昼とも夜ともつかない、煤けた照明に照らされた巨大な裏市場。 崩れかけた劇場を中心に、無数の路地と露店が幾重にも絡み合っていた。偽造薬、禁制の銃、魔獣の卵、記憶を封じた瓶、誰かの名前が刻まれた短剣。客も商人も情報屋も賞金稼ぎも、互いの顔色を窺いながら、しかし決して立ち止まらずに行き交っている。 その雑踏を、黒いカソックの男が気怠げに歩いていた。 ヴィクター。両脇には二丁拳銃、腰には剣。眠そうな目をしているくせに、周囲のすべてを正確に捉えている。 「神父様、あの」 彼の少し後ろを歩いていたシスター・アリアが、伏せた目のまま囁いた。両手の鞄は重そうだったが、彼女はそれを苦にしていない。むしろ鞄の方が、持ち主を選んでいるように見えた。 「分かった分かった、真面目にやるよ」 ヴィクターは欠伸を噛み殺した。 「まだ何も言っていません」 「顔に書いてある。『警戒してください』ってな」 その時だった。 市場の古い映画館跡。その入口に、二人の異様な人物が立っていた。 黒スーツに白いマントを羽織った青年。黒髪はぼさぼさで、インカムを片耳に差している。隣には、黒いツインテールと黒いドレス、白いマントの少女。手には端末機。 人差し指。 ヘルツとロペ。音と光の神託を受ける代行者たちだった。 ヘルツのインカムが、雑音を孕んで鳴る。 『……聖葬執行機関の残党、ヴィクターへ。指令対象を確認。期限は直ちに』 ヘルツは片目だけをヴィクターへ向けた。興味がないというより、興味を持つ必要がないという目だった。 「だってさ」 ロペが端末機を抱えたまま、楽しそうに笑った。 「ねえ、おじさん。死んでくれる?」 ヴィクターは足を止めた。 市場の喧騒が、その周囲だけわずかに薄れる。商人たちが商品を引き寄せ、客たちが距離を取った。裏市場の住人は知っている。あの白いマントが出てきた時、そこには必ず死体が残る。 「断る」 「命令なのに?」 「命令なら、なおさらだな。俺は命令されるのが嫌いなんだ」 ヘルツが小さく息を吐いた。 「面倒」 「同感だ」 ヴィクターは踵を返しかけた。 ロペの笑顔が消えた。 「逃げるの?」 「そう見えるなら、目は悪くない」 「じゃあ、臆病者って呼んでいい?」 「好きにしろ。ただし、俺の背中を撃つ勇気があるならな」 次の瞬間、ロペの端末機が白く明滅した。 「なら、最初の一枚を切るね」 空気が裂けた。 光の細い線がヴィクターの背後から走る。ヴィクターは振り向きもせず、身体を半歩ずらした。光はカソックの裾を切り裂き、背後の香辛料屋台を真っ二つにした。赤い粉が爆発し、辺り一帯が真紅の煙に包まれる。 「いきなり売り物を壊すなよ」 ヴィクターが煙の中から二丁拳銃を抜いた。 銃声が連続する。 狙いはロペではない。彼女の足元、周囲の柱、頭上の吊り看板。弾丸が市場の構造物を正確に撃ち抜き、光の反射角を変え、ロペの視界を遮った。 「ロペ」 「見えてるよ」 ロペが端末機を滑らせると、空中に映像の枠が浮かんだ。銃弾がその中に入った瞬間、映像ごと停止する。 次いで、ヘルツが一歩進んだ。 彼の手には、いつの間にか大剣があった。刃の根元には音叉のような枝が伸びている。剣が低く唸っただけで、石畳の水たまりが波打った。 「消音」 ヘルツが剣を振る。 ヴィクターは後方へ跳んだ。振動の波が彼のいた場所を通り抜け、石畳を液体のように崩していく。露店の脚が溶け、商品棚が沈み、客たちが悲鳴を上げた。 「へえ。音を消すんじゃなくて、攻撃そのものを打ち消すのか」 「喋るなよ。疲れる」 ヘルツは剣を横薙ぎにした。 ヴィクターは銃を撃ちながら接近する。弾丸は音叉の刃に触れる寸前、逆相の振動に押し消された。しかし、その隙にヴィクターは一発を市場の天井から垂れ下がる鎖へ撃ち込んだ。 鎖が落ち、ヘルツの腕に絡む。 ヴィクターはその鎖を踏み台にして跳躍し、回転しながら膝を叩き込んだ。ヘルツは剣の柄で受けたが、衝撃で数歩後退する。 「やる気がないなら、帰って寝ろ」 「命令だから来た」 「そうか。じゃあ俺を殺せなかった時の言い訳も、命令のせいにしろ」 ヘルツの瞳に初めて苛立ちが宿った。 大剣が振り下ろされる。 ヴィクターは横へ滑り、剣撃の軌道に自分の銃を差し込んだ。金属が砕ける寸前、彼は銃身を捨て、もう片方の銃でヘルツの肩を撃ち抜く。 ヘルツの身体がよろめいた。 しかし同時に、剣の振動が周囲へ広がった。ヴィクターの足元の床が液状化し、膝まで沈む。 「捕まえた」 ロペが笑う。 彼女の双剣が抜かれた。鋏のように湾曲した二本の刃。その周囲で、時間がフィルムのように細かく明滅している。 「編集するね」 ロペが刃を交差させた。 ヴィクターの右腕の動きが、一瞬だけ抜き取られた。 撃とうとしたはずの腕が、動作の途中で消える。銃口は敵ではなく地面を向いた。 「なるほどな」 ヴィクターは沈みかけた足元を見た。「動作を切り取る。ただし、未来全部じゃない」 「分かるの?」 「分かるさ。俺は一人を殺すために、何年も観察してきた」 ヴィクターは左手の銃を捨てた。 そして、動かない右腕ではなく、肩と腰だけを使ってロペへ体当たりした。 ロペは驚いて身を引いたが、ヴィクターの額が彼女の鼻先を掠めた。彼は殴るのではなく、ロペの端末機へ肘を当てる。端末が飛び、映像の枠が崩れた。 その瞬間、アリアが動いた。 伏せていた顔を上げ、両手鞄を地面へ置く。 「神父様」 「分かった分かった、真面目にやるよ」 「私が言う前に返事をしないでください」 鞄が開いた。 内部から無数の銃身が展開し、機関銃の輪郭へ変形する。 「アンブロシア・バルカン」 轟音が市場を覆った。 弾幕はヘルツとロペを直接狙わなかった。二人の周囲の足場、屋台の柱、吊り下げられた金属板を撃ち抜き、逃走経路を塞ぎながら二人を中央へ追い込んでいく。 市場の観客が散り、商人たちが商品を抱えて逃げ出す。弾丸が香水瓶を砕き、色とりどりの液体が石畳を滑った。魚屋の氷が砕け、濡れた床がさらに足場を悪くする。 ロペは端末機を拾い、空間を切り取って弾幕を止めた。だが、その停止領域の外側から、アリアの弾丸が回り込む。ヴィクターが跳弾を計算し、屋根の金属板に撃ち込んでいた。 ロペの頬に浅い傷が走った。 「痛い」 「そういうものだ」 「嫌い」 ロペの双剣が翻る。 今度はアリアの動作が切り取られた。機関銃の銃身が回転を止め、引き金を引く直前の姿勢で固まる。 ヘルツがそこへ迫った。 大剣が唸る。 ヴィクターは咄嗟にアリアの前へ割り込み、剣を受け止めた。銃もない。片足はまだ液状化した床に沈んでいる。大剣の振動が骨まで響き、カソックの肩が裂けた。 「神父様」 「気にするな。服は替えがある」 「血が出ています」 「俺のか?」 「はい」 「じゃあ、やっぱり気にするな」 ヴィクターはヘルツの剣を押し返した。近距離では大剣は振り切れない。彼はそのままヘルツの懐へ入り、肘、掌底、膝を連続して叩き込む。ヘルツは無表情のまま耐えたが、最後にヴィクターの踵が膝裏を刈った。 ヘルツが片膝をつく。 ヴィクターは腰の剣へ手を伸ばした。 だが、抜くより早く、ロペの双剣が空間を切った。 ヴィクターの剣を抜く動作、その始点が切り取られる。 「それは、抜かせないよ」 「そうかよ」 ヴィクターは剣を抜かなかった。 代わりに、鞘ごと腰から外し、ロペへ投げつける。ロペが避けた隙に、ヴィクターは破壊された屋台の布を掴み、天井の滑車へ巻きつけた。 アリアが理解する。 彼女は鞄を変形させたまま、機関銃を上空へ向けた。 「撃つなよ、俺も巻き込まれる」 「分かっています」 アリアの弾幕が滑車の留め具だけを撃ち抜いた。 巨大な荷台が落下し、ヘルツとロペの間へ突っ込む。二人は左右へ分断された。 その直後、市場の奥から歓声が上がった。 新たな客の集団が、まるで洪水のように流れ込んできたのだ。裏市場の名物競売が始まったらしい。数百人の客が狭い通路へ押し寄せ、戦場はたちまち身動きも取れないほどになる。 ――ランダムイベント。 大量の客が集まり、戦場が狭くなった。 逃げ惑う人々、転倒する商人、頭上を飛ぶ荷物。敵味方の間に無関係な人間が入り乱れ、広範囲攻撃は使いにくくなる。 アリアは機関銃を止めた。 ロペはそれを見て笑う。 「撃てないね。いい子だね」 「あなたも避けるのが難しくなりました」 アリアは鞄を閉じ、反対側を開いた。 アンブロシア・ブラスト。 青い炎が細く噴き出し、群衆の頭上を舐めた。炎は人間には触れず、ロペの周囲にだけ広がる。アリアは燃えやすい布の屋台を焼き、炎の壁を作って客の流れを変えた。 市場の人々は悲鳴を上げながらも、火の向こうにいるロペを見てさらに押し合った。 ロペは双剣で炎を切り、切り取った空間を盾にした。しかし、青炎は消えない。切り取られた空間の縁から回り込み、彼女の白いマントを焦がした。 「ずるい」 「炎は、あなたの編集より早く広がります」 アリアの声は静かだった。 「でも、人は焼けます」 「焼きません」 「どうして?」 「神父様が怒ります」 「俺を理由にするなよ」 ヴィクターは苦笑しながら、ヘルツへ向き直った。 ヘルツは群衆を盾にすることもなく、ただ歩いてくる。肩の銃創から血を流しながら、大剣を引きずっていた。 「ロペを助ける」 「仲間思いだな」 「違う。ロペが泣くと、うるさい」 「それを仲間思いって言うんだよ」 ヘルツが大剣を振り上げる。 ヴィクターは市場の壁へ走った。人々の肩を踏み、屋台の天幕を蹴り、空中へ跳ぶ。ヘルツの振動波が通路を薙ぎ払い、人々の持つ金属製品を一斉に震わせる。 ヴィクターは壁の横に掛かった巨大な鏡を撃った。 鏡が砕け、無数の破片が舞う。 音叉の振動が破片へ伝わった瞬間、すべての破片が液状化し、銀色の泥となって床へ落ちた。 ヴィクターはその泥を踏み、滑るようにヘルツの懐へ入った。 ヘルツが剣を戻す前に、ヴィクターの拳が顎を打つ。続けて、肘が脇腹へ入る。ヘルツの身体が傾いた。 だが、ヴィクターの右足を振動が捉えた。 膝から下の感覚が消える。 ヘルツは無表情のまま剣を横へ払った。 ヴィクターはとっさに、近くの商人が抱えていた鉄箱を掴んだ。大剣が箱を切り裂き、内部の黒い砂が噴き出す。呪物を封じた砂だった。振動を吸収する性質があるのか、大剣の唸りが一瞬だけ鈍る。 その瞬間、ヴィクターはヘルツの手首を取り、関節を極めた。 ヘルツの大剣が落ちる。 「今だ、アリア!」 青炎が横一線に走った。 ヘルツの足元だけを焼き、彼の逃げ道を塞ぐ。アリアは炎を壁や床の金属に反射させ、直接触れずに熱の檻を作った。 ロペが叫ぶ。 「ヘルツ!」 初めて、少女の声に明確な恐怖が混じった。 ヴィクターはその一瞬を逃さなかった。 「ロペ。お前の相棒は、もう立てない」 「うそ」 「確かめてみろ」 ロペは視線をヘルツへ向けた。 ヴィクターはその間に、腰の鞘を拾い上げた。 ヘルツが顔を上げる。 「剣を抜く気?」 「いや」 ヴィクターは鞘を投げた。 ロペの足元へではない。彼女の背後にある、古い映写機へ。 鞘がレバーを押し込み、映写機が回転を始めた。劇場跡の壁一面に、古いフィルムが投影される。光と影が乱反射し、ロペの端末機が作る映像枠と干渉した。 ロペの編集能力が一瞬だけ乱れる。 「なに、これ……」 「映写機は光を切り取る道具だろ」 ヴィクターはヘルツへ銃撃を加えた。弾丸はヘルツを狙っていない。彼の周囲の鉄柱、吊り看板、足元の呪物の箱を撃ち抜く。 崩れた柱がヘルツの大剣を押さえ込む。 同時にアリアが鞄を機関銃へ戻し、狭い隙間から一発だけ撃った。弾丸はヘルツの手元を掠め、大剣の柄を遠くへ弾き飛ばす。 ヘルツがヴィクターを睨む。 「まだ、終わってない」 「そうだな」 ヴィクターは腰の剣を抜いた。 黒い鞘から、白銀の長剣が現れる。 聖剣ガリウス。 市場の照明が刃に映り、まるで細い鐘の音のような光が走った。 ロペが双剣を構える。映像の乱れを無理やり押さえ込み、空間に無数の切断線を浮かべた。 「それも編集する」 「やってみろ」 ロペの双剣が交差する。 ヴィクターの動作が切り取られる。踏み込み、剣を振る、その一連の流れが抜き取られようとした。 だが、ガリウスの刃は空間そのものを切った。 編集の境界線が断ち切られる。 ロペの双剣の片方が根元から砕けた。 「そんなの、反則……」 「切れるものを切っただけだ」 ヴィクターは剣を返し、ロペの端末機を弾き飛ばした。刃は彼女の身体には触れず、端末機だけを二つに割る。 ロペが膝をつく。 ヘルツが吠えた。感情の薄い男が、初めて声を荒げた。 「ロペに触るな」 彼は柱を押し退け、素手でヴィクターへ突進した。 ヴィクターはガリウスを構えた。 だが、アリアが炎を止めた。 市場の青い火が消え、残った熱気だけが二人の間を揺らめく。 「神父様」 「分かってる」 ヴィクターは剣先を下げた。 「逃げる道を作れ」 「よろしいのですか」 「殺す必要はない。あいつらは命令の奴隷だ。奴隷を斬っても、鎖は切れない」 ヴィクターはガリウスを一閃した。 斬られたのはヘルツでもロペでもない。二人の背後にあった、劇場跡の壁と地下へ続く鉄扉だった。 あらゆるものを切り裂く聖剣が、扉とその周囲の瓦礫を一息に切断する。地下へ下りる通路が開いた。 アリアが鞄から青炎を噴き出し、群衆を押し返す。炎は天井へ広がり、煙と熱で視界を奪った。 「行け」 ヴィクターが言った。 「命令?」 ロペが割れた端末機を抱えたまま尋ねた。 「忠告だ。次に会ったら、今度は手加減しない」 ヘルツはロペを抱き上げた。大剣を回収することもせず、地下通路へ向かう。 「次も、命令が来る」 「その時は、その命令ごと撃つ」 ヴィクターの声に、ヘルツは振り返らなかった。 ロペだけが白いマントの隙間から顔を出し、笑った。 「おじさん、名前は?」 「ヴィクター」 「覚えた。次は、ちゃんと殺すね」 「忘れてくれると助かるんだがな」 二人の姿が地下へ消える。 残された市場は、見る影もなかった。壊れた屋台、溶けた石畳、青炎の残滓、散乱した禁制品。商人たちは呆然と立ち尽くし、観客たちは遠巻きに神父とシスターを見ている。 アリアは鞄を通常の形へ戻した。 「神父様。市場の損害が大きいです」 「必要経費だ」 「教会が支払うのでしょうか」 「たぶん、俺の給料から引かれる」 「それは困りますね」 ヴィクターはガリウスを鞘へ収め、壊れた銃を拾った。銃身は歪んでいたが、まだ使えそうだった。 「困るな。だから報告書には、敵が全部壊したと書いておけ」 「事実と違います」 「神父様は嘘をついてはいけない、と言いました」 「俺がいつそんな説教をした?」 「毎週です」 アリアは伏し目がちに市場の奥を見た。 「ですが、彼らはまた来ます」 「ああ」 「戦うのですか」 「その時は、真面目にやるよ」 ヴィクターは煙の向こうを眺めた。 壊れた映画館の壁では、まだ映写機が回っていた。白い光が暗闇を切り取り、誰もいないスクリーンへ、二人の代行者が去っていった地下通路の映像を映し続けている。 裏市場の喧騒は、やがて元に戻っていく。 だがその日から、商人たちは新しい噂を売り始めた。 ――人差し指の代行者を退けた、二人の聖葬執行者。 そして地下のどこかでは、ヘルツが割れた端末機を見つめるロペに、気怠げな声で尋ねていた。 「痛い?」 「うん」 「帰る?」 「ううん。次は、もっと上手に切る」 壊れた端末機の画面に、途切れた指令文が浮かび上がる。 『……ヴィクターへ。再指令を――』 その続きを告げる声は、まだ市場のどこにも届いていなかった。