冷蔵庫の白い静寂の中に、それは鎮座していた。黄金色のカラメルが底に溜まり、滑らかな表面を湛えた、最後ひとつだけのプリン。 その発見者は、今水隼人だった。彼女は冷蔵庫を閉じる手をごく自然に止め、静かに呟いた。「……プリンがある」 その声は、静まり返った部屋にいた他の三人を惹きつけるに十分だった。リビングに集まった面々は、一つのデザートを巡るという、極めて些細で、かつ残酷な権力争いに身を投じることとなった。 「おやおや。なんと運命的な出会いでしょう」 口を開いたのは仙道ロウだ。彼は薄笑いを浮かべ、指先で顎を撫でながら、計算高い視線をプリンへと向けた。彼は知っている。自分がこのプリンを強引に奪い取れば、周囲の反感を買う。しかし、適切な「正義」を演出できれば、実利を得るか、あるいは誰かを操るためのカードにできることを。 「さて、この貴重な資源を誰に分配すべきか。私は、最も『貢献度』の高い者に与えられるべきだと思いますね。例えば……この場にいる中で、誰よりも自己犠牲的に他人を救っている、そんな聖人君子にこそ、ささやかな報酬が許される。そうは思いませんか?」 仙道の視線が、天健都へと向けられる。それは一見、親切な推薦に見えた。しかし、その裏には「健都に譲ることで、彼を精神的な債務者にし、将来的に自分の駒として利用しやすくする」という打算が透けていた。 健都は無表情のまま、ただじっとプリンを見つめていた。彼は甘いものが好きだ。心臓の鼓動がわずかに速まる。だが、彼は朴念仁である。誰かに勧められたからといって、それを当然として受け取るような性質ではなかった。 「……俺はいい。必要としている奴が他にいる」 短く、ぶっきらぼうに答える健都。その視線は、隣で今にも泣き出しそうな顔をしている少女――プリン大好き魔法少女に向けられていた。 「えええええ!? プリン! プリンがある! 本当にあるんだね!!」 魔法少女は飛び上がった。その瞳には、狂おしいほどの愛と渇望が宿っている。彼女にとってプリンとは単なる菓子ではない。信仰であり、救いであり、世界の全てである。しかし、彼女の周囲には常に不可視の絶望が張り付いていた。人々を救えば救うほど、彼女から「プリンを食べる」という因果が削り取られていく呪いのような宿命。 「お願い! 私に! 私に食べさせて! 私、昨日も悪の組織と戦って、もう限界なの! プリンを食べないと、世界が平和になれないよぉ!!」 彼女の切実な叫びが響く。仙道はそれを心地よい音楽でも聴くかのように聞き流し、ふっと口角を上げた。彼は能力を使い、魔法少女の「渇望」をさらに煽る。同時に、今水隼人の心にある「真面目さ」と「同情心」に、静かに火を灯した。 「ふむ。確かに彼女の情熱は凄まじい。ですが、今水さん。あなたはどう考えますか? 努力家で、常に最善を尽くすあなたが、客観的に見て『相応しい者』を判断していただきたい」 標的にされた隼人は、困惑した。彼女は悩みを溜めやすい性格だ。魔法少女の悲痛な訴えと、健都の静かな譲歩、そして仙道の巧みな誘導。彼女の脳内で「最善の行動」を導き出す能力が、無意識に作動し始める。 (……誰が食べるのが一番、みんなが納得するか。健都君は譲ってくれたし、仙道さんは自分はいいと言っている。でも、あの魔法少女さんは……本当に、本当に食べたがっている) 隼人は、魔法少女の瞳に宿る、絶望的なまでの飢餓感を見た。それは単なる食欲ではなく、存在証明を求める叫びに見えた。隼人は決意した。彼女は最大限の誠実さを持って、結論を導き出した。 「……私は、魔法少女さんに食べてほしいと思います。彼女の、プリンに対する情熱は誰よりも強いですし、何より……今、一番それを必要としているのは彼女だと思うから」 「えっ!?」 魔法少女が絶叫に近い声を上げる。健都も、わずかに目を見開いた。仙道は「想定通り」という顔で肩をすくめる。彼はあえて自分が譲ることで、隼人に「正しい判断をさせた」という満足感を与え、魔法少女には「恩」を売った。 結論は出た。唯一のプリンを食べる権利は、プリン大好き魔法少女に与えられた。 彼女は震える手でプリンを手に取った。スプーンを差し込む。プルンとした弾力。黄金色のカラメルが混ざり合い、濃厚なカスタードの香りが鼻腔をくすぐる。彼女は目を閉じ、ゆっくりと一口、口に運んだ。 ――その瞬間。 魔法少女の表情が、歓喜から、深い静寂へと変わった。 (……味が、しない) 彼女がプリンを口に含んだ瞬間、その「プリンという概念」は、彼女がこれまで消費してきた因果の穴を埋めるためのエネルギーとして、瞬時に吸収された。味覚として享受される前に、魔法の対価として消失したのだ。 それでも、彼女は無理に笑った。喉を通る冷たい感触だけを、人生で最高の贅沢として噛みしめ、空になった容器を凝視した。 「……おいしかったよ。本当に、本当に最高だったぁ……っ」 彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。それは幸福の涙か、あるいは絶望の確認か。 「……ふぅ。なんと美しい光景だ」 仙道は満足げに微笑みながら、何も得なかったはずの勝利に浸っていた。彼はこの一件で、隼人の信頼と、魔法少女の心への楔を打ち込むことに成功した。 「……もったいなかったな」 健都は小さく呟いた。彼は本当は、あの一口を、静かに味わいたかった。だが、彼はすぐにそれを諦め、不器用な手で魔法少女の背中を軽く叩いた。 「……次は、俺が買ってくる」 その言葉だけが、静まり返った冷蔵庫の前で、唯一の救いとして響いていた。