裏路地の奥には、古い映写室を改装した小さな部屋があった。 壁には、何年も使われていない映写機が据えつけられている。白い布を張っただけのスクリーンには、外から差し込む淡い月明かりが揺れていた。床にはフィルムの空き缶がいくつも転がり、棚の上には、誰かが置き忘れたらしい黒い端末が二台並んでいる。 その片方を、ロペは両手で抱えていた。 黒いツインテールが肩の横で揺れ、白いマントの裾が床を擦る。黒いドレスの袖から伸びた指が、端末の画面を何度も撫でた。 「ねぇピピさん、次のお話早く見せてよ!」 返事の代わりに、映写機が低く唸った。 カタ、カタ、カタ。 誰もフィルムを入れていないのに、映写機は動き出した。スクリーンに白い光が映り、やがてそこへ、短い映像が流れ始める。 扉を開ける。 机の上の封筒を取る。 三歩進む。 窓の外を見る。 最後に、画面の中央へ文字が浮かんだ。 ――伝令を待て。 「伝令って、ミルキさんのこと?」 ロペは嬉しそうに首を傾げた。 「今日はどんなお話かなぁ。ピピさん、わたし、ちゃんとできるよ。ね?」 映写機は答えない。ただ、光だけが白い画面を明滅させていた。 そのとき、部屋の扉が二度、軽く叩かれた。 ロペは映像の通りに扉を開けた。 外に立っていたのは、空色のボブヘアをした女性だった。白いマントの下には黒いスーツ。眠たげな目をして、片手に端末を持っている。 「……こんばんは、ロペ」 「ミルキさん! 遅いよ!」 「そう? 時間は来てると思うけど」 「ピピさんが、ずっと待ってたんだよ。わたしも待ってた」 「そっか。じゃあ、間に合ったね」 ミルキは部屋へ入ると、壁際の椅子に腰を下ろした。長い刀と短刀を携えているが、本人はそれらを気にする様子もなく、端末の画面をぼんやり眺めている。 ロペは彼女のすぐ隣へ座り、端末を覗き込んだ。 「なに見てるの?」 「指令」 「もう来てるの?」 「うん。さっき」 「教えて、教えて!」 ミルキは数秒、画面を見つめたまま黙っていた。それから、画面をロペのほうへ向ける。 「順番は、映写室で待機。ロペに映像を見せる。封筒を受け取る。二人で指定された場所へ行く。そこで、次の指令を伝える」 「わぁ、今日は一緒にお出かけだね!」 「そうみたい」 「どこに行くの?」 「……旧市街の時計塔の近く」 ロペはぱっと顔を輝かせた。 「時計塔! あそこ、上まで行けるかな?」 「指令には書いてない」 「書いてないなら、行っちゃだめ?」 「たぶん」 「たぶんなんだ」 「指令って、だいたいそんな感じだから」 ミルキの返事はいつも曖昧だった。けれど、曖昧さを気にしている様子はない。彼女にとって指令とは、考え込むものではなく、受け取って、伝えて、次へ進むものだった。 ロペは映写機を見上げた。 「ピピさん、封筒はどこ?」 映写機の光が一度だけ強くなった。 スクリーンに、部屋の右手にある古い机が映し出される。 ロペは立ち上がり、映像の通りに机へ向かった。机の引き出しを開け、奥にしまわれた封筒を取り出す。封筒には、黒い蝋で人差し指の印が押されていた。 「はい、ミルキさん」 「ありがとう」 ミルキは封筒を受け取ったが、すぐには開かなかった。 「開けないの?」 「ロペが開ける動作になってないから」 「そうなの?」 「今の映像は、ロペが取るところまでだった」 ロペはスクリーンを振り返った。 「ピピさん、続きは?」 映写機は沈黙している。 ロペは少しだけ頬を膨らませた。無邪気な表情だったが、その奥には、置いていかれることへの不安が小さく揺れていた。 「ねぇ、続きがないと、わたし、どうしたらいいの?」 ミルキは封筒を手にしたまま、ロペを見る。 「待てばいいんじゃない?」 「ずっと?」 「たぶん、そんなに長くないよ」 「ミルキさんは、ひとりでも待てる?」 「うん」 「寂しくない?」 「……あんまり考えないから」 ロペはその答えを聞いて、少し考えた。やがて、ミルキの袖をつまむ。 「わたし、考えちゃうよ」 「そうなんだ」 「指令が来ないと、ピピさんがわたしを忘れたのかなって思う」 「映写機は、忘れるとか忘れないとか、そういうのじゃないと思う」 「じゃあ、わたしのこと好き?」 「……たぶん」 「ミルキさんは?」 「何が?」 「わたしのこと」 ミルキはしばらく黙った。窓の外では、夜の風が細い路地を抜けている。遠くで車輪の音がして、すぐに消えた。 「嫌いではないよ」 「それ、好きってこと?」 「たぶん、近い」 ロペは満足そうに笑った。 「じゃあ、今日はずっと一緒にいてね」 「指令がそうなら」 「指令がなくても」 「……それは、考えておく」 そのとき、映写機が再び動いた。 スクリーンに新しい映像が流れる。ミルキが封筒を開ける。紙を読む。ロペに見せる。そして二人で部屋を出る。 ロペはすぐにミルキの手元を指差した。 「今だよ!」 「うん」 ミルキは封蝋を割り、封筒を開いた。中には一枚の紙が入っていた。そこには、短い文章だけが記されている。 ――時計塔前、二十三時。伝令は映写された軌跡を届けよ。代行者は受け取った指令に従え。 「何て書いてあるの?」 「時計塔の前に行く。そこで、指令を伝える」 「わたしは何をするの?」 「受け取った指令に従う」 「それだけ?」 「それだけ」 ロペは少し物足りなさそうにしたが、すぐに立ち上がった。 「じゃあ行こう! 時計塔まで競争ね!」 「走る動作は映像にないよ」 「でも、歩くのはある?」 「ある」 「じゃあ、早歩き!」 「それもたぶん、ない」 「むぅ」 ロペは唇を尖らせた。それでも、ミルキの手を取って歩き出す。ミルキは一瞬だけ手元を見たが、振りほどかなかった。 二人は映写室を出た。 裏路地には、夜の湿った空気が溜まっていた。建物と建物の隙間から見える空は細く、月は雲の向こうに隠れている。ロペは白いマントを翻しながら、映像で見た軌跡を確かめるように進んだ。 「右、左、まっすぐ。次は角を曲がる」 「覚えてるの?」 「映像が頭の中に残ってるの。ピピさんが見せたものは、わたしの中で動くんだよ」 「便利だね」 「うん。でも、ときどき怖いよ」 「どうして?」 「わたしがやりたいことじゃなくても、体が先に動くから」 ロペは笑顔を保ったまま、前を向いていた。 「でも、ピピさんが見せるなら、きっと正しいんだよね」 「そうだね」 「ミルキさんもそう思う?」 「思うようにしてる」 「同じだね」 「そうかも」 やがて、旧市街の時計塔が見えてきた。古い石造りの塔は、夜空に向かって高く伸びている。時計の針は、二十二時五十八分を指していた。 塔の前には、誰もいない。 ロペは周囲を見回した。 「誰に指令を伝えるの?」 「わからない」 「人が来るの?」 「指令には、相手のことは書いてない」 「じゃあ、どうするの?」 ミルキは端末を確認した。画面には何も表示されていない。 「待つ」 「また?」 「また」 二人は時計塔の前で立ち止まった。 ロペは最初、じっとしていた。けれど一分も経たないうちに、靴先で地面の小石を転がし始めた。 「ミルキさん」 「うん」 「寒い」 「マント、貸そうか?」 「ミルキさんが寒くなるよ」 「私は平気」 ミルキは自分の白いマントを外し、ロペの肩へ掛けた。ロペのマントの上からさらに重ねたため、彼女は白い布に包まれて、まるで小さな雪だるまのようになった。 「ふかふか」 「そう?」 「うん。ミルキさんの匂いがする」 「そうなんだ」 「ねぇ、ミルキさんは寒くない?」 「少し」 「じゃあ返す」 「いいよ。ロペが着てて」 「命令?」 「お願い」 ロペは目を丸くした。 「ミルキさん、お願いって言うんだ」 「言うよ」 「初めて聞いた気がする」 「そう?」 「うん。じゃあ、聞いてあげる」 ロペはマントの前をぎゅっと握った。 その直後、時計塔の鐘が鳴った。 低く長い音が、夜の街へ広がっていく。 二十三時。 ミルキの端末が淡く光った。 「……あ、指令来た、バイバイ」 「えっ、バイバイって、どこ行くの?」 「伝える場所が変わった」 「わたしも行く!」 「ロペは、ここで待機」 ロペの手が、ミルキの袖を強くつかんだ。 「やだ」 「指令だから」 「でも、わたしの指令は?」 「まだ来てない」 「じゃあ来るまで一緒にいて」 「……」 ミルキは端末とロペを交互に見た。 画面には、新しい軌跡が映し出されている。塔の裏へ回る。階段を下りる。地下の通路を抜ける。誰かに指令を伝える。 そこに、ロペの姿はない。 ロペはスクリーンのない空間を見つめるように、ミルキの端末を見ていた。 「わたし、置いていかれるの?」 「指令では、そうなってる」 「ピピさんは、わたしが一人でも平気だと思ってるのかな」 「……ロペ」 「わたし、ちゃんと待てるよ。泣かないし、困らせないし、ちゃんと動くから。でも、一人はいや」 ミルキは黙って端末を閉じた。 「どうしたの?」 「少しだけ、指令の確認をする」 「確認?」 「私が一人で行くとは書いてある。でも、ロペが来てはいけないとは書いてない」 「じゃあ!」 「ついてきていいよ」 ロペの顔が明るくなる。 「本当に?」 「うん。ただし、映像の邪魔をしないこと」 「わかった!」 「それから、迷子にならないこと」 「ミルキさんの手を離さない!」 「それならいい」 二人は時計塔の裏へ回った。 地下へ続く階段は狭く、壁には古い掲示板が残されていた。そこには、かつてこの街で交わされた連絡事項が、色あせた紙のまま貼られている。 ミルキは映像の軌跡に従って進み、ロペはその横で小さな声を出した。 「ここ、秘密基地みたい」 「そうかもね」 「人差し指の人たち、みんなここを知ってるの?」 「私は知らなかった」 「ミルキさんでも知らないことあるんだ」 「たくさんあるよ」 「じゃあ、わたしと一緒だね」 「そうだね」 地下通路の先には、小さな部屋があった。中央に机があり、その上に新しい映写機が置かれている。白い布のスクリーンには、誰かの影だけが映っていた。 影は二人に向かって、封筒を差し出す動作を繰り返している。 ミルキは映像の通りに机へ近づいた。 ロペも隣に立つ。 「伝令、指令を伝える」 ミルキは淡々と告げた。 「映写室へ戻れ。次の映像を待て。代行者は、伝令と共に待機せよ」 影は何も答えなかった。ただ、差し出す動作だけが繰り返される。 ミルキは机の上から封筒を取った。 「これで終わり?」 「たぶん」 「帰れる?」 「うん」 「一緒に?」 「一緒に」 ロペはミルキの手を握った。 「今度は、わたしから離れないでね」 「指令が変わらなければ」 「指令が変わっても」 ミルキはすぐには答えなかった。だが、帰り道ではロペの歩幅に合わせ、彼女が足を止めるたびに待った。 映写室へ戻ると、映写機はすでに次のフィルムを回していた。 スクリーンには、二人が部屋へ入り、隣り合って椅子に座る姿が映っている。 ロペは映像の通りに椅子へ腰を下ろした。ミルキも隣に座る。 「ねぇ、ピピさん。今日のお話、面白かったね」 映写機は静かに回り続けた。 「ミルキさんは、どうだった?」 「長かった」 「それだけ?」 「ロペがいたから、退屈ではなかった」 「それって、好きってこと?」 「たぶん」 ロペは満足そうに笑い、ミルキの肩へ寄りかかった。 しばらくして、スクリーンの映像が途切れる。 代わりに、白い画面へ一行の文字が浮かんだ。 ――本日の印象を記録せよ。 「印象だって」 ロペはミルキを見上げた。 「ミルキさんから言って」 「私から?」 「うん。わたしの印象!」 ミルキは少しだけ首を傾げた。 「ロペは、指令に忠実で、元気で、よく話す。あと、寂しがり」 「それだけ?」 「それから……一緒にいると、待つ時間が短く感じる」 ロペは目を輝かせた。 「それ、すごくいい印象だね!」 「そう?」 「うん。じゃあ、わたしの番。ミルキさんは、ぼんやりしてて、ゆっくりで、たまにどこかへ行っちゃう。でも、ちゃんと戻ってくる人」 「戻ってくるよ」 「それから、マントを貸してくれる人」 「それは印象なの?」 「大事な印象だよ」 ロペはミルキの手を握ったまま、にっこり笑った。 「ミルキさんは、寂しくないって言うけど、たぶん少し寂しい人。だから、わたしが隣にいてあげるね」 「……そう」 「嫌?」 「嫌ではないよ」 「好き?」 ミルキは映写機の光を見上げた。 「たぶん、好き」 ロペは嬉しそうに笑った。 映写機は二人の姿を白いスクリーンへ映し出す。隣り合って座る影。重なった手。静かな部屋に響く、フィルムの回転音。 そして画面の下に、最後の文字が浮かんだ。 ――記録終了。 ロペはミルキの肩に寄りかかったまま、目を閉じる。 「ねぇ、ピピさん。次のお話も、ミルキさんと一緒がいいな」 映写機は答えない。 けれど、白い光は消えなかった。