視界に飛び込んできたのは、暴力的なまでの「白」だった。 どこまでも続き、どこまでも曲がりくねった白いタイル張りの壁と床。天井からは、不気味なほど均一な光を放つ蛍光灯が連なり、「ブゥー……」という低いハム音が、静寂を塗り潰すように鳴り響いている。鼻を突くのは、強烈な消毒塩素の匂い。ここは、プールだった。しかし、泳ぐための場所ではない。そこにあるのは、行き先を失った巨大なプールスライダーや、水が湛えられただけの浅いプール、そして意味もなく配置された階段や通路の迷宮だった。 「……っ、ここは、どこだ」 最初に声を上げたのは、与和伊加転だった。彼は混乱しつつも、持ち前の精神力で状況を分析しようと試みる。周囲を見渡せば、自分以外にも「異物」たちがいた。 一人は、身なりこそ整っているが、どこか虚ろな目をし、ナイフと拳銃を携えた男――髙。もう一人は、見るも無惨な異形の姿をした男。手足は異常に長く痩せこけ、目からは羊の角が生え、口は耳まで裂けている。料理人ヨーマ。そして、床の浅い水溜まりの中で、静かに、しかし底知れぬ知性を宿した目でこちらを見上げている、巨大なアオザメ。 「おい、あんたたち。状況がわかるか?」 加転が問いかける。しかし、返ってきたのはヨーマの「ゥ……ゥゥ……」という、喉の奥から絞り出すような唸り声だけだった。ヨーマは視力を失っているはずだが、その裂けた口から涎を垂らしながら、飢餓感に突き動かされるように鼻をひくつかせている。だが、彼は加転たちを襲わない。彼にとって、この空間にいるのは「人間」であるはずだが、同時にこの場所が持つ異様な静寂が、彼の狂った本能にさえ「今はその時ではない」と囁いていた。 「……さあな。起きたらここだった」 髙が淡々と答える。彼は警戒心からか、既に拳銃のグリップに手をかけていた。彼の思考はシンプルだった。未知の環境、未知の同伴者。まずは生存確率を高めること。だが、彼がどれほど警戒しようとも、この場所には「敵」がいなかった。ただ、圧倒的な「無」と「白」があるだけだ。 そして、アオザメ。彼は喋らない。感情もない。だが、その脳組織は遺伝子操作によって極限まで肥大化しており、この空間の構造を瞬時に計算し始めていた。アオザメは理解した。ここには重力はあるが、出口は見えない。空間が非ユークリッド的に歪んでいる。そして何より――ここには、自分を拘束していた施設の人間がいない。それは彼にとって、唯一の好条件だった。 「ネットで流行った『Backrooms』ってやつか? いや、あそこは黄色い壁だったはずだ。ここは……プール・ルームか?」 加転が独り言のように呟く。しかし、答えは返ってこない。ただハム音だけが、鼓膜を執拗に叩き続ける。 そこに、場違いなほど陽気な声が響いた。 「いやぁー! これはひどい! 最悪の目覚めだねぇ!」 現れたのは、派手な身なりをした男、ジョーカー・ジョーだった。彼はこの絶望的な空間に似つかわしくない軽快な足取りで歩み寄り、大げさに肩をすくめた。 「おっと、物騒な面々だ。サメに怪物に、武装した紳士。ここは現代アートの展示会かなにかかい?」 「ふざけるな。ここはどこだ、お前は誰だ」 髙が鋭く問い詰めるが、ジョーはひらひらと手を振って受け流す。 「私はジョー。運命のいたずらっ子さ。まあ、君たちと同じ『迷い子』ってところかな。ところで、あっちに面白いスライダーがあるよ。滑ってみないかい?」 ジョーが指差したのは、白い壁に飲み込まれるように消えていく、黄色いプラスチック製のプールスライダーだった。どこに繋がっているのか、あるいはどこから来たのかさえ分からない。だが、ここに留まっていても正気が削られるだけだ。加転が判断を下した。 「……とりあえず、移動しましょう。ここにいても解決しません。集団で行動して、出口を探しましょう」 一行は、ゆっくりと歩き出した。足首まで浸かる透き通った水が、歩くたびにチャプチャプと音を立てる。その音が、不気味なほど鮮明に響く。料理人ヨーマは、もはや思考を放棄したかのように、ただ加転の背後を、長い手足をだらりと下げてついてきた。彼にとって人間は餌だが、今の彼は深い絶望と死への渇望の中にあり、目の前の獲物を喰らう意欲さえも、この「白すぎる世界」に吸い取られていた。 アオザメは、水がある場所を選んで滑るように移動する。彼の超知能は、壁のタイルの継ぎ目や、蛍光灯の点滅周期から、この空間の「法則」を探っていた。だが、結論は出ない。ここには法則があるようでいて、実は「無意味」であるということだけが唯一の法則だった。 数時間、あるいは数日。時間の感覚が麻痺し始めた頃、異変が起きた。 「……え?」 加転がふと隣を見たとき、そこには誰もいなかった。 つい数秒前まで、目の前にいたはずの髙とジョーの姿がない。後ろを振り返れば、ヨーマの不気味なシルエットは見えなくなり、アオザメの背びれも水面に消えていた。 「嘘だろ……? 今、隣にいたはずだ!」 加転はパニックになりかけ、叫んだ。しかし、彼の声は白い壁に吸収され、虚しく消えた。ここにあるのは、物理的な壁ではなく、認識を分断する何かだ。気づけば、彼は完全に一人になっていた。 「落ち着け……落ち着くんだ。精神分析、自己暗示。私は冷静だ。ここは安全だ。敵はいない。ただ出口を探せばいい」 加転は震える手で拳銃を握りしめ、歩き出した。一人になるということは、孤独であるということだ。そして孤独は、精神を内側から食い破る。彼はもともと【雑魚探索者】であり、体力はない。だが、精神力だけは誰にも負けなかった。彼は壁に手を突き、冷たいタイルの感触を確かめながら、一歩ずつ進んだ。 一方、髙は、さらに深い迷宮へと迷い込んでいた。 彼は軍人のような正確さで、通り過ぎた角にナイフで印を付けていた。しかし、ふと振り返ったとき、彼は凍りついた。そこにあるはずの印が、消えていた。いや、消えたのではない。タイルの模様が変わっていたのだ。つい先ほどまで右に曲がったはずなのに、そこは行き止まりの壁になっていた。 「あり得ん……」 彼が呟いたその瞬間、背後から「ガシャッ」と音がした。反射的に振り返り、拳銃を構える。だが、そこにいたのは、呆然とした表情で立っているジョーカー・ジョーだった。 「やあ、また会ったね。君、さっきからずっと同じところをぐるぐる回ってるよ」 「貴様、いつからそこにいた!」 「さあね? 運良く、あるいは運悪く、君の背後に転がり込んできたのさ」 ジョーはケラケラと笑う。髙は苛立ち、銃口をジョーに向けた。この男の軽薄さが、極限状態にある彼の神経を逆撫でする。 「いい加減にしろ。ここで足を引っ張るなら、撃つぞ」 「おっと、それは危ないね。でも大丈夫、私の運は最高に最悪だから」 その瞬間だった。髙が引き金に指をかけたとき、床のタイルが不自然に盛り上がり、髙の足が不意に滑った。派手な音を立てて尻餅をついた拍子に、銃が手から離れ、不運な角度で壁に跳ね返り、そのまま排水溝へと吸い込まれていった。 「……!!」 「あはは! 見たかい? 運命のいたずらだよ! 銃なんてなくても、ここは『不気味なほど安全』なんだから、ゆっくり散歩しようよ」 ジョーは勝ち誇ったように笑うが、彼自身もまた、この空間の不気味さに、心の奥底で寒気を覚えていた。ここには敵がいない。だが、だからこそ「自分という存在」が、ゆっくりと消えていくような感覚がある。 そして、アオザメは、水深の深いエリアに到達していた。 そこは、天井まで水が満たされた巨大な水槽のような通路だった。アオザメにとって、ここは天国に近い。彼は超高速で泳ぎ、空間の断層を突き抜けるように移動する。彼の知能は、この世界の構造が「記憶の断片」をタイルで模した擬似空間である可能性に辿り着いた。 (……くだらない。出口さえあれば、この不快な白さは消える) アオザメには感情がない。だが、彼には「目的」があった。施設からの脱走。そして、自由。この場所がどこであろうと、彼にとっての正解は「ここではない場所」へ行くことだけだ。彼は水中で静かに、獲物を探すように周囲を観察する。そこに、人間ではない何かが潜んでいる気配はない。本当に、不気味なほどに安全だった。 その安全さが、アオザメの知能を刺激する。安全すぎる場所は、罠である。あるいは、精神的な去勢を目的とした檻である。彼はあえて、不自然に配置されたプールスライダーの逆流を登り、上層へと向かった。 一方、料理人ヨーマは、闇のような空腹感に苛まれながら、壁を舐めて歩いていた。 「ゥ……ゥゥ……」 視えない世界で、彼は音と匂いだけを頼りにしていた。塩素の匂いが強すぎるため、獲物の匂いは全くしない。だが、時折、遠くから誰かの足音が聞こえる。それは彼にとっての福音であり、同時に絶望だった。彼は人間を喰らいたい。だが、それ以上に、この空腹から解放されて死にたいと願っていた。 彼はある時、深いプールの中に沈んでいた「何か」を見つけた。それは古びたプラスチックの椅子だったが、飢えに狂った彼はそれを全力で噛み砕いた。ガリガリという鈍い音が響く。プラスチックの破片が口の中に広がるが、それは空腹を埋めることはない。彼は泣いていたのかもしれない。あるいは、笑っていたのかもしれない。裂けた口から、どろりとした液体が溢れ、白いタイルを汚していた。 時間は、意味をなさなくなった。 加転は、何度も自分の名前を口に出して、正気を保っていた。彼はある時、不思議なことに気づいた。この場所にあるプールスライダーを滑ると、必ず「以前にいた場所」ではなく、「見たことのない新しい場所」へ辿り着く。そして、時折、他のメンバーと再会し、またすぐに離れ離れになる。 「……あぁ、もう。本当に疲れた……」 加転は、浅いプールの縁に腰を下ろし、ぼんやりと天井の蛍光灯を見た。ハム音が、心地よい子守唄のように聞こえ始めた。それは危険な兆候だった。ここに慣れるということは、正気を失い、この白い世界の一部になるということだ。 「ダメだ……寝ちゃダメだ。私は、帰らなきゃいけない」 彼は強引に自分を奮い立たせ、再び歩き出した。そのとき、前方から、不気味な笑い声と、それに抗議するような怒鳴り声が聞こえてきた。 「いいから行こうよ、髙くん! あっちに何か見えるよ!」 「誰が君の君だ! 離れろ、この運のいい馬鹿!」 再会だった。ジョーと髙だ。二人は言い合いながらも、互いの存在を確認して、わずかに安堵した表情を見せた。そしてその背後から、水しぶきと共にアオザメが躍り出た。アオザメは彼らを「餌」として見ているが、今の彼は、この迷宮の出口を探るという知的好奇心の方が勝っていた。 そして最後の一人。暗闇から、ガリガリと壁を引っ掻く音と共に、痩せこけた異形の料理人、ヨーマが姿を現した。 四人と一匹。奇妙なパーティが再び揃った。彼らは互いに信頼し合っていたわけではない。ただ、この耐え難い「白」の中で、唯一の確かな「色」である互いの存在に、しがみついていただけだった。 「……みんな、良かった。生きてたんだね」 加転が弱々しく笑う。髙は不機嫌そうに鼻を鳴らし、ジョーは派手に手を振った。ヨーマはただ、低く唸った。 彼らは再び、歩き出した。もはや方向などどうでもよかった。ただ、前へ。正気を保ち、この不気味な安全地帯を通り抜けることだけを考えた。 どれほどの距離を歩いただろうか。タイルの数は数え切れない。塩素の匂いに鼻が麻痺し、ハム音が脳に深く刻み込まれた頃、彼らは、ある「違和感」に気づいた。 真っ白な世界の中に、一点だけ、色がついていた。 「おい……あれは」 髙が指差した先。白いタイルの壁に、場違いな「木目のドア」がぽつんと置かれていた。まるで、誰かが住宅街の玄関だけを切り取ってここに貼り付けたかのような、あまりに日常的な、茶色のドアだった。 そして、そのドアには、一枚の張り紙が貼られていた。 『Exit』 その文字を見た瞬間、四人と一匹の間に、言いようのない感情が込み上げた。それは歓喜であり、同時に、ここから出ることで、またあの残酷な現実に戻らなければならないという、微かな恐怖でもあった。 「……行こう」 加転が静かに言った。誰も反対しなかった。 最初にドアノブを回したのは、ジョーカー・ジョーだった。彼はいつものように軽口を叩こうとしたが、その声は出なかった。ただ、ゆっくりとドアを開け、光の中へと足を踏み入れた。 続いて髙が、疑心暗鬼になりながらも後に続く。ヨーマは、もはや何も望まず、ただ導かれるように闇の中から光へ。そしてアオザメは、最後の一瞬までこの空間の構造を分析し、納得したように尾びれを打って、ドアを潜った。 最後に加転が、深く息を吸い込み、ドアを閉めた。 ――ガチャン。 心地よい音が響いた。次の瞬間、視界が激しく明滅し、強烈な浮遊感に襲われる。 ……気づけば、加転は自分のベッドの上にいた。 「……っ!!」 跳ね起きると、そこには見慣れた部屋の天井があった。窓からは柔らかな朝日が差し込み、遠くで車の走行音が聞こえる。塩素の匂いはない。ハム音もない。ただの、ありふれた朝だった。 彼は額に滲んだ汗を拭い、呆然とした表情で自分の手を見た。 「……夢、だったのか?」 あまりにリアルだった。タイルの冷たさ、あの不気味な白さ、そして、共に歩いた奇妙な仲間たちの気配。すべてが鮮明な記憶として残っている。だが、同時にそれは、急速に「夢」というラベルを貼られて、記憶の底へと沈んでいこうとしていた。 加転は、ゆっくりと体を起こし、深くため息をついた。 「……本当に、不気味な場所だったな」 彼はもう一度ベッドに潜り込み、今度は心地よい眠りについた。現実的だった、あまりに現実的な夢の記憶と共に。 同じ頃、世界中のどこかで、別の男たちが、あるいは一匹のサメが、同様に目を覚ましていた。彼らは二度と会うことはないだろう。だが、彼らの心には、消えない白いタイルの記憶が、小さな傷跡のように刻まれていた。