薄暗い廃工場地帯。錆びついた鉄骨が骸骨のように突き出し、湿った風がコンクリートの隙間を吹き抜けていた。 御阪龍馬は、溜息をつきながら足元の瓦礫を蹴った。和服の裾が泥に汚れそうになるのを気にしつつ、彼は手にしたドスを軽く回す。本来の目的は、この地区に潜伏しているという「特異個体」の排除だった。しかし、現場に到着するなり、正体不明の暴徒どもに囲まれた。正直、龍馬にとって彼らは「雑魚」に過ぎなかったが、数に物を言わせて押し寄せるため、少々時間がかかっていた。 「ったく、仕事の邪魔をするなと言ってるだろうに」 龍馬が鋭い踏み込みと共に、襲撃者の喉元に刃を突き立てようとしたその瞬間――。 上空から、猛烈な風圧と共に「何か」が降ってきた。 ――ドォォォン!! 鼓膜を揺らす衝撃音。龍馬の目の前にいた襲撃者たちが、まるで見えないプレス機に潰されたかのように、一瞬で地面にめり込んだ。土煙が舞い上がり、視界が遮られる。龍馬は瞬時に反射神経を研ぎ澄ませ、ドスを構え直して後退した。 煙が晴れた中心に立っていたのは、一人の少女だった。 桜色の長い髪を高い位置で結い、古風な着物を纏っている。そして、その顔には不気味ながらもどこか愛嬌のある「狐面」が張り付いていた。彼女の傍らには、身の丈ほどもある、およそ少女が持つには不釣り合いな巨大な鉄槌――大槌『桜霞』がどっしりと置かれている。 「ふむ。まだ生き残りがいたか」 少女は、面越しに龍馬を見た。その口調は少年のような、あるいは時代がかった古風な響きを帯びていた。 龍馬は警戒を解かなかった。相手が子供の見た目をしていようと、今の破壊力は尋常ではない。裏社会で「最強」と呼ばれた経験が、彼に「得体の知れない強者」への警戒心を抱かせる。 「……あんた、どこの誰だ。この辺りは俺のシマに近いんだが」 龍馬が静かに問いかけると、少女――小夜桜は、不思議そうに首を傾げた。 「シマ? 僕が関心を持っているのは土地の所有権ではないよ。僕はただ、この地に潜む『穢れ』を祓いに来ただけだ」 「穢れ、ね。言い方は違うが、俺も同じ獲物を追ってる」 互いに牽制し合う。龍馬は相手の足運びや重心の置き方から、彼女が相当な練度を持つ戦士であることを察した。一方の桜もまた、龍馬から漂う「底知れない武の気配」に、思わず槌の柄を握り直した。 張り詰めた空気。どちらかが動けば、即座に激突する。そんな一触即発の状態を切り裂いたのは、地底から響く地響きだった。 ――ズゥゥゥゥン!! 工場の中心にある巨大な貯蔵タンクが、内側から爆発するように弾け飛ぶ。轟音と共に現れたのは、高さ5メートルを超える異形の怪物だった。全身が硬質な黒い甲殻に覆われ、腕には鋭利な鎌のような爪を備えている。瞳には知性などなく、ただ破壊と殺戮を求める飢餓感だけが渦巻いていた。 「……来たか」 龍馬が低く呟く。同時に、桜もまた視線を怪物に向けた。 「あれが目的の個体か。想像以上に禍々しいな」 怪物は咆哮し、その巨体に似合わぬ速度で地を蹴った。標的は、より近くにいた桜だ。真空を切り裂く爪が、彼女の頭上から振り下ろされる。 「危ない!」 龍馬が叫ぶと同時に、桜はひょいと身を翻した。しかし、怪物は追撃を止めない。鎌が空を切った瞬間、反対側の腕が鞭のようにしなり、桜の脇腹を狙う。 だが、桜は慌てなかった。彼女が軽く指を弾くと、周囲に桜の花びらが舞い散った。 「『花渡り』」 瞬間的に姿が消える。次の瞬間、彼女は数メートル離れた花びらの上に転送されていた。攻撃は空を切る。 「ほう、面白い芸当だな」 龍馬は感心しながらも、隙を見逃さなかった。彼は懐から慣れた手つきで拳銃を取り出すと、正確に怪物の関節部分へ弾丸を叩き込んだ。パキン、と硬い甲殻が砕ける音がする。 「ガアアアッ!!」 激昂した怪物が、今度は龍馬へと飛びかかる。その速度は不可視。常人であれば反応すらできず、一撃で両断される攻撃。だが、龍馬は微動だにしていなかった。 (……右足の爪先が0.2秒先に浮いた。軌道は斜め上から右へ) 龍馬は最小限の動きで、紙一重に爪を回避した。風圧で和服が激しくなびく。彼はそのままの流れで、ありあわせの鉄パイプを足元から拾い上げ、怪物の顎の下に突き立てた。 ガキィィン!! 金属音が響くが、甲殻が厚すぎて決定打にはならない。それでも、怪物の頭部を大きく跳ね上がらせるには十分だった。 「おい、狐面! 今だ!」 龍馬の合図に、桜は即座に反応した。彼女は大槌『桜霞』を軽々と頭上に掲げ、重力に従って全力で振り下ろす。 「はああああっ!」 ドゴォォォォン!! 大地が揺れ、コンクリートの床がクモの巣状にひび割れた。大槌の一撃が怪物の頭頂部を直撃し、巨体が地面に叩きつけられる。凄まじい衝撃波が周囲を駆け抜けた。 「ふぅ……。連携が良いな、君」 桜が槌を肩に担ぎ、少し誇らしげに言う。龍馬は苦笑しながら、ふと懐に手を入れた。 「まあ、今は力を合わせるしかねえからな。……ほら、これ食え」 龍馬が取り出したのは、小さな袋に入った煎り豆だった。彼はそれを当然のように桜に差し出した。あまりに唐突な行動に、桜は狐面の下で目を丸くした。 「……豆? なぜ今、僕に豆をくれるんだ?」 「いいから食え。戦いの合間に糖分と塩分を摂っておかねえと、足が止まるぞ。俺の舎弟たちにもいつも配ってる、いい豆だ」 「君は……不思議な人だな」 困惑しながらも、桜は豆を一粒口に放り込んだ。香ばしい味が口いっぱいに広がる。緊張が少しだけ緩んだその瞬間、地面に伏せていた怪物が、どす黒いオーラを纏って跳ね起きた。 「……チッ、しぶといな」 怪物はさらに進化していた。甲殻の隙間から鋭い棘が突き出し、全身から高周波の振動波を放ち始めている。その振動により、周囲の瓦礫が粉々に砕け散る。もはや、単なる物理攻撃では通用しない段階に入ったようだ。 「僕の分身で撹乱する。君は隙を突いて、その鋭い武器で急所を突いてくれ!」 「了解だ」 桜が印を組むと、「狐影」が発動した。三人の桜が同時に現れ、怪物の周囲を高速で駆け巡る。どれが本体か判別できない猛攻に、怪物は翻弄され、あちこちへ攻撃を振り回した。 しかし、怪物は知能を持っていた。振動波を全方位に爆発的に放ち、分身ごと全てを吹き飛ばそうとする。 「しまっ――!」 桜が叫ぶ。だが、その視界の外から、黒い影が閃いた。 龍馬だ。彼は振動波の「波形」を瞬時に分析していた。空気が震える周期、力の指向性。そこに生じる一瞬の「空白」を見抜き、龍馬は真っ向から突っ込んだ。 (ここだ!) 龍馬は懐からドスを取り出し、振動波の隙間を縫うようにして、怪物の首にある唯一の柔らかい部位――呼吸孔へと深く突き立てた。 ズブシュッ!! 「ギャアアアアア!!」 怪物が激しく悶絶し、体勢を崩す。だが、絶望的なことに、怪物は死の間際に最後の大技を繰り出そうとしていた。全身のエネルギーを一点に集中させ、周囲数キロを巻き込むほどの特大振動波を放とうとしている。 「……まずいな。このままだと工場ごと消し飛ぶ」 龍馬が静かに呟く。彼の瞳から、お人好しな雰囲気が消えた。視線が鋭くなり、纏う空気が一変する。かつて裏社会で「最強」と謳われた、伝説の武闘派の顔。 「おい、狐面。少しの間、耳を塞いでろ」 「え……?」 龍馬の身体から、爆発的な圧力が放出された。それは単なる気合ではない。肉体のリミッターを強制的に解除し、全盛期の強さを一時的に引き出す「本気」の状態。 龍馬の動きが、文字通り「消えた」。 桜の目には、龍馬がブレたように見えた。次の瞬間、彼はすでに怪物の懐に潜り込んでいた。もはや武器など必要ない。龍馬は拳を握り、全神経を右腕の一点に集中させる。 「これで終わりだ」 ――ドォォォォォン!!!!! 正拳突きの一撃。それが怪物の核に命中した瞬間、衝撃波が怪物の内部を駆け抜け、外側へと突き抜けた。背後のコンクリート壁が円形に弾け飛び、怪物は絶叫することもなく、内側から完全に崩壊し、塵となって消えていった。 静寂が戻る。 龍馬はふぅ、と大きく息を吐き、元の穏やかな表情に戻った。肩を回し、少しだけ疲れた様子で和服を整える。 「……すごいな。君、本当にただの人間か?」 桜が感心したように、大槌を地面に置いた。彼女の目には、今の龍馬が、どんな精霊よりも恐ろしく、そして頼もしく見えたはずだ。 「まあな。昔はもう少しマシに戦えたんだが、今じゃこれくらいが限界だ」 「謙遜しすぎだよ。僕が知っている人間の中で、君が一番速かった」 二人は顔を見合わせ、自然と小さな笑みが漏れた。目的の獲物を仕留めた達成感と、奇妙な信頼感がそこにあった。 「さて、仕事は終わりだ。帰りにでも、いい店がある。奢ってやるから、ついてこい」 「本当か! 僕、美味しいものは大好きだよ!」 龍馬は再び懐から煎り豆を取り出し、最後の一粒を桜に投げた。彼女はそれを器用に口でキャッチし、嬉しそうに咀嚼する。 美少年と狐面の少女。およそ接点などないはずの二人は、肩を並べて、夕暮れの廃工場を後にした。裏社会の伝説と精霊の、奇妙な友情が始まった瞬間だった。