意識が浮上したとき、最初に届いたのは不快なほどに澄んだ「音」だった。 ――ブゥゥゥゥゥゥゥゥ……。 低い、一定の周波数で鳴り続ける電気的なハム音。耳の奥にこびりつくようなその音に、アロエはゆっくりと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、眩いほどの白。塗り潰されたような白いタイル張りの壁と、鏡のように磨き上げられた白い床。そして、天井から降り注ぐ、冷徹なまでに均一な蛍光灯の白光だった。 (……ここは、どこだろう?) アロエは、自分の丸く柔らかい体を揺らして周囲を見渡した。足元には、透き通った水が湛えられている。深さは膝ほどだろうか。水面は波一つ立っておらず、静止した硝子のように静かだ。鼻を突くのは、強烈な消毒塩素の匂い。プールの匂いだ。 だが、おかしい。ここには監視員もいなければ、賑やかな子供たちの声もない。あるのは、無限に続くかのように入り組んだプールと、どこへ繋がっているのかも分からない、不気味にうねるプラスチック製のプールスライダーだけだ。 「……オハヨウゴザイマス……ゴシュジンサマ……ピピ」 不意に、隣から機械的な声が聞こえた。振り返ると、そこにはメタリックな質感を持つ少女型のロボットが、呆然と立ち尽くしていた。【ホームロボット】シズカver.5である。彼女のセンサーが、周囲の環境を高速でスキャンしていた。 (あ、シズカちゃんだ。こんにちは!) アロエは口を開かずに、シズカの脳内(あるいは電子回路)へ直接言葉を流し込む。アロエの特性である念話だ。 「……! アロエ様。認識しました。現在地、不明。環境分析……屋内プール施設と思われますが、建築構造に論理的な整合性が認められません。出口が見当たりません。ピピ」 シズカの声には、ロボットながらも困惑の色が混じっていた。彼女にとって「家」を守ることこそが至上の使命であり、このように「家」の概念すら存在しない無機質な空間に放り出されることは、プログラム上のエラーに近いストレスだった。 「わあぁっ! なんだここ! 真っ白で気持ち悪いなぁ!」 水しぶきを上げて飛び込んできたのは、黒い将軍の帽子を被った少年、kidだった。彼は手にした光線銃を構え、周囲を警戒している。しかし、その瞳には恐怖よりも、未知の場所への好奇心と、少々の苛立ちが混在していた。 「kidくん、落ち着いて。誰か攻撃してくる人はいないみたいだよ」 アロエが穏やかに念じると、kidは「ちっ」と舌打ちして銃を下ろした。 「だってよ、いきなりこんなところに飛ばされるなんて反則だろ。ネットで見たことあるぜ、こういうの。『BackRooms』とかいうやつか? 壁が黄色いんじゃなくて白いけど……まあ、似たようなもんだろうな」 kidは不機嫌そうに、水に浸かったブーツをパチャパチャと鳴らした。その時、背後のプールスライダーから、どろりとした黒い影が這い出してきた。 「……うわぁぁぁ!!」 kidが叫び、反射的に光線銃を構える。そこには、異常に長い腕と脚を持つ、痩せこけた黒色の人型――スケリーが、ニヤリとガタガタの歯を見せて立っていた。鋭い目が、獲物を見つけた子供のように輝いている。 「(……びっくりしたかー!)」 スケリーは心の中で快哉を叫んでいた。彼は驚かせるのが大好きだ。この不気味な空間にやってきて、まず最初にしたことは、誰かが来るのを待ち伏せして、最大限に恐ろしい姿で登場することだった。 しかし、スケリーの期待はすぐに裏切られる。アロエがふわりと彼の前に浮遊し、優しく念じたからだ。 (こんにちは、スケリーくん。そんなに驚かさなくても大丈夫だよ。私たちはみんな友達になりたいと思っているからね) 「……えっ」 スケリーは呆気に取られた。普通は悲鳴を上げて逃げ出すか、武器で攻撃してくる。だが、この丸い生き物は、恐怖どころか慈愛に満ちた視線を向けてきている。スケリーは慌てて、擬態の能力を使った。瞬時に、彼はどこにでもいそうな親しみやすい少年の姿へと姿を変える。 「あ、いや! 今の、なーんて冗談だよ! 俺はスケリー。よろしくな!」 スケリーは照れくさそうに頭を掻いた。彼は本当は仲良くなりたいのだが、その方法が「驚かせて、その反応を見てから話し始める」という極端なルートしか分からなかった。 「ふふっ、面白い子だね」 アロエが笑っていると、遠くから朗らかな声が響いてきた。 「おーい! 誰かそこにいるのー?」 歩いてきたのは、緑色のトレッキングスタイルに身を包んだ魔女、エルカだった。彼女は迷子のような顔をしながらも、すれ違う壁や柱にさえ「こんにちは」と挨拶をしながら、軽やかな足取りで近づいてくる。 「あ、皆さん! こんにちは! ここ、とっても不思議なところですね。散歩には最高です!」 「エルカさん! あなたまでここにいたんですか!」 アロエが声をかけると、エルカはにこりと微笑んだ。彼女にとって、未知の場所をふらふらと歩くことは趣味のようなものだ。方向音痴の彼女にとって、この複雑怪奇な構造のプールは、むしろ「どこへ行っても正解」という心地よい迷宮だったのかもしれない。 「さて、どうしましょうか。ここから出る方法は分かりますか?」 シズカがAI分析を開始する。彼女の瞳の中でデータが高速で流れる。 「分析結果……不可。この空間は三次元的な物理法則を無視して構築されています。出口の確率論的な計算は不能。ですが、一つだけ分かることがあります。この場所には、私たちに対する『敵対的な意志』を持つ存在が全く検出されません」 その言葉に、一同は奇妙な感覚に襲われた。ここは安全だ。誰にも襲われない。飢えも渇きも、今のところは感じない。ただ、静寂と塩素の匂いと、あの不快なハム音が永遠に続く。それが、かえって精神を削り取るような、えも言われぬ不気味さを醸し出していた。 「……安全すぎるのが、一番怖いんだよな」 kidがぼそりと呟いた。正気を保たなければならない。この静寂に飲み込まれ、「ここにいてもいい」と思ってしまった瞬間、本当の意味で帰れなくなるのではないか。そんな根源的な恐怖が、白いタイルの隙間から染み出してくるようだった。 「大丈夫だよ。みんなで一緒にいれば、怖くないもんね」 アロエが励ますように念じる。だが、運命は残酷だった。 ふと、視界が歪んだ。ある瞬間、猛烈な白い光が弾け、あるいは単に意識が一瞬途切れただけだったのかもしれない。気づいたとき、アロエの隣にいたシズカの姿が消えていた。右側を見ていたはずのkidも、左側にいたスケリーも、どこにもいない。 「……え?」 アロエは周囲を見渡した。そこは、先ほどまでいた場所とよく似ているが、微妙に違う。スライダーの角度が変わり、水の色がわずかに青みを増している。そして、辺りには誰もいなかった。 (みんな……!? どこにいるの!?) アロエは大声で念じたが、返ってくるのは「ブゥゥゥ」という蛍光灯の音だけだ。この場所は、不規則に、されど規則的に、人を分断する仕組みを持っているようだった。散開。それはこの場所が課した、唯一の「試練」だった。 一人になったアロエは、ゆっくりと歩き出した。実体がないため、水面を滑るように移動する。世界中の知識を持つアロエでさえ、この場所の正体は分からない。だが、彼女は絶望しなかった。彼女には、好きなものを好きなだけ出せる能力がある。 (寂しいから、お菓子を出そうかな) ポン、と音を立てて、豪華なティーセットと山のようなケーキが現れた。白いタイル張りの不気味な空間に、場違いなほど色彩豊かなスイーツ。アロエはそれを眺めながら、仲間たちのことを考えた。 (きっと、みんな大丈夫。シズカちゃんは分析して道を切り開いているし、kidくんは光線銃で道を照らしているはず。スケリーくんは誰かを驚かせて遊んでいるかも。そしてエルカさんは……たぶん、一番楽しそうに迷子になっているね) アロエの心は穏やかだった。彼女にとって、孤独は恐ろしいものではない。ただ、再会したときに何を話そうか、それを考える時間が心地よかった。 一方、その頃。kidは苛立っていた。 「クソッ! どこまで行けばいいんだよ!」 彼は光線銃を乱射し、その残像を足場にして壁を駆け上がっていた。高いところから見下ろせば出口が見えるかと思ったが、上に行けば行くほど、同じようなプールの風景が幾重にも重なって広がっていた。まるでフラクタル構造のような、終わりなき建築物。 「……おい、誰かいないか!」 叫び声が虚しく響く。ふと、彼は自分の精神が、少しずつ摩耗していくのを感じた。真っ白な世界。何も起きない時間。ただ歩き、ただ見る。この「絶対的な安全」こそが、最強の精神攻撃だった。 「あははは! 見て見て、このスライダー、逆走できるよ!」 不意に聞こえた声に、kidは飛び上がった。見れば、スケリーが(今度は人間形態で)猛スピードでスライダーを逆走して登ってきたところだった。 「スケリー! お前、どこにいたんだよ!」 「いやー、なんか変な部屋に入ったら、いつの間にかここに着いたんだよね。あ、そうだ! びっくりさせるタイミング逃したから、もう一回やっていい?」 「やるか! いいから行くぞ、ここを出る方法を探すんだ」 二人は合流し、再び歩き始めた。互いの存在があるだけで、正気へのしがみつき方は格段に強くなる。孤独という名の毒を、友情という名の特効薬で中和しながら、彼らは白い迷宮を突き進んだ。 その頃、シズカは独りで、非常に深刻な問題に直面していた。 「……矛盾。矛盾しています。ピピ」 彼女の前には、完璧な直角に曲がった廊下がある。右に進んでも、左に進んでも、戻っても、必ず同じ「赤いタイルが一枚だけ混じった場所」に戻ってくる。ループ現象だ。 「物理的な移動距離は正の数を示していますが、座標は変動していません。この空間の管理権限をハッキング……不可。権限が存在しません。ここは『作られた場所』ではなく、『現象としての場所』です」 シズカは膝をついた。ロボットである彼女にとって、論理的に説明できない事象は最大のストレスだった。だが、彼女の胸にある「家庭的」な心は、ここで諦めることを許さなかった。 (ゴシュジンサマ……いえ、アロエ様や皆さんが待っています。私は、皆さんの帰る場所を守るロボット。ならば、まずは自分が、皆さんの『帰るべき道』を見つけなければなりません) 彼女は自身の演算能力を最大まで引き上げた。効率的なルート探しではなく、「最も不自然な違和感」を探す方向へ。正気でいるためには、あえて狂った思考回路をシミュレートする。それが彼女の出した最適解だった。 そして、最も幸運だったのはエルカだろう。 「あらあら、あっちに面白い階段がありますね。ちょっと行ってみましょう」 彼女は完全に迷子だった。方向音痴の極みである彼女は、自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのか、全く分かっていない。しかし、彼女には『帰宅の道筋』が見える。それは目的地へ最短で辿り着く道ではない。彼女が「帰りたい」と願ったとき、世界が彼女を導くという、絶対的な運命の力だ。 「ふふふ、なんだか懐かしい匂いがします。塩素の匂いだけど、どこかお家のリビングみたいな……」 エルカが鼻歌を歌いながら角を曲がると、そこには信じられない光景が広がっていた。白と青の世界に、ぽつんと、不自然に置かれた「茶色の木目のドア」。 ドアには、手書きの、少し震えた文字でこう書かれていた。 『Exit』 「あ、出口だ。皆さん、早く来てくださいー!」 彼女の声は、この空間の法則を無視して、離れた場所にいる仲間たちの元へ届いた。アロエが、kidとスケリーが、そしてシズカが、その声に導かれるように走り出した。 彼らは、ある一点で同時に合流した。誰かがテレポートしたのか、あるいは空間が彼らを寄せ集めたのか。それは分からない。ただ、目の前にはエルカが指差す、あの木目のドアがあった。 「本当にここから出られるのかな?」 kidが不安げに呟く。あまりにも唐突で、あまりにも単純な出口。罠ではないかという疑念がよぎる。しかし、アロエが優しく微笑んだ。 (大丈夫。信じてみようよ。だって、ここには私たちを止める人は誰もいないんだから) 「……同意します。分析の結果、このドアから発生している波長は、この空間の周波数とは完全に異なります。外部世界への接続点である可能性が極めて高いです。ピピ」 シズカの言葉に、全員が頷いた。スケリーは最後にもう一度、みんなを驚かそうとして背後から飛び出そうとしたが、エルカに「さあ、行きましょう!」と背中を押され、そのままドアへと押し込まれた。 一人、また一人と、ドアの向こう側へ消えていく。 最後に残ったエルカが、ドアノブに手をかけた。彼女はふと振り返り、真っ白な、不気味で、けれどどこか懐かしいプールを見つめた。 「いい散歩でした。またいつか、どこかで」 彼女がドアを開け、中に入った瞬間。パチン、という小さな音がして、世界が反転した。 ――目が覚めた。 アロエは、自分の柔らかいベッドの上にいた。窓からは暖かい朝日が差し込み、遠くで鳥の声が聞こえる。塩素の匂いも、不快なハム音もない。ただの、平和な日常の朝だ。 (……夢だったのかな) そう思ったが、意識の底に、あの白いタイルの感触と、仲間たちと過ごした奇妙な時間が、鮮明な記憶として残っていた。現実的すぎる夢。あるいは、現実よりもリアルな異世界。どちらだったとしても、もうどうでもいいことだった。 同じ頃、kidは自分の部屋で、黒い将軍の帽子を被ったまま飛び起きていた。「なんだ、ただの夢か!」と叫びながら、彼は心の中で、あの不思議な仲間たちに、もう一度だけ会いたいと思った。 スケリーは、暗い部屋の隅で、自分の長い腕を眺めながらニヤリと笑っていた。「次はもっとすごい驚かせ方を考えてやる」と。けれど、その心は、誰かに認められた充足感で満たされていた。 シズカは、充電ドックで目を覚まし、すぐに家事のルーチンを開始した。彼女のメモリには、「未知の空間での生存戦略」という新しいデータが保存されていたが、彼女はそれを「大切な思い出」というフォルダに分類して、大切に保管した。 そしてエルカは、いつものように道端で誰かに挨拶をしながら、ふらふらと散歩していた。 「ふふふ、次はどこへ行きましょうか」 彼女の足取りは軽く、その視線の先には、また新しい「帰るべき場所」へと続く道が見えていた。 白いプールの迷宮は、今もどこかで、誰かが来るのを待っているのかもしれない。けれど、彼らにとってそこは、もう二度と戻る必要のない、けれど忘れられない、静謐な安らぎの場所だった。 正気を保ち続けた彼らだけが、日常という名の、最高の報酬を手に入れたのだから。