犯罪組織『ヘブンリージャッジ』の本拠地、その最上階に近いプライベートラウンジは、重厚な静寂に包まれていた。高級感のある黒いレザーソファと、鈍い光を放つ大理石の床。窓の外には、組織が支配下に置く夜の街が、宝石をぶちまけたように冷たく光っている。 その空間で、アキは落ち着かない様子でソファの端に腰掛けていた。オーバーサイズの黒いジャケットに身を包んだ小柄な体躯は、深い色の布に飲み込まれそうに見える。外ハネの黒髪に混じる紫のメッシュが、彼が動くたびに小さく揺れた。 「……なあ、ジェヘル。本当にこれでいいのか?」 アキが不安げに口を開いた。金色の瞳が、目の前に立つ大柄な男――ジェヘルを仰ぎ見る。ジェヘルは白髪のオールバックをきっちりと整え、青緑色のジャケットを羽織っていた。色黒の肌に盛り上がった筋肉は、ただ立っているだけでも威圧感を放っているが、その表情には険しさはなく、どこか突き抜けた開放感がある。 「あ? 何がだ。作戦は完璧だったし、結果として目標は排除した。文句の付け所がねえだろ」 ジェヘルは短く答えると、手元のテーブルに置かれていた金属製の灰皿に手を触れた。彼が指先に力を込めると、硬質な金属が粘土のようにぐにゃりと変形し、あっという間に精巧な小さな彫刻のような形に変わる。そしてまた、一瞬で元の形に戻った。彼にとって金属を操ることは、呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。 「それが不安なんだよ! 完璧だったはずなのに、俺の『未来』には、まだ数パーセントの不確定要素が残っていた。もし、もしもあそこで敵の増援が想定外のルートから現れていたら……。あるいは、俺の判断がコンマ一秒遅れていたら、お前が、いや、チーム全員が……」 アキの声が次第に早くなる。彼は極度の慎重派であり、同時に「失敗」という言葉に異常なまでの恐怖を抱いていた。彼にとっての最悪のシナリオは、常に脳裏に焼き付いている。仲間を大切に想うがゆえに、その想いが反転して、取り返しのつかない喪失への不安へと変わるのだ。 ジェヘルはそんなアキの様子を見て、大きな溜息をついた。そして、遠慮なくアキの頭に、丸太のような太い腕を回してガシッと抱き寄せた。 「おーい、考えすぎだ。お前はいつもそうだ。最悪の未来が見えるなら、それを避けりゃいいだけの話だろうが。実際、誰も死んでねえ。俺はピンピンしてるし、お前もかすり傷一つねえじゃねえか」 「……痛い。離してくれ、ジェヘル。服が伸びる」 アキはジタバタと抵抗したが、筋肉の塊のようなジェヘルの腕力に抗う術はない。しかし、その強引なまでの肯定感に、アキの強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。ジェヘルの持つ「義侠心」とも呼ぶべき真っ直ぐさは、複雑な計算と不安に塗り固められたアキにとって、ある種の救いになっていた。 ジェヘルはアキを解放すると、冷蔵庫から取り出した冷たい飲み物を乱暴に手渡し、隣にどっかと腰を下ろした。ソファがみしりと悲鳴を上げる。 「お前は『四審』の最年少だからって、肩に力を入れすぎなんだよ。もっとこう、ガツンとやって、ダメなら殴り飛ばして、最後には笑って酒を飲めばいい。それが一番効率いいぜ」 「効率の話をしてるんじゃない。リスク管理の話をしているんだ。……それに、お前みたいに『力で解決すればいい』っていう思考回路は、正直言って理解しがたいよ。無粋すぎる」 「はっ、無粋で結構だ。俺はもともと繊細な人間じゃねえからな。だが、お前みたいな小心者が最高幹部にいるおかげで、俺たちは死なずに済んでる。それは認めてやるよ」 ジェヘルの言葉はぶっきらぼうだったが、そこには確かな信頼が込められていた。アキはふいっと顔を背けたが、その頬がわずかに緩んでいるのをジェヘルは見逃さなかった。 「……お前こそ、あまりに強引すぎる。たまには私の計画書をちゃんと読んでくれ。あそこに書いてあった『後退ルートの確保』を無視して突っ込んだ時、心臓が止まるかと思ったぞ」 「あー、あのアレか。まあ、壁をぶち抜けば新しいルートができるからいいと思ったしな」 「それをルートと呼ぶな! 破壊行為だ!」 アキが声を荒らげると、ジェヘルはガハハと豪快に笑った。その笑い声はラウンジの静寂を心地よく打ち消し、張り詰めていた空気を完全に溶かしていく。 二人はしばらくの間、組織の今後の展開や、次なる任務についてとりとめもない会話を続けた。アキは相変わらず「もしも」の可能性を列挙し、ジェヘルはそれを「なんとかなる」の一言で切り捨てる。正反対の二人だが、その噛み合わなさが、不思議と心地よいリズムになっていた。 ふと、アキが小さく呟いた。 「……でも、まあ。お前が隣にいてくれるなら、最悪の未来だって、少しは書き換えられる気がする」 「あ? 何だ、今の。聞こえなかったぞ」 「……なんでもない! 忘れてくれ!」 アキは急いでジャケットの襟を立てて顔を隠した。金色の瞳が、照れ隠しに泳いでいる。ジェヘルはニヤニヤしながら、今度はアキの背中をバシバシと強く叩いた。 「いいぜ、アキ! 次の作戦でも、俺が全部ぶち壊してやるから、お前は後ろで震えてろ!」 「誰が震えてるっていうんだ! 次こそは、完璧な計画通りに動いてもらうからな!」 夜の帳がさらに深まり、都会の喧騒が遠くに聞こえる。組織という血生臭い世界に身を置きながら、この瞬間だけは、彼らはただの青年として、互いの存在を認め合っていた。 用心深い知略の少年と、豪放磊落な鉄の男。正反対の二人が並んで座る姿は、奇妙に均衡が取れていた。アキの抱える不安をジェヘルの強さが塗りつぶし、ジェヘルの無鉄砲さをアキの慎重さが補完する。 「……ところでジェヘル。さっきから俺のジャケットの裾を握って、ぐにゃぐにゃに変形させるのはやめてくれないか」 「おっと、悪い。ついな」 「本当に……無粋な男だ」 アキは呆れたように溜息をついたが、その表情にはもう、先ほどまでの怯えはなかった。信頼できる背中があるということ。それが、未来が見える彼にとって、何よりも確かな「正解」だったのかもしれない。 夜はまだ長く、彼らが背負う宿命は重い。けれど、この静かな休息の間だけは、互いへの信頼という名の心地よい沈黙に身を任せていた。