雨の名残が、裏路地の石畳を鈍く光らせていた。 夜と呼ぶにはまだ早い時間だったが、表通りから一歩外れたそこには、すでに人の気配がなかった。古びた建物の壁面に取り付けられた看板が、風もないのにかすかに揺れている。文字は半分ほど剥がれ、何の店だったのかも判別できない。 その看板の下で、ヘルツは壁に背を預けていた。 黒髪は雨に濡れてさらにまとまりを失い、白いマントの端が足元の水たまりに触れそうになっている。黒いスーツの襟元には乱れがあり、耳元のインカムだけが妙に整然としていた。 ヘルツは目を閉じていた。 眠っているようにも見えたが、実際には受話器から流れてくる音声を待っているだけだった。 やがて、耳元で短いノイズが鳴った。 彼は片目だけを開く。 『ヘルツへ。指定区域にて、伝令との合流を待機せよ。伝令から指令を受領し、次の行動へ移行せよ。期限は日没まで。』 音声はそこで途切れた。 ヘルツはしばらく黙っていた。 「……あぁ」 それから、ため息を吐く。 「合流、ね。はぁ……行きますか」 急ぐ様子もなく、彼は路地の奥へ歩き出した。 人差し指の者たちにとって、指令は疑うものではない。理解するものでもない。そこに存在し、伝えられた時点で、すでに従うべき運命として成立している。 ヘルツはその考え方を信じていた。正確には、信じる必要がないと思っていた。指令が来たなら従う。従った先で何が起ころうと、それは自分の選択ではなく、指令の続きなのだ。 だから、彼は合流地点へ向かっていた。 路地を三つ曲がった先に、使われていない小さな劇場があった。入口の扉は半開きで、古いポスターが風に煽られている。色褪せた紙面には、かつてそこで上映されていたらしい舞台の題名が残っていた。 ヘルツは扉の前で足を止めた。 中から、何かが落ちる音がした。 続いて、間の抜けた声が響く。 「……あ、来たんだ」 「君が伝令?」 「うん。たぶん」 たぶん、と言いながら、少女は劇場の奥から姿を現した。 空色のボブが薄暗い内部でも目立っている。白いマントの下には黒いスーツ。片手には端末を持ち、もう片方の手は所在なげに宙をさまよっていた。 ミルキはヘルツを見上げ、それから彼の背後を見た。 「ひとり?」 「見れば分かるでしょ」 「そっか。じゃあ、ひとりなんだね」 「……会話が成立してるのか、これ」 ヘルツがぼそりと呟くと、ミルキは少し考えた。 「成立って、どういう状態?」 「いや、もういい」 彼は劇場の内部へ視線を向けた。客席には埃が積もり、舞台の緞帳は片側だけが垂れ下がっている。天井の照明は消えていたが、壁際に置かれた古い映写機だけが、薄い光を投げていた。 光の中に、断片的な映像が浮かんでいる。 誰かが舞台袖から中央へ歩く。 立ち止まる。 右を向く。 左手を上げる。 数歩下がる。 映像は何度も繰り返されていた。 ミルキはそれをぼんやり眺めている。 「指令は?」とヘルツが尋ねた。 「見えてるよ」 「映像じゃなくて、内容」 「同じじゃない?」 「違うと思う」 ミルキは端末を軽く傾けた。画面には、文字ではなく、いくつもの動作を示す簡単な記号が並んでいる。 「劇場の中を確認。舞台の前で待機。ヘルツに伝える。必要なら一緒に移動。結果……合流完了、だって」 「それだけ?」 「うん。それだけ」 「ずいぶん簡単な指令だね」 「簡単なのは、いいことだよ」 ミルキは本当にそう思っているらしかった。 ヘルツは彼女を見た。伝令という役割にしては、あまりに緊張感がない。だが、指令を受け取っている以上、彼女がこの場にいることもまた、何かの流れに組み込まれているのだろう。 「で、僕は何をすればいい」 「舞台の前に立つ」 「今?」 「うん。映像がそう言ってるから」 「映像は喋ってないけど」 「でも、そう言ってる」 ミルキは映写機の光を見たまま、ゆっくりと歩き出した。ヘルツも仕方なく後に続く。 舞台の前まで来ると、ミルキは映像の動きをなぞるように立ち止まった。右を向き、左手を上げる。やや遅れて、ヘルツも指示された位置に立つ。 劇場の空気は静かだった。 外から雨だれの音が聞こえる。どこか遠くで車が通り過ぎ、音が建物の壁を伝って消えていく。 「ねえ、ヘルツ」 「なに」 「あなたは、指令が嫌い?」 唐突な質問だった。 ヘルツは舞台を見たまま答えた。 「嫌いも何もないよ。来たら従うだけ」 「それって、好きってこと?」 「違う」 「じゃあ、嫌い?」 「違う」 「ふうん」 ミルキは納得したのか、していないのか分からない声を漏らした。 「じゃあ、何も思ってないんだね」 「たぶん、それが一番近い」 「私は、たまに思うよ」 「何を?」 「この映像、誰が撮ってるのかなって」 ヘルツは初めて彼女の方を見た。 ミルキはまだ映写機を見ていた。淡い光が空色の髪に反射し、横顔をぼんやりと浮かび上がらせている。 「指令は指令だろ」とヘルツは言った。「どこから来たかは、問題じゃない」 「うん。そうなんだけどね」 ミルキは少しだけ笑った。 「映像には、始まる前と終わった後がないんだよ。再生されてるところだけ。だから、たまに気になる」 「気にしても仕方ない」 「そうだね」 肯定したわりに、彼女は考えることをやめなかった。 ヘルツはそれ以上、何も言わなかった。共感できるわけでもないし、慰める必要も感じない。ただ、彼女が妙に静かな劇場の中で、そういうことを考えているという事実だけは、記憶に残った。 そのとき、映写機の光が一度だけ途切れた。 二人の足元に、細長い紙片が滑り落ちる。 ミルキが拾い上げた。 「追加の指令」 「読める?」 「文字じゃないよ」 彼女は紙片を裏返した。そこには、短い動作の記録が連続して描かれていた。劇場の奥へ進む。客席中央で止まる。右側の扉を見る。ヘルツが扉を開ける。ミルキが中へ入る。 最後の一枚だけ、何も描かれていなかった。 「……嫌な終わり方だね」とミルキが言った。 「終わってないだけでしょ」 「そうかも」 ヘルツは客席中央へ向かった。誰もいない椅子の列を横切り、右側の扉の前に立つ。扉には鍵がかかっていなかった。 彼が手をかける前に、ミルキが尋ねた。 「開ける?」 「映像の通りなら」 「じゃあ、開けて」 「自分で頼むんだ」 「私は中に入る役だから」 ヘルツは小さく息を吐き、扉を開けた。 その先には、狭い廊下が伸びていた。壁には劇場の古い記録写真が飾られている。かつての役者たち、満員の客席、華やかな舞台。いずれも時間に置き去りにされ、今では薄い埃の向こうに沈んでいた。 ミルキが先に入る。 ヘルツも続く。 廊下の突き当たりには、ひとつの小部屋があった。扉は開いている。中には机と椅子、それから何台かの古い映写機が置かれていた。 映写機の一台が、誰も触れていないのに回り始める。 白い壁へ、二人の姿が映し出された。 少し前の二人だった。舞台の前に立ち、互いに言葉を交わし、客席を横切っている。映像はすでに起こったことを、少し遅れて再生していた。 ミルキは壁の映像を見つめた。 「これ、私たち?」 「そうみたいだね」 「じゃあ、今見てるものも、誰かが後で見るのかな」 「知らない」 「ヘルツは、知りたいと思わない?」 「別に」 「そう」 ミルキは映写機の前にしゃがみ込んだ。機械を調べるでもなく、ただ光の出てくる場所を覗き込んでいる。 ヘルツは部屋の壁に寄りかかった。 「指令は、これで終わり?」 「たぶんね」 「たぶんばかりだな」 「未来のことだから、たぶんでいいんじゃない?」 ヘルツは返事をしなかった。 彼の耳元で、受話器が再び鳴る。 『ヘルツへ。伝令と共に指定地点を確認せよ。確認後、帰還せよ。期限は夜明け前。』 指令は簡潔だった。 ヘルツはそれを聞き終えると、ミルキへ伝える。 「帰還だって」 「そっか」 「聞こえてた?」 「ううん。でも、映像に出てた」 「なら先に言ってよ」 「今、思い出した」 ミルキは立ち上がった。彼女が動くと、映写機の光が壁を横切り、二人の影が長く伸びる。 劇場を出る頃には、雨は完全に止んでいた。 表通りから遠く、夜の灯りが濡れた路面に滲んでいる。ヘルツは白いマントの裾を払った。ミルキは空を見上げていた。 「何してるの」 「映像を探してる」 「空には映ってないでしょ」 「まだ、今のところはね」 彼女はそう言って、歩き出した。 ヘルツは少し遅れて、その隣に並ぶ。 会話は途切れた。けれど、沈黙は不快ではなかった。ミルキは時折、何かを思い出したように端末を確認し、ヘルツは時折、耳元のインカムに触れた。 二人の間には、明確な親しさも、信頼と呼べるものもなかった。組織の指令がなければ、同じ道を歩くこともなかっただろう。 それでも、その夜の帰路だけは、二人で歩くことになっていた。 やがて、人差し指の拠点が見えてくる。 ヘルツは足を止めずに言った。 「ミルキ」 「なに?」 「今日の君の印象を言うなら、話が噛み合わない」 「それ、悪い印象?」 「別に。役割は果たしてたし」 「じゃあ、普通?」 「たぶん」 ミルキはしばらく黙ったあと、ふっと笑った。 「ヘルツの印象は、眠そうで、やる気がなくて、でも指令にはちゃんと従う人」 「それ、褒めてる?」 「分からない」 「君らしいね」 「うん。ヘルツは、私の印象、分かった?」 ヘルツは少しだけ考えた。 「……どこか上の空。でも、見えてないわけじゃない」 ミルキは足を止めた。 「見えてないわけじゃない?」 「映像も、指令も、僕のことも。ちゃんと見てる。ただ、見たものをすぐに言葉にしないだけでしょ」 ミルキは目を瞬かせた。 それから、いつものように曖昧な笑みを浮かべる。 「ヘルツって、意外と見てるんだね」 「そうかな」 「うん。じゃあ、私から見たヘルツの印象は、少し変更。眠そうで、やる気がなくて、ちゃんと見てる人」 「長くなった」 「大事なことだから」 ヘルツは返事の代わりに、短く息を吐いた。 拠点の扉が開く。 ミルキは先に中へ入り、入口で振り返った。 「じゃあ、また指令が来たら」 「そのときは行くよ」 「うん。私も、映像が出たら行く」 「……たぶん、また会うんだろうね」 「指令なら、きっと」 二人はそれぞれの通路へ分かれた。 ヘルツは白いマントを引きずるように歩きながら、耳元の受話器が次に鳴るまでの時間を考えた。短いかもしれない。長いかもしれない。だが、どちらでも構わなかった。 指令が来れば、彼は従う。 その隣にミルキがいるなら、たぶん、また彼女の映像に従うことになる。 それは運命と呼ぶにはあまりに淡白で、偶然と呼ぶには整いすぎていた。 けれど二人にとっては、そのどちらであっても問題はなかった。 次の指令が、すでにどこかで始まっている限り。