曇天の空から、しとしとと冷たい雨が降り注いでいた。裏路地の喧騒から切り離された、古びた洋館のテラス。そこは、ある種の「中立地帯」として機能している場所だった。濡れた石畳の匂いと、どこか懐かしい古書の香りが混ざり合う静寂の中、二人の人物が向かい合っていた。 一人は、黒いスーツに青い制服を纏い、頭に羽根付きの帽子を戴いた少女。短く切り揃えられた黒髪が、凛とした表情を際立たせている。彼女の名はチギリ。センク協会の1級フィクサーであり、「小指」の天平星の名を冠する者だ。その腰には、白と黒の対をなす直刀が静かに収まっている。 対するは、夜を溶かし込んだような黒地に赤の礼服を身に纏った青年。長い黒髪が風に揺れ、その眼差しはどこか遠く、この世ならぬ場所を見つめているかのように虚ろだ。セツナ。シ協会の1課に属する1級フィクサー。彼が持つ真紅の直刀は、まるで凝固した血のように鈍い光を放っていた。 二人の間には、張り詰めた緊張感があった。しかし、それは殺し合いを目前にした殺気ではなく、互いの「領域」を認め合った者同士が交わす、奇妙な敬意に近いものだった。 「……静かですね」 口を開いたのはチギリだった。彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、正々堂々と相手を見据えている。男勝りな口調こそあれど、その根底にあるのは武人としての誠実さだ。 「雨が、声を奪う。空が、地を洗う。……すべては、零に帰すために」 セツナがぽつりと呟く。その声は低く、耳に届く前に消えてしまいそうなほど儚い。詩的な表現を好む彼にとって、この静寂は心地よい心地であり、同時に死の予感にも似た安らぎであった。 チギリはふっと小さく笑い、腰の刀に手をかけた。だが、それは抜刀するためではなく、礼節を示すためだった。 「あなたのやり方は、私とは正反対のようですね。気配を消し、闇に紛れ、一撃で全てを終わらせる。効率的ではありますが、私にはどうにも馴染めません。私は、相手の目を見て、その覚悟をぶつけ合うのが心地よい」 「目を見る……か。それは、贅沢な時間だ。死にゆく者は、大抵、見るべきものを失っている」 セツナは淡々と答える。彼にとっての暗殺とは、慈悲であり、また必然的な終焉の執行に過ぎない。相手が気づかぬうちに終わらせることこそが、彼なりの「正解」だった。 しかし、チギリは納得いかないというように、眉をひそめて彼に歩み寄った。カツカツと靴音が石畳に響く。彼女の歩みには迷いがない。 「贅沢? いいえ、それこそが人生の醍醐味でしょう! 互いの全力をぶつけ合い、どちらがより強い意志を持っているかを証明する。それこそが、剣を持つ者の誇りではありませんか」 セツナは、近づいてきた少女をじっと見つめた。15歳という若さでありながら、彼女から放たれる気圧は、熟練の戦士かそれ以上の重みを持っている。何より、彼女の瞳に宿る「正義」と「誠実さ」が、闇に生きる彼には眩しすぎた。 「誇り……。その言葉は、陽の当たる場所でしか、正しく機能しない」 「場所なんて関係ありません! 裏路地だろうが、泥沼の中だろうが、正々堂々と戦えば、それはもう気高いものです」 チギリは勢いよく腕を組み、胸を張った。その様子はどこか少年のような快活さがあり、冷徹な世界に生きるフィクサーとは思えないほどの純粋さを湛えている。セツナは、その様子を眺めながら、わずかに口角を上げた。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かな、だが確かな感情の揺らぎだった。 「君は……不思議な人間だ。この街で、そんな風に真っ直ぐに歩ける者が、まだいたとは」 「不思議なのは、そんなに長い髪をさらして、よく暗殺業ができることの方ですよ。引っかかって正体がバレたらどうするんですか」 チギリが冗談めかして言うと、セツナは自分の長い髪にそっと触れた。 「……風が、導いてくれる。それに、消える時は、髪一本さえも、記憶から消し去る」 「あはは! やっぱり詩的なんですね。でも、そういうところ、嫌いじゃありませんよ」 緊張感に満ちていたはずの空気が、いつの間にか緩んでいた。二人は、所属する組織も、信条も、戦い方も全く異なる。一方は光の中での決闘を、一方は闇の中での終焉を。だが、共に「1級」という頂に近い場所に到達した者として、言葉にせずとも通じ合う部分があった。 それは、「己の道を極めようとする孤独」への共感だったのかもしれない。 ふと、雨が激しくなった。テラスの屋根から滴る水滴が、大きな音を立てて地面を叩く。 「そろそろ時間ですね。私も、潜伏先の報告に戻らなければならない」 チギリが帽子を軽く直し、踵を返した。去り際に、彼女はもう一度だけ振り返り、セツナに指を立てて宣言した。 「いつか、仕事ではなく、純粋な『勝負』としてやり合いましょう。その時は、あなたのその真紅の刀を、私の白と黒で真っ二つにして差し上げますから!」 セツナは、遠ざかっていく少女の背中を見送った。彼女の足取りは軽く、雨さえも追い風にしているように見えた。 「……真っ二つ、か。面白い。その日が来るまで、呼吸を止めて待とう」 セツナが呟いた言葉は、激しくなり始めた雨音に飲み込まれて消えた。しかし、彼の心には、今まで感じたことのない小さな熱が灯っていた。それは、いつか自分を真っ向から否定し、そして肯定してくれるであろう、若き剣士への期待だった。 静寂が戻ったテラスに、雨だけが降り続いている。しかし、そこには確かに、二つの異なる意志が交差した、不可視の軌跡が刻まれていた。