漂泊のプール・リミナルスペース 目を開けたとき、最初に感じたのは鼻を突く強烈な塩素の匂いだった。そして、耳を劈くような、低く、執拗な「ブーーー」という蛍光灯のハム音。 そこは、狂ったほどに白い世界だった。 床も、壁も、天井も。すべてが新品未使用のような、不気味なほどに真っ白なタイルで覆われている。足元には数センチほどの透き通った水が溜まっており、歩くたびにチャプチャプと心地よくも空虚な音が響く。視界の先には、どこに繋がっているのかさえ分からないプラスチック製のプールスライダーが、幾何学的な曲線を描いて天井へと消えていた。 「……ここ、は?」 最初に声を上げたのは、軍服に身を包んだ人狼、[銀弾]ウィルだった。彼は反射的に腰の大型拳銃に手をかけ、周囲を鋭く警戒する。しかし、そこには敵の気配など微塵もない。ただ、無限に続くかのような白いタイルの回廊と、不規則に配置されたプールがあるだけだった。 「おはよーっす!!……って、ここどこっすか!? お掃除しに来た覚えはないっすよ!!」 銀髪のポニーテールを揺らし、活発すぎるメイドロイド、メザンが叫ぶ。彼女は愛用の巨大なロケットランチャーを肩に担ぎ、キョロキョロと周囲を見渡していた。その表情には不安よりも好奇心が勝っているようだが、それでも状況の異常さには気づいているらしい。 「ふむ。実に奇妙な場所だ。時間の流れが停滞しているというか……あるいは、定義そのものが欠落している空間か」 黄金の鎧を纏った王、仮面ライダーオーマジオウが、静かに腕を組んで佇んでいた。全ライダーの力を持ち、時間を操る魔王である彼でさえ、この場所の「正体」を即座に突き止めることはできなかった。ただ、ここが現実の物理法則に従った場所ではないことだけは確信していた。 「ふふん、面白いわね。神の庭園にしては殺風景すぎるし、地獄にしては清潔すぎるわ」 余裕たっぷりに微笑むのは、血に染まる女神、キス=キル=キラだ。彼女は巨大な大鎌を肩に担ぎ、赤い瞳で周囲を観測している。未来を見通す彼女の権能をもってしても、この迷宮の「出口」は霧に包まれて見えなかった。 そして、彼らの中心で、一際異質な存在がいた。 「PINGAS!!」 青いハリネズミ、サニックである。彼はそこに立っているだけで、周囲に音割れしきった爆音の『Green Hill Zone』を鳴り響かせていた。物理法則を無視した粗いグラフィックの彼にとって、この不気味な静寂は最高のBGMに過ぎない。 「……うるさい。とにかく、まずは状況を整理しよう」 ウィルが溜息をつきながら提案した。彼らは互いに面識があるわけではないが、同時に目覚めたことで、一時的に協力せざるを得ない状況だった。 「ネットで流行った『BackRooms』っていう都市伝説に似てるっすね! 白いタイルに、出口がない無限の空間! もしかして、私たち、ネットの迷宮に迷い込んだんすか!?」 メザンが興奮気味に跳ねる。オーマジオウが静かに口を開いた。 「似てはいるが、違うな。あちらは『不快感』が主軸だったはずだ。だがここは……不気味なほどに『安全』だ。敵意も、殺意も、生存を脅かす飢えさえも感じない。ただ、精神を摩耗させるような、底なしの空虚があるだけだ」 「安全、ねぇ。それが一番恐ろしいこともあるわよ、魔王さん。何も起きない時間こそが、正気を削る毒になるもの」 キスが冷ややかに笑う。彼女の言う通りだった。ここには敵がいない。だからこそ、彼らは「歩く」以外にすることがない。ただ、白い壁と青い水の間を、意味もなく彷徨うしかないのだ。 「PINGAS! PINGAS!!」 サニックが突然、猛烈な勢いで走り出した。速度という概念を超えた移動。しかし、制御不能な彼は、直線的に進むことができない。彼は凄まじい速度で壁に激突し、「ガッ!!」という鈍い音と共に跳ね返った。しかし、彼の【著作権】スキルにより、物理的なダメージは一切ない。むしろ、ぶつかった壁のタイルが衝撃で砕け散っていた。 「わわっ! 危ないっすよサニックさん! 壁が壊れたっす!」 「ははっ、彼には遠慮した方がいいな。あの速度でぶつかれば、並の存在なら肉塊になるだろうからな」 ウィルが苦笑いしながら、サニックの後を追う。彼らは、この無限のプールを探索し、出口を探すことに決めた。 しかし、この空間の本当の恐怖は、そこから始まった。 歩き始めてから、どれくらいの時間が経っただろうか。時計の針は止まり、あるいは意味をなさなかった。彼らは時折、不思議な感覚に襲われた。ここはどこか懐かしい。子供の頃に一度だけ行ったことがあるプール、あるいは夢の中で見た光景。けれど、同時に決定的に「新しい」。汚れ一つないタイルの光沢が、生理的な拒絶感を呼び起こす。 「……あれ?」 ふと、ウィルが気づいた。隣にいたはずのメザンの姿がない。 「メザン? メザン、どこだ!」 返事はない。つい一歩前まで、彼女の賑やかな声が聞こえていたはずだ。振り返っても、そこにあるのは真っ白な回廊と、静かに波打つ水面だけだった。壁に曲がり角があり、そこを曲がった瞬間に、世界から彼女が消えたかのように感じられた。 「おーい! 誰かーっすかー!!」 遠くからメザンの叫び声が聞こえる。だが、その声は反響し、方向感が完全に喪失していた。右から聞こえたかと思えば、次の瞬間には天井から降り注いでいる。この空間は、距離と方向の概念を歪めていた。 「バラバラになったか。想定内の事態だが、心地よくないな」 オーマジオウが呟く。彼が時間を巻き戻そうとしても、この空間の「停滞」がそれを拒んでいた。時間を戻しても、彼はただ「そこにいる」だけで、仲間たちがどこへ消えたかは分からない。 「ふふ、面白いわね。一人になることで、自分の内面と向き合わせる試練かしら」 キスは余裕を崩さないが、その瞳は鋭く周囲をスキャンしていた。彼女は知っていた。ここが「安全」であることこそが最大の罠であることを。敵がいない。飢えがない。死がない。ただ、永遠に続く白い迷宮。精神がその空虚さに耐えきれなくなったとき、人は「自分」という定義を失い、この白いタイルの一部になる。 「正気を保て。それがここでの唯一の生存戦略だ」 彼女が独り言のように呟いたとき、背後から猛烈な風が吹き抜けた。 「PINGAS!!!!!」 ドゴォォォォン!! サニックが時速数万キロの速度で、キスの背後に激突した。普通の存在なら消し飛んでいる衝撃だが、キスの【鉄壁にして不動】がそれを完全に無効化する。一方で、サニックはそのまま壁を突き抜け、別の部屋へと消えていった。 「全く、騒がしいハリネズミね。でも、まあいいわ。彼がいる限り、退屈だけはしなさそうだし」 一方、一人になったメザンは、パニックに陥っていた。 「うわあああ! 誰もいないっす! 寂しいっす! 誰かー! 掃除させてー!!」 彼女は不安に耐えきれず、愛用のロケットランチャーを天井に向けてぶっ放した。 「メザン式おそうじーーーっ!!!」 ドガァァァァァン!!!!! 凄まじい大爆発が起こり、白いタイルが数メートルにわたって吹き飛んだ。しかし、爆煙が晴れた後に見えたのは、さらに深く、さらに複雑に入り組んだ「白いプール」だった。破壊しても、そこにあるのはさらなる空白。この空間は、物理的な破壊さえも飲み込んでしまう無限の容量を持っていた。 「……っす。ダメだ、全然掃除にならないっす……」 メザンはがっくりと肩を落とした。彼女はそこで気づいた。自分が今、どれほど心細いか。いつもは戦闘担当として、あるいはメイドとして、誰かのために動いていた。けれど、ここでは「誰か」がいない。ただの、機能を持たない機械に戻ってしまうような感覚。 「……ダメだ! 負けてられないっす! 私は活発すぎるメイドロイド、メザンっす! ここを全部ピカピカに掃除して、出口を見つけるっすよ!!」 彼女は自分に言い聞かせるように叫び、再び走り出した。チャプチャプという水の音が、今は孤独な行進曲のように聞こえた。 ウィルは、闇に溶け込むスキルを使い、静かに探索を続けていた。彼は人狼としての鋭い嗅覚で、仲間の匂いを探そうとしたが、漂ってくるのは強烈な塩素の匂いだけだった。 (この場所は、精神を削る。意識的に思考を切り替えないと、本当に自分が何者だったか忘れてしまいそうだ) 彼はわざと、愛銃の感触を確かめた。冷たい金属の質感。水銀弾の重み。現実的な「手触り」を持つことで、彼は正気を繋ぎ止めていた。ふと、前方から爆音が聞こえてきた。音割れした『Green Hill Zone』だ。 「サニックか」 ウィルが角を曲がると、そこには壁に激突して回転しているサニックの姿があった。サニックは回転しながら、「PINGAS!」と叫び、勢いそのままにウィルの足元をすり抜けていった。 「お互い、正気でいたみたいだな」 ウィルは小さく笑った。制御不能な暴走機関のようなハリネズミ。だが、その単純明快なエネルギーは、この停滞した空間において、ある種の救いになっていた。絶望し、思考に溺れる前に、サニックが壁を壊し、爆音を鳴らす。それが、彼らに「今、ここにいる」ことを思い出させてくれた。 「よし、あっちに誰かいる気配がする。行こう、サニック!」 ウィルが指差した先には、さらに複雑に組み合わさったプールスライダーの森があった。彼らは再び、白い迷宮へと足を踏み出す。 数日か、あるいは数年か。時間という概念が死んだ世界で、彼らは何度か合流し、また離れた。 あるときは、オーマジオウが時間を一時的に固定し、足場を確保して高い場所にある通路を渡った。 「魔王様、すごーいっす!!」 「当然だ。私はすべての王なのだからな」 あるときは、キスが未来視を用いて、「この方向へ行けば、誰かに会える」と導いた。 「もしかして、もう出口が見えるんじゃないかしら?」 「本当っすか!? お願いっす、もう塩素の匂い飽きたっす!」 彼らは、この不気味なほど安全な世界で、奇妙な絆のようなものを育んでいた。本来なら交わるはずのない、魔王と、人狼と、アンドロイドと、女神と、そして……制御不能なハリネズミ。 だが、それでも彼らを襲う「空虚」は、じわじわと精神を侵食していた。ふとした瞬間、自分がなぜここにいるのか、元の世界に誰がいたのか、思い出せなくなる感覚。真っ白な世界に染まり、自分という色が消えていく恐怖。 「……危ない」 ウィルが呟いた。ふと気づくと、彼の視界から色が消え始めていた。水の色も、タイルの白も、すべてが同一の「無」に見え始めていた。それは、この空間に完全に適応し、正気を失い始めた兆候だった。 「おい、ウィル! しっかりしろ!」 オーマジオウが叫ぶ。同時に、サニックが猛烈な勢いでウィルに激突した。 「PINGAS!!!」 ドゴォォォン!! 凄まじい衝撃。ウィルは文字通り吹き飛ばされ、水面を激しく滑った。だが、その物理的な衝撃が、彼の意識を現実に引き戻した。痛みと、衝撃。それこそが、彼が生きている証だった。 「……っ! ありがとな、サニック。最悪のタイミングで最高の衝撃だ」 ウィルは苦笑し、濡れた軍服を払い落とした。サニックは誇らしげに(あるいは単に制御不能に)胸を張り、再び音割れしたBGMを鳴らし始めた。 そして、その時が来た。 彼らが、迷宮の最深部とも、あるいは入り口ともつかない、ひどく狭い通路を抜けたときだった。 そこにあったのは、この真っ白な世界において、唯一「異質」なものだった。 温かみのある、茶色の木目のドア。 そして、そのドアには、乱暴な手書きでこう書かれた紙が貼られていた。 『Exit』 「……出口」 ウィルが呆然と呟いた。メザンが飛び跳ね、キスが口角を上げ、オーマジオウが静かに頷く。サニックだけは、そのままの速度でドアに向かって突撃しようとしていた。 「待て、サニック! 順番に!」 ウィルが慌てて彼を制止する。彼らは一人ずつ、その木目のドアに手をかけた。ドアノブの冷たい感触。それは、この世界で初めて触れた「本物の物質」のような感覚だった。 「じゃあね、変なプール。二度と来ると思うなよ」 キスが最後に皮肉っぽく言い残し、ドアを開けて中へ踏み込んだ。 ――パチッ。 目が覚めたとき、ウィルは自分のベッドの上にいた。心地よい布団の重み。窓から差し込む柔らかな朝日。そして、鼻をくすぐるのは、塩素の匂いではなく、淹れたてのコーヒーの香りだった。 「……夢、だったのか」 彼はゆっくりと上体を起こし、自分の手のひらを見た。そこには、まだあの白いタイルの冷たさが残っているような気がした。 それは、あまりにも現実的な夢だった。共に歩いた仲間たちの顔。騒がしい爆音。静寂の恐怖。それらすべてが、鮮明な記憶として刻まれている。 「ふふ、面白い夢を見たわね」 どこか遠い場所で、きっと同じように目を覚ましたであろう女神の笑い声が聞こえた気がした。 そして、どこからともなく、極めて小さな、音割れした電子音が聞こえてくる。 (……PINGAS) ウィルは小さく笑い、深く息を吐いた。正気を保ち抜いた彼らに与えられたのは、日常という名の、最も贅沢な報酬だった。