陽光さえも届かぬ深い森の奥、古びた社の境内。そこは本来、静寂が支配する聖域であるはずであった。 だが、今のそこにあるのは、血と硝煙、そして暴力的なまでの「力」の衝突音であった。 「……しつこいのう。我の時間をこれ以上奪うなと申したはずじゃ」 金色の長い髪をなびかせ、着物を端麗に着こなした幼い少女――花崎琴音が、呆れたように溜息をついた。彼女の口元には、常に白い扇子がくわえられている。その扇子が、彼女の内に秘めた「猛毒」を封じ込める枷であった。 彼女を取り囲んでいたのは、異界より滲み出た醜悪な魔物たちの群れ。琴音はわずかに指先を動かしただけで、物理法則を無視した衝撃波を放ち、襲撃者の数体を文字通り「消し飛ばして」いた。しかし、敵の数は絶望的に多く、無限に湧き出しているように見えた。 (腹が減ったのじゃ……。海鮮丼が、あの新鮮な海鮮が食べたい……) 空腹による苛立ちが、彼女の周囲の空気を物理的に歪ませ始める。その時である。 ――刹那、空気が「裂けた」。 紅蓮の閃光が、琴音の背後から襲いかかっていた巨大な魔物の胴体を、一太刀に両断した。切り口からは火焔が噴き出し、魔物は断末魔を上げる暇もなく、概念ごと焼き尽くされて灰へと化した。 「……ふむ。随分と手強い相手に囲まれておったようだな」 低く、だが芯の通った声。そこに立っていたのは、白髪に赫き眼を持つ男。白い和装に袴を纏い、腰には白鞘の名刀を帯びた、圧倒的な覇気を纏う男――国主・緋津名龍信であった。 琴音は即座に身構え、鋭い金色の瞳で男を射抜く。相手が味方であるか敵であるか。その判断は、彼女の鋭い勘が「危険」だと告げていた。この男から漂う気配は、並の強者などではない。一国の頂点に立ち、数多の戦場を血で染めてきた「覇王」のそれであった。 龍信もまた、静かに刀の柄に手をかけたまま、少女を凝視していた。幼い外見に反して、彼女が纏う密度のある霊力。そして、先ほど魔物を消し飛ばした際の、理外の膂力。 「……何奴じゃ。この地を歩く者に、不穏な気配を感じたゆえ辿り着いたが」 龍信の問いに、琴音は口にくわえた扇子を指で軽く叩いた。扇子の裏側から、もごもごとした、聞き取りづらい声が漏れる。 ((お主のようなおじさんが、我の戦いに口を挟むな)) 「……聞こえぬな。扇子を外せばよいものを」 「((外したらお主の精神が崩壊するぞ))」 互いに牽制し合い、静寂が戻りかけたその時。地の底から、空を塗り潰すほどの禍々しい圧力が噴出した。 ドォォォォォォン!! 社の中央、地面が大きく陥没し、そこから這い出してきたのは、数多の眼と腕を持つ、絶望を具現化したかのような巨獣であった。その肌は黒い鱗に覆われ、呼吸するたびに周囲の植物が枯れ果て、大地が腐敗していく。この地の理を塗り替えるほどの強大な魔力――この戦いの真の目的である「古の災厄」であった。 龍信の赫き眼が鋭く光る。 「……あれか。儂が斬るべき獲物は」 琴音もまた、扇子を口から離さぬまま、不機嫌そうに鼻を鳴らした。彼女にとっても、この化け物を排除しなければ、静かに食事へ戻ることは叶わない。 「((ふん。我の獲物を横取りしようとは、図々しい男じゃ))」 「くくっ。獲物を分かち合う余裕など、あの化け物にはなさそうだな。……小娘よ」 龍信が静かに微笑み、刀を抜き放つ。白鞘から現れたのは、戦場を支配する絶対的な威厳を宿した名刀であった。 「多くは要らぬ……今は、力を合わせるだけだな」 琴音は一瞬だけ考え、そして観念したように肩をすくめた。扇子を口に深くくわえ直す。 「((……仕方ないのう。早々に終わらせて、飯に行くぞ))」 共闘。それは互いへの信頼ではなく、共通の敵への憎悪と、それぞれの目的が一致しただけの、危うい均衡の上に成り立つ契約であった。 先手を打ったのは、龍信であった。 「[破灼斬]!!」 神速。もはや視覚で捉えることは不可能であった。龍信の姿が消えたと思った瞬間、巨獣の足元に紅蓮の十字線が走り、爆発的な火炎が巻き起こる。超神速の居合斬りが、巨獣の強固な鱗を強引に抉り開けた。 だが、巨獣は即座に再生を開始する。さらに、無数の触手のような腕が、龍信を押し潰さんと猛烈な速さで襲いかかった。 「鈍いぞ」 その瞬間、琴音が動いた。彼女の姿はブレることなく、ただ「そこにいた」はずが「次の一瞬には別の場所」にいた。物理的な移動ではなく、空間そのものを跳躍したかのような速度。 ドゴォォォッ!! 小さな拳が、巨獣の触手にめり込む。音速を超えた衝撃波が触手を根元から粉砕し、その衝撃は巨獣の巨体を後方へ十数メートルも吹き飛ばした。制御された力でありながら、その一撃は山をも砕く質量を伴っていた。 「……ほう。今のひと撃、ただの膂力ではないな」 「((褒められても何も出ないぞ。それより、隙を作ったぞ!))」 琴音の叫びに合わせ、龍信が跳躍する。空中で身を翻し、刀身に膨大な熱量を凝縮させる。 「[焔閃・龍]!!」 放たれた斬撃は、燃え盛る光龍の形を成して巨獣へと突き刺さった。防御という概念を無視し、因果を切り裂く一撃。巨獣の胸腔に深く突き刺さった龍の閃光が内部から爆発し、化け物の絶叫が森に響き渡った。 しかし、敵もまた絶望的な再生能力を持っていた。切り裂かれた肉体が瞬時に結合し、それどころか、先ほどよりもさらに巨大化し、周囲の空間さえも飲み込もうと口を大きく開く。 「しぶといな。だが、ここまで来れば十分だ」 龍信の瞳に、静かな、だが激しい情熱が宿る。彼は自身の精神を極限まで研ぎ澄ませ、この場に在る全ての「情」と「力」を刀の一点に集約させた。それは、国主として、守るべき人々への愛を力に変える、究極の剣技。 「[国護灼龍]!!」 世界が止まった。風が止まり、光が止まり、時間さえもが龍信の意志に屈して静止する。刹那に満たぬ一閃。それはもはや「斬る」という行為ではなく、「存在を消去する」という理の執行であった。 同時に、琴音もまた、口にくわえていた扇子を――パチン、と放り投げた。 「いい加減にしろ、この醜い泥塊が!! 見ているだけで反吐が出るわ! その不細工な面を、根こそぎ消し飛ばしてやるわ!!」 扇子を外した瞬間、彼女の口から飛び出したのは、耳を劈くような猛烈な毒舌と、それに呼応して解き放たれた「本気」の力。彼女の周囲の重力が崩壊し、大地が円形に陥没する。物理法則を嘲笑う冗談のような力が、龍信の斬撃に加速をつけた。 龍信の究極の一閃と、琴音の理外の衝撃。二つの絶対的な力が交差した瞬間、巨獣の姿は白光に包まれ、一欠片の塵すら残さず完全に消滅した。 ……静寂が戻った。 龍信は静かに刀を鞘に収め、ふぅと息を吐いた。一方の琴音は、地面に落ちた扇子を拾い上げると、再び口にくわえて、いつもの淡々とした表情に戻っていた。 「……ふむ。お主の口の悪さには、儂でも恐れ入るな」 ((ふん。お主こそ、古臭い格好をしていて疲れないのか)) 互いに背を向け合いながら、二人は同時に歩き出した。協力し合ったとはいえ、互いに譲れない矜持がある。だが、戦いを通じて、相手が「本物」であることだけは理解していた。 「さて……。この辺りに旨い海鮮を出す店はあるか?」 龍信の問いに、琴音は嬉しそうに、そして激しく頷いた。 「((あるはずじゃ! 我の勘がそう言っておる! 早く行くぞ、おじさん!!))」 「おじさん、か……。まあよい」 奇妙な組み合わせの二人は、崩壊した森の道を、並んで歩き出した。その足取りは、先ほどまでの死闘が嘘のように軽やかであった。