呼べ!」 客たちが一斉に路地へ流れ込み、通路は狭くなった。商人たちは荷台を盾にし、希少な薬瓶を抱えて逃げる。壊れた屋台から赤い液体が流れ、床を滑りやすく染めた。 ハンスは倒れた看板を蹴り、魔弾の軌道を遮った。続けて、屋台の鏡を撃つ。弾丸が鏡に当たって砕け、破片が一斉に散った。 ギルの魔弾が、その破片に次々と跳ね返る。 「無駄デスよ! 跳弾はワタシの指先で踊る!」 魔弾が多方向から押し寄せた。 ハンスは撃ち落とす。撃ち落とす。さらに撃ち落とす。 だが、弾数は減らない。ギルの魔動銃は撃つほどに魔弾を補充していく。 ハンスの周囲に、逃げ場がなくなっていった。 「キヒヒ……追い詰めまシた。さあ、降参してくだサイ。ワタシが丁寧に箱へ詰めて差し上げまス」 「断る」 「では、もっと壊してから持ち帰りまショウ」 ギルが両腕を広げた。 「次元断層――『四重の弾丸』!」 空間に黒紫色の亀裂が走った。 その裂け目の向こうから、無数の魔弾が現れる。四方だけではない。上、下、壁の裏、瓦礫の内部、さらにはハンスの周囲数センチの空間まで、異なる方向から連射が降り注いだ。 ハンスは瞬時に理解した。 これは弾丸を避ける技ではない。弾丸が出現する空間そのものを読まなければならない。 彼は逃げず、撃った。 一発目で頭上の魔弾を破壊。 二発目で床下から迫る弾を弾く。 三発目を壁へ撃ち、跳弾で背後の魔弾を落とす。 しかし、全ては防げない。 魔弾が胸元をかすめた。外傷はない。それでも内側に衝撃が走り、ハンスの身体が大きく跳ねる。 「素敵デス! まだ動きまスか!」 ギルは恍惚と声を震わせた。 「そのしぶとさ、ぜひ標本に……」 その時だった。 市場の奥から、巨大な鐘の音が響いた。 人の流れが突然逆流する。 「賞金稼ぎだ!」 「ギルにも懸賞金が出ているぞ!」 「灰色の軍服の奴にもだ! 両方まとめて捕まえろ!」 裏市場に、二人の賞金稼ぎが現れた。 一人は鎖付きの大鉈を持つ長身の女。もう一人は水晶弩を構えた小柄な男。彼らは互いの依頼人など気にも留めず、ギルとハンスへ同時に攻撃を仕掛けた。 「邪魔でスねぇ!」 ギルが魔弾を放つ。 賞金稼ぎの女は鎖を振り回して魔弾を絡め取り、男は水晶の盾で弾道を防いだ。二人は手慣れていた。乱戦を利用して距離を詰め、ギルの銃を奪おうとする。 ハンスにも水晶弩の矢が飛んできた。 ハンスは咄嗟に床へ転がり、矢をかわす。そのまま賞金稼ぎの足元へ滑り込み、ルガーで鎖の留め具を撃ち抜いた。 「俺を狙うなら、まずあいつを倒せ」 「助言のつもりか?」 「生き残るための計算だ」 ギルはその会話を聞き、くすくす笑った。 「まあまあ、仲良しさんでスこと♡」 彼女は魔動銃を空へ向けた。 魔弾を天井の配管へ撃ち込み、そこから無数の跳弾を発生させる。市場中に張り巡らされた金属管が、巨大な反射迷路へ変わった。 弾丸は賞金稼ぎを襲い、二人を動けなくさせる。女は膝から崩れ、男は水晶盾ごと壁へ叩きつけられた。 「ワタシとハンスさんの邪魔をするからデス」 「……俺を勝手に仲間にするな」 「では、次はあなたを片づけまショウ」 ギルの銃口がハンスへ戻る。 賞金稼ぎたちが倒れている今、二人の間には破壊された屋台と大量の観客しか残っていなかった。 ハンスは周囲を見回した。 市場の柱。吊られた鎖。割れた鏡。転がる薬瓶。崩れかけた積荷。天井の配管。そして、ギルの魔弾を受け続けて亀裂の入った床。 彼は銃を握り直した。 「お前は弾道を操る」 「今さら気づきまシたか?」 「弾道だけだ。弾そのものを操っているわけじゃない」 ギルの笑みがわずかに止まる。 「……続けてくだサイ」 「なら、操れるものを増やせばいい」 ハンスは一発撃った。 弾丸は、吊られていた鎖の留め具を破壊した。巨大な鉄籠が落下し、ギルの進路を塞ぐ。 ギルは横へ跳び、魔弾で鉄籠を撃ち抜こうとした。 その瞬間、ハンスが二発目を放つ。 弾丸は薬瓶を撃ち、瓶の中身が床へ広がった。滑りやすい油状の液体だった。 ギルの靴がわずかに滑る。 ほんの一瞬。 それだけで十分だった。 ハンスは三発目で天井の配管を撃ち抜いた。蒸気が噴き出し、白い霧が市場を覆う。視界が消える。 「見えなくしたところで、ワタシの弾は当たりまスよ!」 ギルが連射する。 魔弾が霧の中を飛び、壁、床、配管を跳ねてハンスを追う。ハンスは音を頼りに動き、何度も魔弾を撃ち落とした。 だが、ギルは笑っていた。 「その程度でワタシを止められると思いまシたか? 次元断層――」 「今だ」 ハンスが低く呟いた。 彼は床へ向けて銃を二発撃った。 亀裂の入っていた床が、ついに耐えきれず崩れ落ちた。 ギルとハンス、そして周囲の瓦礫が、地下の暗闇へ落下する。 市場の喧騒が遠ざかった。 地下には、古い排水路と密輸用の貨物線が広がっていた。上から落ちた商品箱が水路へ浮かび、割れた魔石が青白く明滅する。 ギルは瓦礫の上に着地し、髪を払った。 「まあ……地下デスか。雰囲気が変わって、これはこれで素敵デスねぇ」 ハンスは数メートル先の水路に落ちていた。片腕を押さえながらも、すぐに立ち上がる。 「まだ動けるのデスか。あなた、本当に可愛い……!」 「その呼び方をやめろ」 「では、ハンスさんをもっと近くで観察しまショウ」 ギルは二丁の魔動銃を構えた。 「四重どころではありまセン。全部、持ってきまスよ!」 次元断層が地下道の壁一面に開く。 無数の魔弾が暗闇から現れ、狭い通路を埋め尽くした。地上と違い、壁は近く、跳弾は複雑に反射する。避ける空間はほとんどない。 ハンスは銃を一丁、床へ置いた。 そして覚醒した。 灰色の身体の背から、巨大な翼が広がる。羽ばたきによって水路の水が巻き上がり、地下道に強い風が走った。白く輝く目が、霧と暗闇を貫く。 彼は二丁のルガーを構えた。 「俺は、何度でも生き残る」 翼が大きく羽ばたく。 ハンスの身体が跳ね上がり、壁面すれすれを飛んだ。二丁の銃が同時に火を噴く。弾丸はギルの魔弾を正面から破壊するのではなく、周囲の壁へ当たり、跳ね返り、魔弾の軌道を一つずつ逸らしていった。 ギルの弾丸は壁に当たる。 だが、ハンスは壁そのものを利用していた。 弾丸が跳ね返る先へ先回りし、さらに別の銃弾を撃ち込む。魔弾と銃弾が空中でぶつかり、青白い火花となって散った。 「そんな……!」 初めて、ギルの声に驚きが混じった。 ハンスは翼を畳み、急降下する。ギルが魔弾を放つ。ハンスは片方のルガーでそれを撃ち落とし、もう片方でギルの足元の瓦礫を撃った。 瓦礫が崩れ、ギルの足が沈む。 彼女は笑った。 「まだ、ワタシを捕らえられると思っていまスか?」 ギルは魔動銃を自分の足元へ向けた。 魔弾を撃ち込み、その反動と跳弾で身体を無理やり引き上げる。だが、その動きをハンスは待っていた。 二丁の銃弾が、左右の魔動銃の銃身を正確に撃ち抜いた。 魔動銃が歪み、発射機構が沈黙する。 ギルの目が見開かれた。 「ワタシの銃を……」 「撃つ能力が無限でも、銃口が壊れれば撃てない」 ハンスは翼を広げ、ギルの正面へ降り立った。二丁の銃口が彼女の胸元を捉える。 「終わりだ」 ギルは数秒、黙っていた。 そして、ゆっくりと笑った。 「……美しい」 「何?」 「その判断。その執念。その、生き残るためなら市場も地下も敵も全部使う狡猾さ……ああ、たまりまセン。あなたは、ワタシの最高傑作になれまス!」 ギルは壊れた魔動銃を捨て、袖口から小さなナイフを滑らせた。 ハンスの銃が火を噴く。 弾丸はナイフを弾き飛ばし、続く一発がギルの胸部へ命中した。 外傷はない。 しかし、不殺の弾丸は彼女の身体を大きく揺さぶった。ギルは水路脇の壁へ叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。 起き上がろうとしたが、腕に力が入らない。 「……キヒ……傷が、ない……」 「約束通りだ。殺してはいない」 ハンスは銃を下ろさなかった。 「だが、もう戦えない」 ギルは動かない身体で、なおも彼を見上げた。深紅の瞳には敗北よりも、収集品を見つけた子供のような恍惚が浮かんでいる。 「完璧デス……。綺麗な状態でお持ち帰りシなくては……」 「誰がお前を持ち帰る」 「ワタシが、あなたを……」 「寝ていろ」 ハンスは銃の柄で、ギルの額を軽く打った。 ギルの瞳が揺れ、彼女はようやく意識を失った。 地下道には、崩れた石の音と水の流れる音だけが残った。 上方では、裏市場の客たちが恐る恐る瓦礫の穴を覗き込んでいる。倒れた賞金稼ぎたちは意識を取り戻し、商人たちは壊れた屋台と散乱した商品を見て悲鳴を上げていた。 ハンスは翼を消し、気絶したギルの魔動銃を遠くへ蹴った。 それから、地下道の出口を見つめる。 「生き残った」 彼は呟き、二丁のルガーを収めた。 その背後で、ギルがかすかに笑った。 「……次は、逃がしまセンよ……♡」 ハンスは振り返らなかった。 「次があるなら、今度は最初に撃つ」 そう言い残し、彼は崩れた市場の地下から、ひとり歩き去った。 裏市場には、壊れた屋台、凍りついた観客、散らばった魔石、そして敗れた狂騒の魔弾だけが残された。