ダイオブデスの町には、奇妙な夕暮れが訪れていた。 空は薄紫色に染まり、建物の窓には一つ、また一つと明かりが灯っていく。いつもなら不穏な気配を漂わせる通りも、その日だけは少し違っていた。広場の中央に簡素な舞台が組まれ、色とりどりの旗が風に揺れている。 舞台の前には、「本日の特別公演」と書かれた看板が立っていた。 その文字の下には、さらに小さくこう記されている。 ――出演、アートフル。 「わあ、ほんとに公演するんですね!」 明るい声を響かせたのは、朝顔ハナエだった。白い救護服の上に、彼女らしい元気な装飾をいくつも身につけている。手には救護用に改造されたグレネードランチャーを抱えていたが、本人はそれをまるで大切な道具箱のように扱っていた。 「舞台があるなら、観客の体調管理も必要です! 笑顔の準備はできていますか?」 「ハナエ、まずは落ち着いてください」 隣に立つ蒼森ミネが、穏やかな声でたしなめた。青く長い髪が夕風に揺れ、背中の青い羽が静かに広がっている。その姿はまさしく凛とした白衣の天使だった。 ただし、彼女をよく知る者なら、その微笑みの奥に熱血騎士としての激しさが潜んでいることも知っている。 「今日は救護活動が目的です。公演中に何かあれば、すぐに対応します」 「はい! 私は観客の皆さんを、笑顔でいっぱいにします!」 「それが少し怖いのだと思いますが……」 ミネの後ろから、そんな控えめな声がした。 バナナペールだった。十二歳の少年らしい小柄な姿で、肩にはギターを背負っている。腰には妙に大きなグレネードランチャーも下げていたが、本人はそれを気にする様子もなく、舞台の飾り付けを眺めていた。 「なあ、ハナエ。笑顔っていうのは、もっとこう、自然に出るものじゃないのか?」 「自然な笑顔が出ないなら、出るまで応援すればいいんです!」 「それ、応援っていうより追い込みじゃないか?」 「大丈夫です! 救護騎士団の応援は、最後には必ず笑顔になりますから!」 「最後って、どの最後だよ……」 バナナペールは苦笑した。だが、表情は明るい。いつもふざけているように見えて、彼はこの場所の空気をよく見ていた。広場の隅にいる人々が緊張していることも、舞台裏から時折響く不気味な物音も、きちんと気づいている。 そして、舞台の袖。 そこに一人の男が立っていた。 黒い衣装。黒い手袋。手にしているマジック棒も、ほとんどすべてが黒い。その端だけ、黒に挟まれるように白い部分が見えている。 アートフル。 彼は観客席をじっと見渡していた。顔に浮かんでいるのは、薄い笑みだった。 「おやおや……今日はずいぶん賑やかですね」 その声に、バナナペールの肩がわずかに跳ねた。 「げっ。来たな、アートフル」 「これはこれは、バナナペールさん。お久しぶりです」 「久しぶりって言い方、なんか普通の友達みたいで嫌だな」 「友達ではありませんでしたか?」 「少なくとも、バナナの皮を投げた相手に言う台詞じゃないだろ」 アートフルの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。 過去のことを、彼は忘れていない。観客から投げられたバナナ。その投げた人物を殺した出来事。それ以来、バナナというものは彼にとって単なる果物ではなく、舞台上の失礼と侮辱を象徴するものになっていた。 バナナペールは、気まずそうに視線を逸らす。 「……まあ、あれは、その……ちょっとした冗談だったんだよ」 「冗談、ですか」 「ほら、俺っておふざけ系だし。場を盛り上げようと思って」 「なるほど。では、今日も盛り上げてくださるのですね?」 「いや、今日はやめとく。命が惜しいから」 ミネが二人の間に静かに立った。 「アートフルさん。今日は公演をするだけなのですね?」 「ええ。初めて見る方もいらっしゃいますから、気持ちは抑えて、穏やかなマジックを披露するつもりです」 「穏やかな、というのは信じてよいのでしょうか」 「もちろんです。私はマジシャンですから。観客を驚かせ、楽しませるのが仕事です」 「観客を消すのも、マジックのうちですか?」 ハナエが首をかしげた。 アートフルは彼女を見て、しばらく黙った。それから、わずかに目を細める。 「それは次のトリックのお話です」 「次のトリック?」 「本日の演目には含まれていませんよ」 ハナエは安心したように笑った。 「それなら大丈夫ですね!」 ミネは安心していなかった。むしろ、アートフルの言葉を一語ずつ記憶しているような顔をしている。 そのとき、舞台の反対側から一人の少女が駆けてきた。髪を整えながら、救護用の道具を抱えている。 「準備はほぼ完了です。観客席の確認も済ませました」 救護騎士団の一員、セリナだった。彼女は舞台を見上げ、アートフルの姿を確認すると、少しだけ警戒した。 「公演中は、観客の体調に注意します。驚きすぎて倒れる方が出るかもしれませんので」 「それはよい心がけです」 アートフルは礼儀正しく頭を下げた。 「では、皆さん。間もなく開演です」 「待てよ」 バナナペールが呼び止めた。 「俺も出演者に入ってるのか?」 「もちろんです。特別ゲストとして」 「聞いてないんだけど!」 「舞台上でギターを弾いていただければ結構です。あなたはギターがお上手だそうですね」 「まあ、それはそうだけど……」 「音楽があれば、観客も安心します」 ハナエが嬉しそうに手を叩いた。 「すてきです! ハナエも踊ります!」 「えっ、俺一人で弾くんじゃないのか?」 「もちろん私も一緒です!」 「余計に不安だ……」 ミネが小さく息をつきながらも、口元を和らげた。 「たまには、こういう催しも悪くありません。救護騎士団の活動を知ってもらう機会になりますし」 「ミネも出る?」 「私は見守ります」 「えーっ、団長も一緒に舞台に立ちましょうよ!」 「私は踊りません」 「でも羽があるから、きっときれいです!」 「ハナエ、そういう問題ではありません」 舞台袖に、少しずつ人が集まり始めた。町の住民たちはアートフルの名を知っているのか、期待と不安が入り混じった顔をしている。 アートフルはマジック棒を指先で回した。 「では、始めましょう」 彼が舞台の中央へ歩き出すと、観客席が静かになった。 「皆さん、ようこそ。今夜は、平和なマジックをお楽しみください」 その言葉に、バナナペールが小声でつぶやく。 「平和な、ねえ……」 「聞こえていますよ」 「聞こえるように言ったんだよ」 アートフルは返事の代わりに、棒を軽く振った。 舞台の脇に、長方形の黒い壁が現れた。しゃがめば隠れられそうな高さで、表面には白い細い線が走っている。観客から驚きの声が上がった。 「壁の向こうに何があるか、当ててみてください」 ハナエがすぐに手を挙げた。 「医療用カプセルです!」 「違います」 「では、絆創膏です!」 「それも違います」 「では……笑顔です!」 アートフルは少し考えるように黙った。 「それは、正解としておきましょう」 壁の裏から、色鮮やかな紙の花が次々と現れた。観客席から拍手が起こる。 バナナペールはギターを構え、軽快な旋律を弾き始めた。音は広場に心地よく響き、最初に張り詰めていた空気を少しずつほぐしていく。 「やっぱり、ギターはいいですね」 ミネが静かに言った。 「音があると、皆さんの呼吸が落ち着きます」 「だろ? 俺のギターはすごいんだよ」 「調子に乗りすぎないでください」 「ミネ、褒めた?」 「事実を述べただけです」 ハナエは音楽に合わせて踊っていた。大きく腕を振り、時折くるりと回る。観客の子どもたちも真似をし始め、広場には次第に明るい笑い声が広がっていった。 アートフルは、その様子を見ながらマジックを続ける。 黒い箱を宙に浮かせ、そこから白いリボンを出す。リボンは風に乗って観客席を巡り、最後にはハナエの手元に収まった。 「わあ! すごいです!」 「ありがとうございます」 「どうやっているんですか?」 「秘密です」 「秘密なんですね!」 「ええ、マジシャンですから」 バナナペールが演奏しながら口を挟む。 「それ、何でも秘密で済ませてないか?」 「マジシャンですから」 「便利な言葉だな……」 公演は順調に進んでいた。アートフルは初めて見る観客が多いことを意識してか、動きも声も抑えている。ミネが警戒を解いたわけではなかったが、少なくとも舞台上に危険なものは見えなかった。 やがて、最後の演目に差しかかった。 「締めくくりに、皆さん参加型のマジックを行います」 アートフルがそう告げると、観客の中から何人かが前へ出た。 「こちらの箱に、何か一つ入れてください。大切なものでなくて構いません」 観客たちは紙片や小物を箱の中へ入れていく。バナナペールは少し迷った末、ポケットから小さなピックを取り出した。 「これでいいか?」 「ええ、十分です」 アートフルが箱に蓋をする。 その瞬間、バナナペールはふと、懐からバナナの皮を取り出した。悪戯を思いついた顔だった。 「なあ、これも入れていいか?」 ミネの視線が鋭くなる。 「バナナペールさん」 「いや、今回は投げない。入れるだけ、入れるだけだから」 アートフルは彼の手元を見つめた。 広場全体が静かになった。 長い沈黙のあと、アートフルは微笑んだ。 「……今回は、許しましょう」 「今回はって言ったな?」 「ええ。ですが、その皮は箱の中へ。舞台上で余計なことをなさらぬように」 「はいはい」 バナナペールは素直に皮を箱へ入れた。 アートフルが棒を振る。箱の蓋が開き、中から紙吹雪が舞い上がった。入れた小物は消えず、すべて別々の場所に整然と並んで現れる。バナナペールのピックも、ハナエの小さなリボンも、観客が入れた紙片も、元の持ち主の前へ戻ってきた。 そして、バナナの皮だけが、アートフルの手の中に残った。 「お返しします」 「えっ、俺に?」 「あなたのものですから」 「いや、いらないって!」 「大切なものではないのですか?」 「そういう意味じゃない!」 観客から大きな笑いが起こった。アートフルも、ほんのわずかに肩を揺らした。 公演が終わるころには、広場の空気はすっかり明るくなっていた。ハナエは観客と一緒に記念の掛け声をし、バナナペールはアンコールに応じて短い曲を弾いた。ミネとセリナは体調を崩した者がいないか確認しながら、舞台の片付けを手伝っている。 アートフルは舞台の端で、一人静かにマジック棒を見つめていた。 「今日は、平和でしたね」 ミネが声をかけた。 「ええ。初めての方々には、これくらいがよいでしょう」 「次のトリックについては、まだ警戒しています」 「それは仕方ありません。あなたは救護騎士団の団長ですから」 「ええ。皆を守るのが私の役目です」 「立派ですね」 アートフルは、少し意外そうに彼女を見た。 「私を信用していないのに、立派だと?」 「信用と評価は別です。あなたが危険な人物であることは承知しています。しかし、今日の公演で観客を楽しませたことまで否定するつもりはありません」 アートフルは黙り込んだ。 少し離れた場所では、ハナエがバナナペールに話しかけている。 「バナナペールさん、次はもっと大きな舞台で演奏しましょう!」 「俺はいいけど、アートフルがまた変な公演を始めないか?」 「そのときは、ハナエが笑顔にします!」 「だから、それが怖いんだって……」 二人のやりとりを聞いて、ミネは微笑んだ。 「賑やかな子ですね」 「ええ。あのような方がいると、舞台は明るくなります」 アートフルの声は淡々としていたが、先ほどまでより少し柔らかかった。 「では、そろそろ失礼します」 「次のトリックで、平和な市民を消すつもりなら……」 「その件は、まだ秘密です」 「やはり警戒は解けませんね」 「それでよいのです。警戒されるくらいが、マジシャンとしては面白い」 アートフルは帽子を軽く持ち上げ、夜の通りへ歩き出した。 バナナペールはその背中を見送りながら、ギターの弦を指で弾いた。 「なあ、あいつってさ。怖いけど、今日だけはちょっとまともだったよな」 「バナナペールさん、本人に聞こえますよ」 「聞こえていいんだよ。俺は正直だから」 「では、あなたがアートフルさんに抱いている印象を、きちんと語ってみてください」 ミネに促され、バナナペールは腕を組んだ。 「うーん……怖い。すごく怖い。でも、マジックは本当にすごいし、観客を楽しませることはできる。俺のことを怒ってるのに、今日は許してくれたし……まあ、変な奴だけど、完全に嫌いってわけじゃない」 ハナエも元気よく手を挙げた。 「私は、アートフルさんは不思議で、ちょっと怖くて、でも上手なマジシャンだと思います! 次の公演では、もっと笑顔になってもらいたいです!」 「ハナエの印象は、ずいぶん前向きですね」 「はい!」 セリナも控えめに続けた。 「私は、警戒すべき方だと思います。ただ、今日の対応は礼儀正しく、観客への配慮もありました。危険性だけで判断するべきではないのかもしれません」 ミネは夜空を見上げ、それからアートフルの去った方角を見た。 「私の印象は、危うい人です。けれど、己の感情を抑えることも、誰かを楽しませることもできる。だからこそ、目を離してはいけないと思います。もし道を違えるなら、私は止めます。それでも今日の彼の技術と、観客に向き合った姿勢は認めます」 最後に、少し離れた通りで足を止めていたアートフルが、振り返った。 「皆さん、私への印象を語っているようですね」 「聞いてたのかよ!」 「もちろんです。マジシャンは耳がよいのですよ」 「それ絶対マジシャン関係ないだろ!」 アートフルは舞台の残った明かりを見つめた。 「私から見た皆さんの印象も、申し上げましょう」 彼はまず、バナナペールを見る。 「あなたは、軽薄そうに見えて、周囲をよく見ている。ふざけているようで、場の空気を守ろうとしているのでしょう。バナナの皮については……次から少し控えてください」 「そこは努力する」 次に、ハナエへ視線を向ける。 「あなたは、まぶしい方です。まぶしすぎて、時々周囲が目を細めるほどに。しかし、その明るさに救われる人も多いのでしょう」 「ありがとうございます! もっとまぶしくなります!」 「……ほどほどに」 セリナへは、丁寧に頭を下げた。 「あなたは慎重で、観察力があります。舞台に立つなら、よい助手になりそうですね」 「助手、ですか……考えておきます」 最後に、ミネを見る。 「そして団長さん。あなたは、静かに立っているだけで、周囲に安心を与える方です。ですが、その内側には、私でも近づきたくないほどの熱がある。あなたが守る人々は、幸運ですね」 ミネは目を細めた。 「褒め言葉として受け取っておきます」 「ええ。私も、皆さんを少し気に入りました」 「少しだけか?」 バナナペールが尋ねる。 アートフルは笑った。 「少しだけ、というのが、次の公演を楽しみにするにはちょうどよいのです」 そう言って、彼は夜の闇へ消えていった。 残された四人は、しばらくその背中を見送っていた。 「次の公演、あるのかな」 ハナエが言う。 「あるでしょうね」 ミネが答える。 「そのときも、私たちは備えておきます」 「俺、バナナの皮は持っていかないからな」 「本当ですか?」 「……たぶん」 広場に、再び笑い声が広がった。 不穏な町の夜は、いつも通り静かに深まっていく。けれどその晩だけは、黒いマジック棒と明るいギター、青い羽と元気な笑顔が残した余韻が、闇の中で小さな灯りのように揺れていた。