帝都の喧騒から離れた、静謐な時間が流れる軍の休憩室。高い天井から吊るされたシャンデリアが淡い光を投げかけ、磨き上げられた大理石の床に、不釣り合いな二人の人影が落ちていた。 一人は、帝都連隊の将校である不知火尚。銀色の髪を軍用帽子の深く被り、赤色の瞳を不安げに揺らしている。小柄な体躯に身を包んだ軍服は、彼が背負う責任の重さに比してあまりに幼く見えた。そしてもう一人は、青緑のドレスを纏い、肩や背中を大胆に露出させた少女、蛇である。彼女の白い肌に刻まれた黒蛇のタトゥーが、不気味なほどに鮮明に浮かび上がっていた。 「……あの、蛇さん。どうしてここに? ここは関係者以外、立ち入り禁止のはずですけれど」 尚が気弱な、けれど丁寧な口調で問いかける。彼はもともと人見知りであり、特に蛇のような、何を考えているか分からない奔放なタイプには弱い。視線を泳がせながら、彼は無意識に軍服の襟元を正した。 「ふふん、関係者? そんなの、私の『薬』ひとつでどうにでもなるじゃない」 蛇はクスクスと、小馬鹿にするような笑みを浮かべた。彼女は長い黒髪を指で弄びながら、オッドアイの瞳で尚をじっくりと眺める。彼女にとって、この純朴で、それでいて強大な力を秘めた少年をからかうことは、最高の娯楽だった。 「それに、あなたみたいな可愛い子が一人で寂しそうに『平和とは何か』なんて難しい顔して考えてるから、構ってあげに来たのよ。ねえ、尚くん?」 「か、可愛いなんて……。僕はただ、軍人として、どうすれば誰も傷つかずに済む世界が来るのかを……」 尚は頬をわずかに赤らめ、視線を伏せた。彼は自覚がない。自分がどれほど女性を惹きつける外見をしているか、そしてその控えめな態度が、相手の独占欲や加虐心を刺激することを。彼にとっての「平和」は至高の目標だが、今の彼にとっての「平和」は、目の前の少女に絡まれないことであった。 蛇はそんな尚の反応を楽しみながら、懐から小さな小瓶を取り出した。中には、虹色に輝く不思議な液体が入っている。 「はい、これ。新作の薬よ。名前は【真実の告白薬・甘い罠】。これを飲めばね、心の中に隠していた『一番恥ずかしい本音』が口から漏れちゃうの。試してみる?」 「い、いえ! 結構です! そんな危ないもの、口にするわけにはいきません!」 尚は慌てて両手を振って拒否した。しかし、蛇はそれを想定していたかのように、ひらりと身を翻して尚の至近距離まで詰め寄る。ふわりと、甘く、どこか危険な香りが尚の鼻腔をくすぐった。 「あら、怖いことないわよ。だって、あなたって嘘がつけないタイプでしょ? 私にはわかるわ。あなたのその真っ直ぐな瞳、見ていて飽きないもの」 蛇は尚の顎を指先でクイと持ち上げた。至近距離で向けられた黒と水色の瞳に、尚は完全に硬直する。異性に慣れていない彼にとって、この距離感はもはや攻撃に等しかった。 「……っ。あ、あの、離してください……!」 「いいわよ、離してあげる。その代わり……ちょっとした『遊び』をしましょうか」 蛇の唇が、意地悪く弧を描く。彼女が提案したのは、この帝都の退屈な社交界で密かに流行っているという、精神的な駆け引きのゲームだった。 「【愛してるゲーム】よ。ルールは簡単。お互いに向かい合って、『愛してる』って言い合うの。先に照れたり、言葉に詰まったり、顔を赤くした方が負け。簡単でしょ?」 「な、ななな、何を言っているんですか!? そんな恥ずかしいこと、できるはずが……!」 「あら、軍の将校様が、たかが言葉遊びにビビってるの? もしかして、勇気が足りないのかしら。それとも……私に意識しすぎて、もう負け確?」 「そ、そういうことじゃなくて! 僕はただ、そんな不謹慎な……!」 尚は激しく動揺した。しかし、蛇の挑発的な笑みと、彼を小馬鹿にするような口調が、彼の心に小さな、本当に小さな「怒り」の火を灯した。彼は普段、自分のことでは怒れない。しかし、「勇気がない」と決めつけられたことへの、微かな反発心。それが彼を突き動かした。 「……わかりました。やればいいんでしょ! やればいいんですね!」 「ふふっ、いい返事。じゃあ、準備して」 二人は向かい合い、一定の距離を置いて立った。静まり返った休憩室に、緊張感が漂う。尚は軍帽を深く被り直し、赤色の瞳で蛇を凝視した。彼は今、必死に自分を鼓舞していた。これは任務だ。精神的な持久戦なのだ、と。 「じゃあ、私から行くわね」 蛇は余裕たっぷりに、艶やかな声で囁いた。 「愛してるわ、尚くん」 真っ向から、淀みなく放たれた言葉。それは演技のような完璧な響きだった。しかし、尚は負けなかった。彼はあらかじめ、これが「ゲームである」という定義を脳に叩き込んでいた。相手の言葉が真実か偽りかを見抜く能力を持つ彼にとって、蛇の言葉が「遊び」であることは明白だった。 「……僕も、愛しています。蛇さん」 尚は静かに、けれど丁寧に返した。顔に赤みは差しているが、視線は逸らしていない。その誠実すぎる表情に、逆に蛇がわずかに眉をひそめた。 (……なによ、この子。本当に真面目に返してくるじゃない) 蛇は少しだけ拍子抜けしたが、すぐにサディストとしての本能が再点火した。彼女は一歩、距離を詰める。ドレスの裾がさらりと音を立て、彼女の吐息が尚の耳元にかかる。 「愛してる……ね。じゃあ、もっと具体的に言いましょうか。あなたのその、困ったような赤い瞳も、ぎこちない喋り方も、全部愛してるわ」 「っ……!」 今度は具体的だった。尚の心拍数が跳ね上がる。耳まで真っ赤に染まり、呼吸が乱れ始める。彼は必死に耐えた。ここで崩れれば、この意地の悪い少女の勝ちになる。彼は、相手が自分を弄ぼうとしていることへの怒りを、わずかにエネルギーに変換し、精神的な盾とした。 「僕……僕だって! あなたの、その……意地悪なところとか、誰にも心を開かないところとか……そういうところも含めて、愛しています!」 尚の声が少し上ずった。しかし、言葉はしっかりと蛇に届いた。それは単なるゲームの回答ではなく、彼が普段から蛇に対して抱いていた、不器用な肯定感の表れでもあった。 その瞬間、空気が変わった。 蛇は目を見開いた。彼女は相手を翻弄し、困惑させ、絶望させることで快感を得るタイプだ。しかし、今の尚の言葉は、彼女の計算外だった。真っ向から、ありのままの自分を肯定され、それを「愛している」という形でぶつけられた経験など、彼女にはなかった。 「……っ。……あははっ!」 蛇は突然、声を上げて笑った。しかし、その頬はわずかに、本当にわずかに朱に染まっていた。彼女は慌てて顔を背け、わざとらしく肩をすくめる。 「最っ低ね。そんなこと真面目な顔して言うなんて、あなた本当に天然のタラシだわ」 「えっ? いま、僕、何か変なこと言いましたか……?」 尚が不思議そうに首を傾げた瞬間、ゲームの緊張感は霧散した。彼は自分がどれほど危険な橋を渡り、そして相手の心を揺さぶったかに気づいていない。 「もういいわ。今日のところはこれで合格にしてあげる。……全く、あなたみたいなタイプは調子が狂うわね」 蛇はそう言って、ふいっと身を翻した。彼女の歩き方は相変わらず不遜だったが、その足取りはどこか軽い。彼女は懐から別の小瓶を取り出し、それを空中に放り投げた。 【気分転換の香水・微睡みの風】 パリンと小さな音がして小瓶が割れると、心地よい森のような香りが部屋いっぱいに広がった。激しく動揺していた尚の心も、その香りに包まれて次第に落ち着きを取り戻していく。 「……あの、蛇さん」 「何よ」 「さっきの……ゲームの結果はどうなったんでしょうか。僕、勝ちましたか?」 尚が純粋な瞳で問いかけると、蛇は肩越しに彼を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。 「引き分けよ。……ま、たまにはこういう時間があっても悪くないわね」 彼女はそう言い残すと、ひらひらと手を振って休憩室を後にした。一人残された尚は、心地よい香りと、まだ少しだけ熱い頬をさすりながら、ぽつりと呟いた。 「……本当の平和っていうのは、こういう、穏やかな時間の積み重ねのことなのかもしれませんね」 彼は再び、軍帽を深く被り、静かな思考に沈んでいった。その表情には、先ほどまでの不安はなく、どこか満足げな微笑みが浮かんでいた。 帝都の空はゆっくりと茜色に染まっていく。互いに相容れない立場であり、性質も正反対な二人だったが、この奇妙な「遊び」を通じて、彼らの間には言葉にできない奇妙な絆のようなものが、静かに芽生えていた。 * 【お互いに対する印象】 ■不知火 尚 → 蛇: 「とても怖くて、意地悪で、何を考えているか分からない人です。でも……時々、とても寂しそうな顔をしている気がします。僕が力になれることはないかもしれませんが、彼女が笑っていられるなら、少しだけ構ってあげてもいいかなと思っています(無自覚な好意)。」 ■蛇 → 不知火 尚: 「最高に弄りがいのある、おめでたい少年。でも、あんな風に真っ直ぐに肯定されるなんて、人生で初めてだったわ。調子が狂うし、腹立たしいくらい可愛い。……ふふ、次は何を飲ませて、どんな顔をさせてあげようかしら(独占欲混じりの興味)。」