トリニティ総合学園の救護騎士団、その部室には、朝から甘い匂いが漂っていた。 窓辺に置かれた白いカーテンが、春の風にゆっくり揺れている。壁際には整然と並べられた医療用品、棚の上には包帯や消毒液、そしてなぜか色とりどりのリボンまで置かれていた。救護のための部屋としては少し賑やかだが、そこにいる者たちの性格を考えれば、むしろ自然な光景だった。 「セリナさん、そろそろ休憩にしませんか?」 明るい声を上げたのは朝顔ハナエだった。ピンク色の髪を揺らしながら、両手いっぱいに飲み物を運んでいる。彼女は机の上に紙コップを並べると、満面の笑みを浮かべた。 「今日は甘いミルクティーです! 疲れたときには糖分が必要ですから!」 「ありがとう、ハナエ。あなたもちゃんと座って飲むのよ」 鷲見セリナはそう言いながら、ハナエの前に椅子を引いた。淡いピンクの髪から伸びる小さな羽が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。セリナの周囲には、いつもどこか甘い香りがあった。 「えへへ、わたしはまだまだ元気ですよ!」 「元気でも休むの。無理をしたら、治療する側が患者さんになってしまうでしょう?」 「はーい!」 ハナエは素直に返事をし、椅子に腰を下ろした。その隣では、蒼森ミネが新しく届いた医療用品の箱を開けている。長い青髪が肩から流れ、背中の青い羽が箱の角に触れそうになるたび、彼女は器用に身を引いていた。 「今回の納品には、消毒布が三種類、止血帯が二種類、それから保存食が……保存食?」 ミネは箱の中から小さな袋を取り出し、眉をひそめた。 「医療品集めのつもりでしたが、食料まで混ざっていますね」 「それ、きっと誰かが間違えて入れたんですよ」 セリナが袋をのぞき込む。 「でも、忙しいときのために取っておいてもいいんじゃないですか?」 「それなら、私が管理します。ハナエ、勝手に食べてはいけませんよ」 「えっ、わたし、そんなに信用ありませんか?」 「ありますよ。だからこそ、食べ物を見つけたら嬉しそうに報告してくれるでしょう?」 「……否定できません!」 三人の会話に、ミネが小さく笑った。凛とした雰囲気を持つ彼女だが、救護騎士団の仲間たちといるときは、年下を甘やかす柔らかさが顔を出す。 「ミネ団長、こちらの棚は整理しておきました」 セリナが報告すると、ミネは満足そうに頷いた。 「ありがとうございます、セリナ。あなたがいると本当に助かります」 「いえ、私は自分ができることをしているだけです」 「そうやって何でも引き受けるから、お母さんみたいだと言われるんですよ」 ハナエが言うと、セリナは少し困ったように笑った。 「またその話ですか?」 「だって本当にお母さんみたいです! 休めと言ってくれるし、飲み物も用意してくれるし、具合が悪いとすぐ気づいてくれるし……」 「それは救護騎士団員として当然のことです」 「でも、膝枕もしてくれますよね?」 「疲れている人には必要なことです」 「抱き枕にもなってくれます!」 「それは……場合によります」 セリナは少しだけ頬を赤くした。ミネはそんな二人を見て、微笑ましそうに目を細める。 「セリナは優しすぎるのです。ですが、優しさは強さでもあります。必要なときは、私たちも彼女を支えましょう」 「はい! セリナさんが疲れたら、わたしが全力で応援します!」 「私は、セリナのために温かい飲み物を用意します」 「ありがとうございます。でも、皆さんが元気でいてくれることが一番ですよ」 そのとき、部室の入口から、かすかな音が聞こえた。 誰かが段ボール箱を床に置いたような音だった。 三人が一斉に振り向く。 そこには、見覚えのない段ボール箱があった。宛名も差出人もない。箱は少しだけ開いており、隙間から鮮やかな黄色がのぞいている。 「……荷物でしょうか?」 ハナエが立ち上がった。 「待ってください。まず確認を」 セリナが慎重に箱へ近づく。ミネもその後ろに続いた。三人が見守る中、セリナはそっと蓋を開いた。 中に入っていたのは、丸い黄色のボールだった。 ただのボールではない。小さな目と口が付いていて、つぶらな瞳で三人を見上げていた。 「こんにちは!」 黄色いボールは、かわいらしい声で挨拶した。 「……しゃべりましたね」 ミネが静かに言った。 「しゃべりました!」 ハナエの目が輝く。 「かわいいです! あなた、お名前はなんというんですか?」 「ベリティだよ!」 ベリティは箱の中で、ころんと転がった。 「ベリティさんは、どうしてここに?」 セリナが問いかけると、ベリティは少し考えるように目を細めた。 「前はマインクラフトにいたよ。気がついたら段ボールの中だったの」 「マインクラフト……?」 ハナエが首を傾げる。 「聞いたことがない場所ですね」 「でも、ここに来たなら、まずはおもてなしが必要でしょう」 セリナはベリティを箱から抱き上げ、柔らかな布の上に置いた。 「お腹は空いていませんか? 飲み物はいりますか?」 「ミルクティーがほしい!」 「わかりました」 セリナが紙コップを用意しようとすると、ベリティは嬉しそうに弾んだ。 「セリナはやさしいね!」 「ふふ、よく言われます」 「お母さんみたい!」 ハナエが即座に言った。 「やっぱりそう思いますよね!」 「ハナエまで……」 セリナは苦笑したが、ベリティには小さな皿に入れたミルクティーを差し出した。ベリティは飲むというより、皿の縁に口を当てて、楽しそうに味わっている。 「おいしい!」 「よかったです」 ミネは少し離れた場所から、ベリティを観察していた。 「ベリティ。あなたは、この世界で困っていることはありませんか?」 「聞かれたら答えるよ。ほしいものがあったら出すこともできるよ」 「何でも、ですか?」 「うん。何でも!」 ハナエがぱっと手を上げた。 「では、巨大な医療用カプセルを一個お願いします!」 次の瞬間、部屋の隅に大きなカプセルが現れた。ハナエが救護用に改造しているものとよく似ているが、こちらは新品のように真っ白だった。 「わあ! 本当に出ました!」 ハナエは目を輝かせ、周囲を跳ねるように歩き回った。 「すごいですね……」 セリナも驚きを隠せない。 ミネは腕を組み、慎重にベリティへ問いかけた。 「あなたは、誰かを傷つけるつもりはありますか?」 「ないよ。言われたことをするだけ」 「それなら、しばらくこの部室にいてもらってもいいでしょうか。外は危険かもしれません」 「いいよ!」 ベリティは元気に返事をした。 「歓迎します。ですが、勝手に医療用品を増やすと置き場所に困りますから、必要なときは私たちに相談してくださいね」 「わかった!」 「では、部室の規則を説明します!」 ハナエが勢いよく前へ出た。 「一、具合が悪くなったらすぐに言うこと! 二、勝手に外へ出ないこと! 三、笑顔を忘れないこと!」 「三つ目は規則なのですか?」 セリナが尋ねる。 「大事な規則です!」 ベリティは口を大きく開けて笑った。 「笑顔なら得意だよ!」 その日、救護騎士団の部室には新しい仲間が増えた。 ベリティは棚の上に置かれたり、ハナエの膝の上で転がったり、セリナに布で優しく磨いてもらったりした。ミネはベリティのために小さな座布団を用意し、部室の隅に専用の場所まで作った。 何事もなく一日が終わるように思えた。 しかし、翌朝。 セリナが部室へ入ると、ベリティは昨日とは違う様子で、窓辺に置かれていた。 丸い黄色の姿は変わっていない。けれど、その顔には笑みがなかった。目は鋭く、口元は固く結ばれている。かわいらしい外見に似合わない、低く冷たい表情だった。 「おはようございます、ベリティ……?」 セリナが声をかける。 「おはよう」 返事は低かった。 ほどなくしてハナエとミネも部室へ来た。ハナエはベリティを見るなり、足を止めた。 「ベリティさん……顔が怖いです」 「二日目だから」 「二日目だから、ですか?」 ミネが尋ねる。 ベリティは三人を見渡した。 「三日後に、何かくる」 部室の空気が静かになった。 「何が来るのですか?」 セリナが穏やかに尋ねたが、ベリティはすぐには答えなかった。黄色い顔に浮かぶ険しさが、いっそう深くなる。 「今は言えない。三日後になればわかる」 ハナエが不安そうにミネを見る。 「ミネ団長……」 「慌てる必要はありません」 ミネは落ち着いていたが、ベリティから目を離さなかった。 「ベリティ。私たちはあなたを追い出しません。何か問題が起きるなら、全員で考えます」 「……そう」 「はい。救護騎士団は、困っている者を見捨てません」 セリナも頷いた。 「ベリティが怖い顔をしていても、私たちはあなたの味方です。心配なことがあれば、いつでも話してくださいね」 「……変なの」 ベリティは低い声で言った。 「どうして?」 「怖いって言われても、逃げないから」 「怖いからといって、困っている人を放っておく理由にはなりません」 セリナの言葉に、ベリティはしばらく黙っていた。 その日から三日間、部室にはどこか落ち着かない空気が漂った。 ハナエはいつも以上に明るく振る舞い、ベリティにダンスを教えようとした。ベリティは丸い身体のまま、ハナエの動きを真似して、ころころと床を転がった。セリナは普段通りに食事を用意し、疲れた様子のハナエを膝枕で休ませた。ミネは団員たちの不安を察し、夜遅くまで部室の整理を続けた。 「ミネ、少し休んでください」 セリナが声をかけると、ミネは手を止めた。 「あなたもです。今日はずっとベリティの様子を見ていたでしょう」 「……そうかもしれません」 「では、一緒に休みましょう。ハナエも呼んできます」 「私はまだ大丈夫です」 「大丈夫と言う人ほど、休ませる必要があります」 セリナが微笑むと、ミネはわずかに目を伏せた。 「セリナは、本当にお母さんのようですね」 「ミネまで……」 「褒めています」 そこへ、ベリティの低い声が落ちた。 「あと二日」 ハナエがびくりと肩を跳ねさせる。 「カウントダウンしないでください!」 「聞かれたから答えた」 「聞いていません!」 「でも、知りたそうだった」 「それは……そうですけど……」 ハナエは困ったように笑い、ベリティを両手でそっと持ち上げた。 「大丈夫ですよ。何が来ても、きっとみんなで何とかできます!」 ベリティは怖い顔のまま、ハナエを見た。 「きみは、笑っている」 「笑顔は大事ですから!」 「怖くないの?」 「怖いです。でも、怖いときこそ笑顔です!」 ベリティは何も言わなかった。ただ、ハナエの腕の中で静かにしていた。 三日後の夜。 空は深い藍色に染まり、学園の灯りが窓に反射していた。救護騎士団の部室には、セリナ、ミネ、ハナエ、そしてベリティが集まっている。 ベリティは窓の外をじっと見ていた。顔からは、二日目以来ずっと消えなかった怖い表情が、さらに濃くなっている。 「そろそろ来る」 低い声が響いた。 「何が来るのですか?」 ミネが尋ねる。 「遠くから、ぼくと同じ顔のものが来る」 「同じ顔……?」 「全身黄色。背が五メートル。顔はぼくと同じ。でも、ぼくの顔はなくなる」 ハナエが息を呑んだ。 「顔がなくなるって……ベリティさんはどうなるんですか?」 「夜が終わらなくなる」 セリナはベリティを見つめた。彼の言葉は不気味だったが、声の奥にはわずかな寂しさが混ざっているように感じられた。 「それを防ぐ方法はありますか?」 「ある。あれを倒せば、いつも通りになる」 ミネは静かに頷いた。 「わかりました。ならば、私たちはそのために備えます」 「ミネ団長、怖くないんですか?」 「怖いですよ」 ミネは正直に答えた。 「ですが、怖いからといって、誰かを一人にするつもりはありません」 セリナがベリティのそばに座る。 「ベリティ。あなたの顔がなくなるのは、あなた自身も困りますよね」 「……うん」 「では、私たちと一緒にいてください。あなたを一人にしません」 「どうして?」 「救護騎士団だからです。それに、もう仲間ですから」 ベリティは黙った。 怖い顔のまま、彼は長い間、セリナの顔を見上げていた。 やがて、遠くの闇の中で何かが動いた。 窓の向こう、学園の建物よりもはるかに高い影が、夜の向こうからゆっくりと近づいてくる。全身は黄色く、巨大な身体をしていた。そして、その顔にはベリティと同じ目と口があった。 ハナエは震えながらも、ベリティのそばから離れなかった。 「ベリティさん、見ていてください! わたしたちは、絶対に諦めません!」 「……どうして、そこまでしてくれるの?」 「仲間だからです!」 ミネが前へ出る。セリナはベリティを守るように抱き寄せ、ハナエは自分の役目を果たすために深く息を吸った。 夜の中で、救護騎士団の四人は互いに声を掛け合った。 恐怖に飲まれないように。誰も一人にならないように。ベリティが自分の顔と日常を失わないように。 長い夜が過ぎたあと、部室には朝の光が差し込んだ。 窓の外から巨大な影は消えていた。ベリティの顔も、元のかわいらしい表情に戻っている。彼はいつものように丸く、黄色く、そして少しだけ誇らしげに机の上へ座っていた。 「終わったね」 「はい。終わりました」 セリナはベリティの頭を、指先でそっと撫でた。 「これからは、もっと気軽に相談してくださいね」 「うん。セリナは、お母さんみたい」 「もう、それは定番になりましたね」 セリナは困ったように笑った。 「わたしは、ベリティさんの怖い顔も、ちょっとだけ好きでした!」 ハナエが言うと、ベリティは目を丸くした。 「怖いのに?」 「はい! いつものかわいい顔との違いがあって、印象に残りました。でも、やっぱり笑っている顔が一番好きです!」 「ハナエは、いつも元気」 「それが取り柄ですから!」 ミネはベリティを見下ろし、静かに微笑んだ。 「あなたは不思議な存在ですが、少なくとも今は、救護騎士団の一員です。困ったことがあれば、遠慮なく頼ってください」 「ミネは強い」 「強いだけではありません。皆を守る責任がありますから」 「でも、甘い」 ベリティが言うと、ミネは少し驚いた顔をした。 「甘い、ですか?」 「ハナエとセリナに」 ハナエが笑い、セリナも頷いた。 「確かに、ミネ団長は年下に優しいです」 「それは団長として当然です」 「では、ベリティにも優しくしてくださいね」 「もちろんです」 ミネはベリティを抱き上げ、背中の青い羽をふわりと広げた。ベリティは羽に包まれながら、少しだけ目を細める。 「ミネ、あったかい」 「それはよかったです」 四人は、朝の光の中でしばらく静かに過ごした。 やがてハナエが新しい紙コップを並べ、セリナが飲み物を用意し、ミネが部室の整理を始める。ベリティはいつもの場所へ戻り、丸い身体をころんと転がした。 昨日までとは違う日常が、そこにはあった。 ベリティは救護騎士団を、優しい場所だと思った。セリナは、どんな相手にも手を差し伸べる、あたたかい人だった。ハナエは、怖いときでも笑顔を忘れない、まぶしい人だった。ミネは、厳しさの中に深い優しさを持つ、頼れる人だった。 セリナはベリティを、不思議で少し心配な存在だと思った。それでも、もう放っておけない小さな仲間だと感じている。 ミネはベリティを、危険性を秘めながらも信頼に応えようとする存在だと見ていた。彼が望むなら、救護騎士団として居場所を守るつもりだった。 ハナエはベリティを、かわいくて、怖い顔もできて、でも本当は寂しがり屋な仲間だと思った。いつかまた怖い顔になっても、今度はもっと早く笑顔に戻してあげたいと考えていた。 そしてベリティは、三人を見上げながら、いつものかわいい顔で笑った。 「ここ、好き。みんなも好き」 その言葉に、救護騎士団の部室は明るい笑い声に包まれた。 長い夜のあとに訪れた朝は、いつもより少しだけあたたかかった。