雨の降らない夜だった。 裏路地には、濡れてもいない石畳の上に、雨音だけが響いていた。どこか遠くで壊れかけた看板が明滅し、そのたびに細い路地の壁へ、古い映画のような光の筋が走る。 その光の中心に、ロペは座り込んでいた。 黒いツインテールが白いマントの上にふたつ垂れ、黒いドレスの裾が石畳に広がっている。彼女の膝の上には小さな端末が置かれ、端末の画面には無数の映像が流れていた。 「ねぇピピさん、次のお話早く見せてよ!」 ロペが端末を指先で叩くと、少し遅れて、隣に置かれた小型映写機が唸りを上げた。 ピピさん。 ロペがそう呼ぶ映写機は、返事の代わりに白い光を吐き出した。壁に映されたのは、誰かの手が扉を開く映像。次に、長い廊下を歩く足。最後に、窓辺で立ち止まる影。 動作の連なりは、いつも指令だった。 けれど今夜、映像の最後に現れたのは、見慣れない場所だった。 白い布のかかった長机。数本の筆。血のように赤い絵の具。壁一面に並ぶ、輪郭の曖昧な肖像画。 「ここ、どこ?」 ロペは首を傾げた。 「知らない場所のお話も、ピピさんは見せてくれるんだね」 彼女は楽しそうに笑った。けれどその笑みの奥には、置いていかれることへの怯えが薄く沈んでいた。 ほどなくして、路地の向こうから足音がした。 「ロペ」 呼びかけたのはツヅラだった。 白いスーツに銀髪のウルフカット。腕時計型の映写機を手に、彼はゆっくりと歩いてくる。足音は穏やかで、急ぐ理由などどこにもないと言わんばかりだった。 「ツヅラさん!」 ロペは立ち上がり、マントを揺らして駆け寄った。 「ねぇねぇ、ピピさんが知らない場所を映したの! 次のお話、きっと面白いよ!」 「そうか」 ツヅラは腕時計に視線を落とした。小さなレンズの奥で、いくつもの軌跡が重なっている。 「ラプラスにも、似たような映像が来ている」 「同じお話?」 「おそらくな」 彼は否定しなかった。否定できない、と言った方が正しいのかもしれない。 そのとき、路地の角から軽い声が飛んできた。 「へえ、二人とも同じところへ呼ばれてるんだ?」 空色のツインテールを揺らしながら、コユキが姿を現した。薄着のストリートスタイルで、肌寒い夜だというのに少しも気にしていない。むしろ頬を手で仰ぎながら、暑そうに眉を寄せていた。 「ここ、ちょっと蒸してない?」 「雨も降っていないのに、そう感じるのか?」とツヅラが尋ねる。 「感じるんだよね。たぶん、気分の問題」 コユキはそう言って、ロペの頭を撫でた。 「こんばんは、ちびっこ映写機」 「ロペだよ! ちびっこじゃないもん」 「はいはい、ロペちゃん。怒ると暑くなるから、もっと暑くなるよ」 「むぅ……」 ロペが頬を膨らませると、さらに別の声が重なった。 「フフッ、今夜はずいぶん賑やかね」 ミレーが路地の奥から現れた。 赤い瞳だけが黒いマスクの上で鮮やかに光っている。黒いゴシック調のドレスは夜の闇に溶け込みそうで、それでも彼女の歩みには不思議な柔らかさがあった。 「そこの君、いい表情。怒っている顔も、素材としては悪くないわ」 「ロペは素材じゃないよ!」 「ええ、知っているわ。あなたはあなた。だからこそ、そのものらしい表情が大切なの」 ミレーは穏やかに微笑んだ。 その言葉は、褒めているようでありながら、どこかぞっとする響きを持っていた。コユキは慣れた様子で肩をすくめる。 「ミレー、最初から作品の話にしないの。今日はたぶん、打ち合わせでしょ」 「そうね。けれど、打ち合わせの場にも美しさは必要よ」 四人は、路地の奥にある古い展示室へ向かった。 そこはかつて画廊だった場所らしい。扉を開けると、天井から吊るされた裸電球がいくつも揺れていた。壁には何も飾られていないのに、床には薄い白布が敷かれ、中央には四脚の椅子が用意されている。 「椅子が四つ」 ロペが数えた。 「四人だから当然だな」とツヅラが言う。 「でも、ここに来るよう言われたのは私たちだけとは限らないでしょう?」 ミレーが壁を見つめた。 そこには、いつの間にか映像が浮かび上がっていた。 最初に見えたのは、白い廊下だった。廊下の両側には扉が並び、それぞれの扉に異なる印が刻まれている。人差し指の印。薬指の印。見知らぬ印。そして、何も刻まれていない扉。 次に、映像は一枚の紙を映した。 紙には、短い文だけが書かれている。 ――四つの視線をひとつの絵に集めよ。 ロペは目を輝かせた。 「絵を作るの?」 「そう読めるわね」 ミレーは紙へ近づいた。 「でも、誰が描くのかしら」 「私じゃないよ」とコユキが手を上げる。「細かい作業は暑くなるから苦手」 「あなたは何をしても暑がるでしょう」 「そうなんだけどさ」 コユキは展示室の隅に置かれた窓を開けた。外から冷たい夜気が流れ込んできて、彼女は満足そうに笑う。 「これで少しはまし」 ツヅラは腕時計型の映写機を覗き込んだ。レンズには、未来の断片が次々に浮かんでは消えていく。 「指令は、絵を完成させろということではない」 「じゃあ、何?」とロペ。 「四つの視線を集めるために、四人がそれぞれ別の場所から同じ対象を見る。そうすれば、おそらく次の指令が現れる」 「面倒ね」とミレーが言った。「神託というものは、どうしていつも遠回りなのかしら」 「遠回りに見えるだけで、最初から決まっているのかもしれない」 ツヅラは淡々と答えた。 「不満か? 俺達はこんなにも自由じゃないか」 コユキが吹き出した。 「それ、自由って言わないと思うんだけど」 「そうかもしれないな」 ツヅラは穏やかに笑った。諦めているのか、納得しているのか、その表情からは分からない。 ロペは彼を見上げた。 「ツヅラさんは、本当に自由だと思ってるの?」 「どうだろうな。指令に従っている間は、迷わなくて済む。それを自由と呼ぶなら、俺達は自由だ」 「迷わないのって、つまらなくない?」 「お前は迷いたいのか?」 「ううん。でも、ピピさんが急にいなくなったら嫌」 ロペは端末を抱きしめた。 「ピピさんがいれば、次に何をすればいいか分かるから。ひとりで考えなくていいから」 展示室が静かになった。 ミレーはロペの隣に腰を下ろすと、彼女と同じ高さまで視線を下げた。 「けれど、映像に映らないものもあるわ」 「映らないもの?」 「誰かが寂しいと思っていること。誰かが誰かを心配していること。そういうものは、映像の中では輪郭が曖昧なの」 「ミレーは分かるの?」 「分かろうとはするわ。作品を作るときも、表面だけを写したくはないもの」 ミレーはそう言って、ロペの端末へ視線を向けた。 「あなたのピピさんは、あなたが寂しいとき、どんな映像を見せるのかしら」 ロペは答えようとして、口を閉じた。 代わりに端末を操作する。 白い壁へ映像が映し出された。 小さな部屋。誰もいない椅子。閉じた扉。その前に座る、幼い少女の後ろ姿。 映像の中のロペは、何かを待っている。 「……これ、嫌い」 ロペは小さく言った。 「ピピさんは、よくこれを見せるの。誰かが来る前の映像。誰かが来なかったときの映像」 コユキが窓辺から振り返った。 「ロペちゃん」 「でもね、今日はみんな来たよね」 ロペは笑った。無邪気な笑顔だったが、その笑顔は少しだけ震えていた。 「だから今日は、嫌いじゃないお話かも」 ミレーは黙って、ロペの肩に手を置いた。コユキも椅子を引き寄せ、ロペの隣に座る。ツヅラは立ったまま、腕時計の映像を見ていたが、やがてゆっくりと椅子へ腰を下ろした。 四人が同じ場所に揃う。 その瞬間、壁の映像が変わった。 四つの視線が、それぞれ異なる角度からひとつの空白へ集まっていく。空白は次第に形を持ち、古い街の地図になった。 地図の中央には、一本の道が描かれている。 道の先にあるのは、まだ名前のない場所だった。 「次は、あそこへ行くのね」 ミレーが立ち上がった。 「待って」 ロペがミレーの袖をつかんだ。 「今すぐ行くの?」 「指令は、そう示しているわ」 「でも、まだここにいてもいい?」 ミレーは一瞬、目を細めた。 「ええ。指令が次の動作を示していても、動き出す時刻までは指定されていないもの」 ツヅラが頷く。 「映像は順序を示すが、時間までは奪わない。少なくとも、そう解釈できる」 「じゃあ、お茶飲もうよ」 コユキが提案した。 「この画廊、たぶん何もないけど」 「何もないなら、買いに行けばいいわ」 ミレーが言うと、ロペがぱっと顔を上げた。 「お菓子も?」 「ええ。展示室で食べるのは少し行儀が悪いけれど、今夜は特別に許しましょう」 ツヅラは腕時計を確認した。 「指令には、休憩を禁じる文言はない」 「そこを真面目に確認するんだ」とコユキが笑った。 四人は展示室を出た。 裏路地の小さな店で、コユキは冷たい飲み物を、ミレーは紅茶を、ツヅラは苦い珈琲を選んだ。ロペは大きな菓子袋を抱え、店主に何度も礼を言った。 帰り道、ロペは先頭を歩いた。端末を胸に抱え、時折振り返って三人の姿を確かめる。 「みんないる?」 「いるよ」とコユキ。 「ここにいるわ」とミレー。 「確認しなくても、足音で分かるだろう」とツヅラ。 「でも、見えないと不安なの」 ロペは正直に答えた。 コユキが彼女の歩幅に合わせて速度を落とす。 「じゃあ、見えるところにいるよ」 「ほんと?」 「ほんと」 ミレーも反対側へ回った。 「私も、あなたの視界から外れないようにしましょう」 ツヅラは少し後ろを歩いていたが、やがて三人と並んだ。 「これでいいか?」 ロペは三人を見渡した。 「うん!」 夜の路地に、四人分の足音が重なる。 映像の示した次の場所へ向かう道は、まだ遠い。何が待っているのかも分からない。指令が何を求めているのか、神託がどこへ彼らを運ぶのか、それを完全に理解している者はいなかった。 それでも今夜だけは、誰も急がなかった。 映写機が示す未来よりも、隣を歩く者の存在を確かめることの方が大切だと、四人とも口には出さずに知っていた。 角を曲がる前、ロペが振り返った。 「ねぇ、みんな!」 「なんだ?」 ツヅラが応じる。 「次のお話も、みんなで見る?」 コユキは笑い、ミレーは目を細め、ツヅラは一度だけ映写機へ目を落とした。 「指令がそうなるなら、そうなるだろう」 「もう、ツヅラさんはそればっかり!」 ロペは頬を膨らませた。 「でも、たぶんそうなるわ」とミレーが言う。「少なくとも、私はそう願っているもの」 「私も。ひとりで行くと暑いし」とコユキ。 「理由、それ?」 「理由なんて、後からいくらでも作れるよ」 コユキは軽く笑った。 ロペは嬉しそうに端末を抱え直した。 そして、四人は次の角を曲がった。 誰もいなくなった展示室では、壁に残った映像がゆっくりと消えていく。 最後に映し出されたのは、四人の後ろ姿だった。 その姿はひとつの絵のように並び、どこか不揃いで、それでも奇妙なまとまりを持っていた。 ロペは、ツヅラを「何でも諦めているけれど、いなくならない人」だと思った。ミレーは「怖いことを言うけれど、寂しさを見つけてくれる人」。コユキは「暑がりで適当なのに、いつも隣にいてくれる人」。 そしてロペ自身について、三人はそれぞれ違う印象を抱いていた。 ツヅラにとってロペは、指令に従うだけの代行者ではなかった。未来の映像に映らない問いを、何度も投げかけてくる存在だった。 ミレーにとってロペは、無邪気さと残酷さをそのまま抱えた、まだ形の定まらない作品だった。だからこそ、誰かの手で勝手に完成させてはいけないと思っていた。 コユキにとってロペは、放っておくとすぐに迷子になるくせに、皆を同じ場所へ集める不思議な子だった。暑さを忘れるくらい、一緒にいると退屈しなかった。 そしてロペは、三人を見上げながら思っていた。 ツヅラさんは、未来しか見ないふりをして、今いる人をちゃんと見ている。 ミレーさんは、何でも作品にしたがるけれど、私を私のまま置いてくれる。 コユキさんは、すぐ暑いって言うけれど、手を離さない。 だから、次のお話もきっと大丈夫。 ピピさんがどんな映像を見せても、今夜のように、みんなが同じ画面に映っているなら。 裏路地の奥で、遠くから映写機の回る音がした。 次の指令が、静かに始まった。