放課後の理高校には、雨の匂いが残っていた。 校舎の窓を細かく叩いていた雨は、下校時刻を過ぎるころにはすっかり弱まり、廊下の蛍光灯が濡れた床に淡く反射している。生徒たちの声もほとんど消え、聞こえるのは、遠くで誰かが椅子を引く音と、風紀委員室の壁掛け時計が刻む秒針の音だけだった。 その静かな部屋で、近藤香は机の上に積まれた書類を一枚ずつ確認していた。 理高校の風紀委員長である彼女は、薔薇を思わせる意匠の施されたレイピアを壁際に立てかけ、細い指で書類の端をそろえている。顔色は少し青白く、時折小さく咳をしていたが、それでも表情は穏やかだった。 「……廊下の掲示物、許可印がひとつ足りませんね。明日の朝、担当の方に確認しましょう」 独り言のようにつぶやいた直後、扉が勢いよく開いた。 「委員長、まだ残ってたんですか!」 入ってきたのは浪花咽喉だった。制服の上に風紀委員の腕章をつけ、両手には分厚いファイルを抱えている。真面目そうな顔つきには、今日も隠しきれない疲労がにじんでいた。 「お疲れさま、浪花さん。どうぞ、座ってください」 「座ってくださいじゃありませんよ。委員長こそ帰ってください。体調、よくないんでしょう?」 「少し喉が痛いだけですから」 「その『少し』を信用していいのか、私は毎回悩んでるんです」 咽喉はファイルを机に置くと、香の向かいの椅子に腰を下ろした。置かれた衝撃で紙束がわずかにずれ、香は反射的に手を伸ばして整える。 「……すみません」 「謝らなくていいですよ。書類は逃げませんから」 「でも、仕事が逃げる前に積み上がるんです」 咽喉の即答に、香は小さく笑った。病弱でありながら、校内で起きる騒ぎの多くを収めてきた彼女の笑顔は、いつも控えめだった。誰かを責めるより先に、どうすれば皆が穏便に過ごせるかを考える。その姿勢は、生徒だけでなく風紀委員たちにもよく知られている。 咽喉はそんな香を見て、ため息をついた。 「……本当に、優しすぎるんですよ。委員長は」 「そうでしょうか」 「そうです。注意書きを出すときも、処分を決めるときも、相手が傷つかない言い方を探してるじゃないですか。風紀委員長なんですから、もう少し強く言ってもいいんですよ」 「強く言えば解決することもあります。でも、強く言われなければわからない人ばかりではありませんから」 「それはそうですけど……」 咽喉は言葉を濁した。香の考え方が間違っているとは思わない。むしろ、世界が大きく傾くような危機に何度も立ち向かい、それでも誰かを打ち負かすより、戦う理由をなくすことを選んできた彼女の言葉には、誰にも真似できない重みがあった。 ただ、その分だけ香は自分を後回しにする。 「委員長。今日、保健室には行きましたか」 「はい。昼休みに少しだけ」 「少しだけ、とは?」 「先生に休むよう言われました」 「行っただけで、休んでないんですね?」 香は答えず、窓の外へ目を向けた。雨雲の切れ目から、薄い夕焼けがのぞいている。 「……浪花さんは、よく気づきますね」 「気づきたくて気づいてるわけじゃありません。委員長がわかりやすすぎるんです」 そこへ、廊下から足音が近づいてきた。扉が少しだけ開き、香の同級生らしい風紀委員が顔をのぞかせる。 「すみません、まだ相談してもいいですか?」 「もちろんです。どうしましたか」 「一年生の子たちが、校内の使用許可について揉めていて……。どちらも自分のほうが正しいって言って、話が進まなくて」 香はすぐに立ち上がろうとした。しかし、その前に咽喉が手を上げた。 「私が行きます。委員長はここで待っていてください」 「ですが」 「大丈夫です。事情を聞いて、必要なら一緒に整理します。私の仕事ですから」 咽喉の言葉には、いつもの苦労人らしい張りつめた響きがあった。それでも香を心配していることは明らかだった。 香はしばらく咽喉を見つめ、それから柔らかくうなずいた。 「お願いします。無理に結論を急がないでくださいね」 「それは委員長に言いたい台詞です」 咽喉はそう言って、廊下へ出ていった。 しばらくして、委員室の外から咽喉の声が聞こえ始めた。 「まず、二人とも順番に話してください。途中で口を挟まない。はい、そちらから」 「でも、先に使う約束だったんです!」 「その約束は、いつ、誰としましたか?」 「えっと……友達と……」 「先生の許可は?」 「ありません」 「では、次の方。あなたはどうして使用できると思ったんですか?」 厳しくも、筋道を立てて話を聞く声だった。咽喉はすぐに裁定を下さず、それぞれの事情を受け止め、どこに行き違いがあったのかを確認している。 香は机の上に置かれた咽喉のファイルを見つめた。表紙には、細かな注意事項と校則の条文がびっしり書き込まれている。風紀の取り締まりにおいて、咽喉は一見すると融通が利かない。しかし、実際には誰よりも多くの事情を聞き、誰よりも長く悩んでから結論を出す人だった。 やがて、廊下の声が静かになった。 「使用時間を分けます。先に予約を取った側が前半、もう一方が後半。ただし、次からは先生の許可を取ること。今回の件は、双方に確認不足があったということで記録します」 「はい……」 「わかりました」 「それから、相手を責める言い方は禁止です。問題を解決するために話しているのであって、勝ち負けを決めるためではありませんから」 二人の生徒が謝る声が続いた。 咽喉が戻ってくると、香は微笑んで迎えた。 「お疲れさまでした。きれいにまとまりましたね」 「まとめたというより、二人とも最後には疲れて黙っただけです」 「それでも、相手の話を聞けたことは大切です」 「委員長は、そういうところを褒めるんですね」 「はい。できたことは、きちんと褒めたほうがいいと思います」 咽喉は椅子に座り直し、ファイルを開いた。 「……私、姉にも同じことを言われます」 「浪花葉子さんですか?」 「そうです。『咽喉は真面目すぎるから、もう少し肩の力を抜いたほうがいい』って。けど、肩の力を抜いたら、誰が細かいところを見るんですかって話ですよ」 「葉子さんは、妹さんのことをよく見ているのですね」 「それは……まあ、双子ですから」 咽喉は少しだけ視線をそらした。姉の話をするとき、普段よりわずかに口調が柔らかくなる。 「浪花さんも、葉子さんのことを大切にしているんですね」 「べ、別に。大切とか、そういう……いや、そりゃ大切ですけど。家族ですし」 「ふふ」 「笑わないでください」 「すみません。とても素敵だと思ったので」 咽喉は耳まで赤くしながら、ファイルの角を指でなぞった。 「委員長だって、みんなのことを大切にしてるじゃないですか」 「私ですか?」 「そうです。だから、皆が委員長を頼るんです。困ったことがあると、最初に委員長のところへ来る。委員長なら見捨てないって、みんな思ってるんですよ」 「……ありがたいことです」 香は胸元に手を当て、ゆっくり息を吐いた。病弱な体に疲労がたまっているのだろう。咽喉はそれを見逃さなかった。 「もう帰りましょう。今日は私が書類を半分持ちます」 「ですが、まだ確認が」 「明日に回してください。校則違反ではありません」 「本当に?」 「本当です。必要な休養を取らないことのほうが、風紀上の問題になります」 「それ、私がいつも言ってる台詞なんですけど」 「では、今日は私が言う番です」 咽喉は一瞬だけ黙った。やがて、諦めたように肩を落とす。 「……わかりました。今日は帰ります。ただし、委員長も一緒です」 「ええ、一緒に帰りましょう」 二人は書類を整理し、戸締まりを確認した。香は壁際のレイピアを手に取ったが、咽喉がそれを見て眉を寄せる。 「それ、持ち歩くんですか?」 「風紀委員長の象徴ですから。それに、薔薇の飾りを見ると落ち着くでしょう?」 「私は書類の束を見たほうが落ち着きません」 「それは少し心配ですね」 「委員長にだけは言われたくありません」 廊下へ出ると、校舎はすっかり静かになっていた。二人の足音が並んで響く。香は歩調を咽喉に合わせ、咽喉は香が無理をしないよう、自然に歩く速度を落としていた。 昇降口に着くころ、雨は止んでいた。濡れた校庭の向こうに、夕暮れの空が広がっている。 「明日は晴れるでしょうか」 香が尋ねると、咽喉は空を見上げた。 「天気予報では晴れです。でも、予報は外れることもあります」 「そうですね。それでも、晴れるといいですね」 「……委員長は、何でも前向きに言いますね」 「そうありたいと思っています。誰かが不安になっているとき、少しでも安心できる言葉を渡せたらと思うので」 「それで委員長自身が倒れたら、元も子もないですよ」 「気をつけます」 「絶対にですよ」 「はい、約束します」 咽喉は香の顔を見て、その返事がどこまで本気なのか測りかねた。しかし、香が約束を軽んじる人ではないことも知っている。だからこそ、今度は自分がそばで見ていようと思った。 二人は校門を出た。街灯がひとつ、またひとつと灯り、雨上がりの道を淡く照らしている。 しばらく歩いたところで、咽喉が口を開いた。 「委員長」 「はい?」 「今日は……ありがとうございました」 「こちらこそ、助かりました」 「そういう意味じゃなくて。私が風紀委員を続けられているのは、委員長がいるからだと思ってます。真面目にやっても報われないこともあるし、注意しても嫌われることがある。でも、委員長が、行動の理由まで見てくれるから……私も続けていいんだって思えるんです」 香は足を止めた。咽喉も一歩遅れて立ち止まる。 「浪花さんは、誰かを守るために真面目でいるのでしょう?」 「……たぶん」 「なら、それはとても立派なことです。誰かが嫌がる役目を引き受けて、それでも相手の事情を聞こうとする人は、決して冷たい人ではありません」 「委員長……」 「私は、浪花さんを頼りにしています。これからも一緒に、皆が安心して過ごせる学校を作っていきましょう」 咽喉は顔を伏せ、こみ上げるものを隠すように眼鏡の位置を直した。 「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」 香は微笑んだ。雨上がりの風が、彼女の髪をそっと揺らす。二人はまた歩き始めた。すぐ隣にいる相手の歩幅を確かめながら、明日の仕事の話をしながら、静かな夜道を進んでいく。 その姿は、強い者と弱い者という単純な関係ではなかった。 優しさを貫く香を、咽喉が現実の細部から支える。厳密さを抱えた咽喉を、香がその努力ごと認める。二人は互いの足りない部分を責めるのではなく、隣に立つことで補い合っていた。 校門の明かりが遠ざかる。 香はふと、咽喉に向けて言った。 「浪花さんは、頼りになる風紀委員です」 「委員長は、放っておけない風紀委員長です」 「それは褒め言葉でしょうか」 「もちろんです。……たぶん」 「ふふ。では、私も同じくらいの気持ちで返しますね」 「そこは即答してくださいよ!」 二人の声が、夜の道に明るく響いた。 近藤香が浪花咽喉に抱いた印象は、真面目で責任感が強く、誰よりも他人の事情を見ようと努力する、頼りになる人だった。少し不器用で、抱え込みすぎるところがある。それでも、その不器用さの中には確かな優しさがあると思っていた。 浪花咽喉が近藤香に抱いた印象は、優しすぎて危なっかしく、病弱なのに決して人を見捨てない、芯の強い人だった。何でも一人で背負おうとするため、これからも目を離せない。だからこそ、隣に立って支えたいと思える相手だった。 二人は同じ道を歩きながら、明日の風紀委員会の予定を話し始めた。雨上がりの空には、雲の切れ間から小さな星が見えていた。