理街の朝は、いつも通りに始まった。 空は薄い灰色だった。雨が降るのか、降らないのか、窓の外だけを見ている人間には判断しにくい色合いである。だが理街の住民たちは、傘を持って出るかどうかで悩まなかった。 駅前の大型街頭画面に、理チャンネルのロゴが映ったからだ。 理スタジオから送られる、予知による放送。理の外に通じる予知能力者たちが作り上げた、奇妙でありながら住民にとっては生活必需品の番組だった。 『おはようございます。理チャンネル、朝の天気予報です』 画面の中で、平木径が穏やかに微笑んだ。 清潔な衣装、整えられた髪、落ち着いた声音。彼女の隣には、キャスターの真名陽が立っている。二人の後ろには、雲の動きではなく、これから起きる出来事の断片を映す不思議な背景が広がっていた。 『本日の午前十時二十分、理街西区にて、空から青い魚が三十七匹降ってきます。魚はすべて生きていますが、触れると一時間だけ自分の名前を忘れます。西区へお出かけの方は、魚に触れないようご注意ください』 『なお、魚は食用に適していません。調理しても、名前を忘れる効果だけが残ります』 真名が淡々と補足した。 画面を見上げていた駅員が、手帳に予定を書き込む。通行人の一人は、魚を拾うための網を買おうと考えたが、すぐに思い直した。名前を忘れるというのは、生活上かなり面倒だった。 理街では、空から魚が降ること自体は異常ではない。予報されないことの方が、よほど問題なのである。 『続いて、今週のニュースです』 平木の声が少しだけ低くなった。 『月曜日、理高校の第三校舎で、階段を下りた生徒が一段ごとに別の職業へ転職する現象が起きます。対象者は最大で八つの職業を経験しますが、本人に自覚はありません。階段の踊り場に設置される黄色い紙へ、現在の職業を書き込むことで回避できます』 『火曜日、理街中央商店街のパン屋で、購入したパンが購入者の過去を一つだけ告白します。告白内容が店内放送で流れるため、秘密のある方は火曜日の利用を避けてください』 『水曜日、理高校の生徒会室において、誰も座っていない椅子が生徒会長を名乗り始めます。椅子への返答、敬礼、投票行為を行わないことで、現象は三十分以内に終了します』 教室の一角で、男子生徒が飲みかけの牛乳を止めた。 彼の名前は家田柱。理高校の生徒会長であり、学校内では比較的穏当な異能力者として知られている。比較的、という言葉が必要なのは、理高校において完全に安全な人物などほとんど存在しないからだった。 家田は放送を聞きながら、窓の外を見た。 「椅子が僕を名乗るのか」 「会長、そこを気にするんですか?」 隣で書類を整理していた阿礼有紗が顔を上げた。 生徒会副会長。清楚な雰囲気をまとった、整った顔立ちの少女である。口調も穏やかで、仕事も丁寧だ。だが、彼女を知る者は誰も、その外見だけで判断しない。 有紗は能力を持たないことになっている。 しかし、理高校の生徒たちは知っていた。彼女が怒らせた異能力者を、能力の種類や規模に関係なく、ことごとく拳で黙らせてきたことを。 「椅子に生徒会長を名乗られるのは、困ります。生徒会長は一人ですから」 「いや、困るのはそこだけじゃないだろう」 「では、どこが問題ですか?」 「……椅子に敬語を使うべきかどうかとか」 家田が真剣に答えると、有紗は少し考えた。 「会長が礼儀を守る必要はあります。ですが、相手が椅子なら、まず本人確認をすべきでしょう」 「本人確認って、椅子に身分証を出させるのかい?」 「出せないなら、なおさら生徒会長ではありません」 有紗は淡々と言った。 その会話を、教室の後方から聞いていた女子生徒が小さく笑う。だが笑い声はすぐに止まった。 理チャンネルの画面に、臨時ニュースの文字が浮かんだからだ。 『ここで臨時ニュースです』 平木径がこちらを向いた。 『今週、理高校生徒会副会長、阿礼有紗さんの周辺で、いくつかの出来事が発生します』 教室の空気が固まった。 有紗自身も画面を見上げる。 『月曜日、校内の複数の異能力者が、阿礼さんに対して軽率な挑発を行います。挑発者は全員、理由を説明できないまま保健室へ向かうことになります。回避方法は、阿礼さんの前で「能力がない人間は弱い」と発言しないことです』 誰かが教室の隅で息を呑んだ。 『火曜日、阿礼さんが生徒会長への書類を届ける途中、廊下の床が突然、恋愛相談を始めます。阿礼さんは返答せず、目的地まで歩き続けてください。返答した場合、床は相談相手として阿礼さんを認識します』 家田が有紗を見る。 「それは……困るね」 「床が会長に相談するよりは、私に相談した方が適切だと思います」 「そういう問題じゃないと思う」 『水曜日、家田柱さんが椅子に生徒会長の座を奪われる事件を回避するため、阿礼さんが椅子と話し合います。話し合いの結論は、椅子が生徒会長代理に就任することです。ただし、椅子は議事録を作成できないため、正式な就任とは認められません』 「それなら安心だ」 家田が胸をなで下ろす。 有紗は彼を見て、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。 「会長の席は、私が守ります」 「ありがとう。有紗さんがそう言ってくれると心強いよ」 その言葉に、有紗の耳がわずかに赤くなった。 周囲の生徒たちは見なかったことにした。見てしまえば、後で何かの巻き添えになる可能性がある。理高校で生きていくには、気づかないふりも立派な危機管理だった。 その日の昼休み、校内放送が流れた。 『生徒会副会長、阿礼有紗さんに関する追加ニュースです。現在、第二校舎の廊下にて、複数の生徒が「能力のない人間など」と発言する可能性が予知されています。該当する生徒は発言を控えてください』 注意喚起の直後、廊下の向こうから大きな声が聞こえた。 「能力もないくせに、生徒会副会長なんか――」 言い終わる前に、廊下の空気が変わった。 阿礼有紗が、ゆっくりと振り返ったからだ。 彼女は笑っていた。清楚で、上品で、どこまでも穏やかな笑みだった。 だが、その笑顔を見た生徒たちは全員、直感的に理解した。 今の発言は、撤回が間に合わない種類の失敗だと。 「今、何とおっしゃいましたか?」 挑発した生徒の顔が青ざめる。 「い、いや、その……」 「聞き取れませんでした。もう一度、はっきりお願いします」 「すみませんでした!」 生徒は即座に頭を下げた。だが、有紗は首を傾げる。 「謝罪が早すぎます。何について謝っているのか、整理してからにしてください」 生徒の隣にいた友人が、小声で「逃げろ」と言った。 その瞬間、有紗の笑みが深くなる。 廊下の端にいた浪花咽喉が、慌てて駆け寄ってきた。 風紀委員の腕章をつけた、普通の女子高生に見える少女だった。真面目そうな顔立ちで、手には分厚い校則集を抱えている。浪花葉子の双子の妹であり、苦労人として知られていた。 「阿礼さん、落ち着いてください。相手も謝っています」 「ええ。謝罪を受け入れるかどうかを考えています」 「その顔で考えないでください。周囲が怯えています」 「私は何もしていません」 「何もしていないのに、空気がすでに反省文を書き始めています」 咽喉は深くため息をついた。 彼女はこれまで、世界の滅亡に関わる騒動さえ解決してきた。能力、方法、権限、理不尽、優先順位、定義、法則。そうしたものがどれほど強く主張しても、風紀に反するなら取り締まる。 ただし、彼女自身はあくまで真面目に、事情を知るために相手の行動を受け止める。 その姿勢が、かえって対応を難しくしていた。 「阿礼さん。まず、相手がなぜその発言をしたのか確認しましょう」 「必要ですか?」 「必要です。理由を確認しないまま罰するのは、風紀委員として問題があります」 「では、理由を聞きます」 有紗が生徒に向き直る。 「なぜ、あのような発言を?」 生徒は震えながら答えた。 「その……友達に言えと言われて……。阿礼さんが能力者相手でも平気だという噂を聞いて、試してみたくなって……」 「なるほど」 有紗は静かに頷いた。 「事情は理解しました」 「では、穏便に――」 咽喉が言いかけたところで、有紗は生徒の目の前に拳を置いた。 触れてはいない。ただ、距離が近い。 生徒の顔から血の気が引いた。 「試すという行為は、相手の同意が必要です。次からは、試す前に聞いてください」 「はい……!」 「そして、友人に言われたからという理由で他人を侮辱するのは、自分の言葉に責任を持っていないということです」 「はい……!」 「反省していますか?」 「しています……!」 「ならば、今回はこれで終わりにします」 拳がゆっくり下がった。 生徒はその場にへたり込んだ。周囲の者たちは、有紗が本当に手を出さなかったことに驚いていた。 咽喉もまた、意外そうに瞬きをする。 「……終わり、ですか?」 「本人が反省しているので」 「そうですか。では、風紀上も問題ありません」 咽喉は校則集を閉じた。 ところが、その直後、廊下の天井から声が響いた。 『私は反省していない』 全員が見上げた。 天井に、見覚えのない黒い掲示板が貼り付いていた。そこには大きく、「阿礼有紗は生徒会副会長に不適格」と書かれている。 生徒たちがざわめく。 家田が駆けつけてきた。 「これは何だろう」 「会長への中傷です」 有紗は黒い掲示板を見た。 「正確には、私を通じて会長を困らせる意図があるようです」 「僕を?」 「はい。ですから、私が処理します」 彼女が一歩進む。 しかし、その前に咽喉が手を上げた。 「待ってください。まず掲示板の主張を確認します」 『私は理の外から来た。校則も、規則も、風紀も、私には適用されない』 掲示板が文字を増やしていく。 『私は正当である。私の方が優先される。私が不適格と判断した者は、存在の資格を失う』 生徒たちの顔がこわばる。 それは、この世界ではありふれた種類の危険だった。理屈を越え、正当性を自称し、周囲の存在に優先順位を押しつける。危険度で言えば、十。異常、正体不明。放置すれば、学校どころか理街全体を巻き込む可能性がある。 それでも、咽喉は一歩前へ出た。 「事情は理解しました」 黒い掲示板が文字を止めた。 「あなたは、自分が理の外にいるため、校則や風紀の対象外だと主張しているのですね」 『そうだ』 「そして、自分の判断によって、他者の存在資格を失わせられると」 『そうだ』 「あなたの主張はわかった。しかし風紀違反よ」 咽喉は校則集を開いた。 声は大きくなかった。怒鳴ってもいない。だが、廊下全体に明確に届いた。 【罪状】 他者の同意なく存在資格を剥奪しようとしたこと。 所属を偽り、規則の適用対象外であると一方的に宣言したこと。 生徒会および学校秩序に対して、根拠なき優先権を行使したこと。 他者の判断と生活を妨害し、恐怖によって従わせようとしたこと。 【違反内容】 理の外にいるかどうかは、校内に侵入した時点で関係ありません。 この学校に存在し、他者へ干渉した時点で、校内風紀の確認対象となります。 正当性を自称することは、正当性の証明にはなりません。 優先される権利を主張するなら、まず他者の権利を侵害しないこと。 「よって、今までの行動は破棄になります」 黒い掲示板の文字が揺れた。 『破棄など認めない』 「認めるかどうかは、違反者が決めることではありません」 『私は正当だ』 「正当性があっても、風紀違反は風紀違反です」 『私は理の外だ』 「理の外まで及ぶのが、風紀です」 咽喉は閉じた校則集を胸に抱えた。 「これより、あなたには反省文の提出、掲示物の撤去、関係者への謝罪、そして一週間の校内立入禁止を命じます」 掲示板はなお抵抗しようとした。 だが、宣言された違反内容は覆らなかった。正統性も、異常性も、正体不明という性質も、処分の前では意味を失っていく。 最後に残ったのは、剥がされた黒い掲示板と、廊下の壁に貼られた一枚の反省文用紙だけだった。 静寂が戻った。 家田が咽喉を見る。 「助かったよ。ありがとう」 「いえ、風紀委員として当然です」 有紗は咽喉の隣に立ち、少しだけ首を傾げた。 「あなたは、随分と融通が利かないのですね」 「それは褒めていますか?」 「評価しています」 「なら、たぶん褒め言葉として受け取ります」 その頃、理チャンネルでは再び臨時ニュースが流れていた。 『速報です。本日、理高校に侵入した正体不明の掲示物は、風紀委員の処分により撤去されました。被害はありません』 『なお、阿礼有紗さんは現場で拳を使用しませんでした。これは今週の予知記録において、非常に珍しい出来事です』 平木径が淡々と読み上げる。 『また、浪花咽喉さんは、処分後に「規則が通じるなら話が早い」とコメントしています』 『阿礼有紗さんは「会長に危害がなかったので問題ありません」とコメントしています』 真名陽が続けた。 『家田柱さんは、「二人とも頼りになる」とコメントしています』 その瞬間、有紗の頬がまた赤くなった。 「会長は、誰にでもそういうことを言うのですか?」 「え? いや、思ったことを言っただけだけど」 「……そうですか」 有紗は視線を逸らした。 咽喉はその様子を見て、何かを察したように口元を引き締める。だが、風紀委員として余計な恋愛事情に口を挟むつもりはなかった。 その日の放課後、三人は生徒会室に集まった。 机の上には、理チャンネルの今週の予報をまとめた紙、風紀違反の報告書、そして椅子が生徒会長を名乗った場合に備えた対応手順が置かれている。 「椅子の件ですが」 咽喉が報告書をめくった。 「水曜日に現象が起きた場合、まず本人確認を行います。椅子が議事録を作成できなければ、正式な生徒会長とは認めません」 「有紗さんも同意見だったね」 「はい。会長の判断は合理的です」 「僕はそこまで言っていないよ」 家田が苦笑する。 窓の外では、理街の夕暮れがゆっくりと広がっていた。空を横切る雲の一部が、誰かの忘れ物を探しているような形をしている。通りでは、魚が降る前に網を買おうとする人々が歩き、商店街では火曜日のパン屋を避ける相談が始まっていた。 世界は異常だった。 しかし、人々はその異常を生活の一部として受け入れている。 予報を見て、危険を避け、事件を防ぎ、学校へ行き、恋愛に悩み、風紀を守り、時には椅子と生徒会長の座を争う。 それが理街の日常だった。 家田が書類をまとめる。 「今日は色々あったけれど、二人とも本当にありがとう」 「私は会長を守るのが仕事です」 有紗はまっすぐに答えた。 「それに、会長が困っている姿を見るのは、あまり好きではありません」 「僕はそんなに困っていたかな?」 「はい。とても」 即答だった。 咽喉は少し笑った。 「私は、阿礼さんのことを、危険な人だと思っています」 「そうですか」 「でも、理由もなく暴れる人ではないとも思っています。怒らせてはいけない人ですが、守るものがはっきりしている人です」 有紗はしばらく黙り、それから小さく頷いた。 「あなたのことは、真面目すぎる人だと思っています」 「それは悪口ですか?」 「いいえ。理不尽なものを見ても、まず話を聞こうとする姿勢は、私にはできません」 咽喉が目を丸くする。 「阿礼さんが、そんなふうに人を評価するとは思いませんでした」 「私も、あなたを評価するとは思いませんでした」 二人の間に、微妙な沈黙が落ちた。 家田はその空気を感じながら、書類を閉じた。 「僕から見た印象も言っていいかな?」 「どうぞ」 「有紗さんは、怖いけれど、とても頼りになる。僕が生徒会長でいられるのは、有紗さんが支えてくれるからだと思っている」 有紗は黙っていたが、耳まで赤くなっていた。 「咽喉さんは、厳しいけれど優しい。規則を守らせるだけじゃなくて、相手がどうしてそうしたのかまで考えている。だから、僕は安心して相談できると思っているよ」 咽喉は照れたように視線を逸らした。 「……会長は、人の印象をよく見ていますね」 「そうかな」 「はい。だから椅子に会長の座を奪われないよう、これからも気をつけてください」 「そこは僕の努力で何とかなるのかな」 笑い声が、生徒会室に広がった。 やがて夕方の放送が流れる。 『理チャンネル、次回の天気予報です。明日の理街は晴れます。ただし、午後三時から五時の間、影が持ち主に対して日頃の不満を述べる可能性があります。影の発言を否定せず、帰宅後に三分間だけ話を聞いてあげてください』 有紗が窓の外へ目を向ける。 「明日も忙しくなりそうですね」 「ええ。ですが、予報があるなら対処できます」 「そうだね。異常でも、知らされていれば日常にできる」 家田の言葉に、咽喉が頷いた。 有紗もまた、静かに笑った。 理街の夜が始まる。 世界を滅ぼしかねない異能力者たちは、明日の予定を確認しながら帰宅していく。理高校の生徒会室では、椅子対策の書類が整理され、風紀違反の報告書が保管され、誰もいない廊下には新しい掲示物が貼られていた。 そこには、簡潔な一文だけが書かれている。 『異常な世界で普通に暮らすためには、異常を見て見ぬふりをしないこと』 誰が書いたのかは、三人とも知らなかった。 ただ、誰もそれを剥がそうとはしなかった。