静寂が、耳を劈く。 いや、静寂ではない。そこにあるのは、低く、一定の周波数で鳴り続ける「ブー」という不快なハム音だった。蛍光灯が放つ、あまりにも純白で、あまりにも無機質な光。視界のすべてを塗りつぶさんばかりの白いタイル。壁も、天井も、床も。そして、足元には膝まで浸かるほどの、透き通った水が湛えられていた。 「……う、うーん……」 最初に目を覚ましたのは、佐藤太郎だった。彼はゆっくりと上体を起こし、自分の状況を確認して絶叫しそうになった。しかし、喉から出たのは情けない小さな悲鳴だった。 「な、なにここ!? どこ!? 夢? 夢だよね!?」 彼は慌てて周囲を見渡した。そこは巨大なプールのようだった。だが、泳ぐためのプールではない。どこまでも、不規則に、されど幾何学的な規則性を持って、白いタイル張りの通路と水溜まりが迷路のように入り組んでいる。天井からは、どこに繋がっているのかも分からないプラスチック製のプールスライダーが、巨大な腸のようにうねりながら伸びていた。 「おい、誰かいないか! 助けてくれ!」 太郎の叫びに応えるように、少し離れた場所で、奇妙な形の男がむっくりと起き上がった。棒人間である。丸い頭に一本線の胴体。白い手足。ヘンリー・スティックミンは、自分の状況を把握すると、呆れたように肩をすくめた。 「Well, this is not where I expected to wake up. (まあ、ここで目覚めるなんて予想外だったな)」 ヘンリーは周囲を見渡し、やがて自分のポケットを弄った。彼は状況を深刻に捉えていない。むしろ、この奇妙な空間に「攻略法」があるのではないかと、ゲーム的な視点で分析し始めていた。 「……ふむ。ここ、ネットで話題になっていた『Backrooms』とかいうやつに似てないか?」 そう呟いたのは、眼鏡をかけた知的な風貌の青年、武田本音だった。彼は背中の古書バッグをしっかりと抱え、分析的な視線で壁のタイルを指でなぞっている。 「いいえ、ヘンリーさん。構造は似ていますが、あちらは黄色い壁のオフィスビルが主流のはず。ここは……いわゆる『Poolrooms』に近い。リミナルスペース、つまり境界空間の一種でしょうね。不気味なほど新品で、生活感が一切ない。消毒塩素の匂いが鼻につくわ」 「リミナル……? よくわからないけど、とにかく脱出する方法を探そうぜ」 太郎が半泣きで訴える。そんな彼らの背後から、音もなく、一人の男が現れた。黒い忍装束に身を包み、鋭い眼光を放つ男、召幸である。彼は周囲に敵がいないことを瞬時に判断し、腕を組んで静かに口を開いた。 「……気配はなし。だが、この場所、正気が削られる感覚がある。注意しろ」 「忍者がいる! 本物の忍者がいるぞ!」 太郎が驚愕する中、さらにもう一人、不思議な存在がふわりと現れた。相舞もこである。彼女はもこもことした、正体不明の柔らかそうな雰囲気を纏い、不思議そうに首を傾げていた。 「ふぇ……? ここ、おふろ? おおきいねぇ」 「お風呂じゃないと思うよ、もこちゃん……」 太郎が力なく答える。こうして、全く異なる背景を持つ五人と一匹(?)のグループが、この白い迷宮に集結した。 彼らはまず、方向を決めて歩き出すことにした。足首まで浸かる水が、歩くたびに「チャプ、チャプ」と心地よいが、同時に心細くなる音を立てる。天井の蛍光灯は絶えずハム音を鳴らし、彼らの精神をじわじわと削っていく。 「ねえ、本当に誰もいないの? 誰か管理人がいたり、化け物がいたりしないの?」 太郎が不安げに尋ねる。武田本音は皮肉っぽく口角を上げた。 「いいえ。むしろ、ここが『完全に安全』であることの方が不気味だと思わない? 敵対者が一人もいない。ただ、静寂と白さと水があるだけ。人間は、意味のない空白に耐えられない生き物なのよ。正気を保つことが、ここでの唯一の生存戦略でしょうね」 「Positive thinking! (前向きにいこうぜ!)」 ヘンリーが親指を立てて笑う。彼は試しに、空中から【パロディ】の力で、どこからともなく「巨大なアヒルのおもちゃ」を取り出した。それを水面に浮かべると、プカプカと心地よく漂い始める。そのあまりに場違いな光景に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。 しかし、その安らぎは長くは続かなかった。 「……あれ?」 もこが、不思議そうに指を差した。彼らはいつの間にか、四叉路のような場所に差し掛かっていた。そして、ふとした瞬間に、誰かが消えた。 「えっ、太郎くん!?」 本音が叫ぶ。つい一秒前まで隣にいたはずの佐藤太郎の姿が、忽然と消えていた。水面に波紋一つ立っていない。ただ、彼がいた場所には、冷たい水だけが残されていた。 「な、なんだ!? 消えた!? どこに行ったんだ!」 召幸が即座に警戒態勢に入り、周囲を見渡すが、視界にあるのはどこまでも続く白いタイルと水だけである。彼らは慌てて周囲を探索したが、太郎の姿は見当たらない。どうやらこの空間は、物理的な距離を無視して、意識せずとも人々を分断させる性質を持っているようだった。 一方、一人取り残された佐藤太郎は、パニックに陥っていた。 「うわああああ! 助けて! 誰か! 誰かいないの!?」 彼は狂ったように走り出した。水しぶきを上げ、右へ左へ。だが、どれだけ走っても景色が変わらない。白い壁、白い床、そして不気味な蛍光灯。どこを向いても同じ景色が繰り返される。もはや方向感覚など意味をなさなかった。 「怖い……怖いよ……。おばあちゃん……」 極限の恐怖に襲われた太郎が、ふと足元を見ると、そこには自分が持っていた「ハサミ型爪切り」が落ちていた。彼はそれを必死に握りしめる。一般人である彼にとって、それが唯一の武器だった。 その時、彼は気づいた。ある方向から、微かに「笑い声」のようなものが聞こえることに。 (……誰かいるのか!?) 太郎は勇気を振り絞り、その声の方へと向かった。しかし、そこにいたのは人間ではなかった。それは、壁から染み出したような、形のない「白さ」だった。攻撃してくるわけではない。ただ、そこに存在しているだけで、見る者の精神を白く塗り潰そうとする、空間の意志のようなもの。 「ひぃっ!!」 太郎が腰を抜かした瞬間、彼を襲ったのは強烈な圧迫感だった。だが、その絶望的な瞬間、彼の胸元で何かが光った。彼自身も忘れていた、亡き祖母から譲り受けた小さな護符。 パァァッ!! 空中に鮮やかな桜の紋様が刻まれた。同時に、彼を押し潰そうとしていた不可視の圧力が、完全に拒絶され、そのまま跳ね返された。衝撃波が白い壁を揺らし、空間に亀裂が入る。 「……え?」 太郎は呆然とした。自分が助かったことよりも、一瞬だけ脳裏に浮かんだ、優しく微笑む祖母の記憶に涙が溢れた。 「よかった……。まだ、生きてられる……」 一方、残されたメンバーたちも、それぞれの方法でこの空間を攻略しようとしていた。召幸は、もどかしさに耐えかねて口寄せの術を展開した。 「……不便な場所だ。索敵のために口寄せを出す」 ドォォォォン! 激しい煙と共に、三人の女性が現れた。紅い髪の上品な仙狐、白い髪の陽キャな蛇女、そして青い髪の神々しいロリ龍。彼女たちは現れた瞬間、周囲の不気味な静寂を塗り替えるほどのエネルギーを放った。 「あらあら、召幸様。こんな寂しい場所に連れてきてくださるなんて、お忍びのデートかしら?」 仙狐が妖艶に微笑み、召幸の腕に抱きつく。 「もー! 召幸! ここ、全然楽しくないじゃん! もっと派手に暴れさせてよ!」 蛇女が彼の肩を叩き、龍の少女が足元で跳ね回る。 「召幸! どこに敵がいるの? 私が全部ぶっ飛ばしてあげるからね!」 召幸は、額に青筋を立てながら、冷徹な表情を維持しようとしていた。だが、その耳は真っ赤である。 「……静かにしろ。今は探索中だ。それに、なぜお前たちは毎回こうなる。忍としての実用的な形態で出ろと言っているだろう」 「えー? 最近の流行りだってばぁ」 龍の少女が頬を膨らませる。このカオスな状況に、武田本音は眼鏡をクイと上げ、溜息をついた。 「……まあ、賑やかなのはいいことね。この空間の最大の敵は『孤独』と『退屈』。彼らがいることで、正気を保ちやすくなるわ。合理的な判断よ」 「I like this party. (このパーティー、気に入ったぜ)」 ヘンリーは、具現化したコンビニのコーヒーを飲みながら、満足そうに頷いた。彼は【ソロトレーター】のスキルを使い、壁のタイルの隙間に潜り込むことで、空間の構造を分析しようとしていた。彼にとって、この世界は巨大なパズルに過ぎない。 「……待て。あそこだ」 ヘンリーが指差した先。無限に続くプールスライダーの終点に、不自然な「影」があった。それは、この純白の世界において、唯一存在する「茶色」だった。 木目のドアである。 「Exit……?」 ドアには、手書きのような雑な文字でそう書かれていた。一行は、希望に突き動かされてそこへ向かった。道中、再びもこが「あれ」を発動させた。彼女がふわりと手をかざすと、足元の水が急に「マシュマロ」のようにふわふわになり、彼らは跳ねるように高速で移動することができた。 「ふふ~ん、いいかんじ~」 もこの能天気な声に導かれ、彼らはついにそのドアの前に到達した。だが、そこに立っていたのは、途中で離れ離れになっていた佐藤太郎だった。 「みんな!!」 「太郎くん!」 再会を喜ぶ間もなく、彼らはそのドアノブに手をかけた。しかし、ヘンリーだけは一瞬、躊躇した。 (……ここから出れば、全部終わる。でも、この不気味なほど安全な場所も、案外悪くないんじゃないか?) 彼は【マルチエンド】の能力を無意識に使い、別の選択肢を想像した。ここに留まり、この空間の王になるルート。あるいは、さらに深く潜り、この世界の真理を暴くルート。 だが、隣で太郎が「早く家に帰って、おばあちゃんの作ったご飯が食べたい」と泣きそうに呟いているのを見て、ヘンリーは苦笑した。 「Alright, let's go home. (よし、家に帰ろうぜ)」 彼らは一人ずつ、その木目のドアをくぐった。 ――パチン。 意識が途切れた。次の瞬間、佐藤太郎が目を覚ましたのは、自分の部屋のベッドの上だった。窓から差し込む朝日。時計の針が刻む現実的な音。塩素の匂いは消え、代わりに使い古された布団の匂いがした。 「……夢……だったのか?」 彼は自分の手を見た。そこには、あの世界で握りしめていたハサミ型爪切りが、しっかりと握られていた。夢にしては、あまりにも記憶が鮮明すぎる。 武田本音は、大学の図書館で本を閉じた。ふと、自分のノートに「リミナルスペース:白いプール」という走り書きがあることに気づき、不敵に微笑んだ。 召幸は、任務の合間にふと空を見上げた。なぜか、最近は口寄せした美女たちが、現実世界でも彼を追いかけ回すようになっていた。彼は深い溜息をつき、忍として人生で最大の難問に直面していることを悟った。 相舞もこは、どこか知らない場所で、ふわふわとした綿菓子を食べていた。彼女はふと思い出し、「あのおふろ、楽しかったなぁ」と小さく呟いた。 そして、ヘンリー・スティックミンは、自分の部屋でパソコンを開いていた。画面には、彼が書き残した「プール脱出攻略ガイド」のドラフトが並んでいる。 彼は満足げに、一つのボタンをクリックした。 【RETRY】 「Next time, I'll bring a bigger inflatable duck. (次はもっとデカいアヒルを持っていくか)」 白い迷宮は、今もどこかで、誰もいないプールにハム音を響かせ、次の訪問者が迷い込むのを静かに待っている。不気味なほど安全に、そして残酷なほど孤独に。