ダイオブデスの空は、夕暮れになると紫色に染まった。 崩れた建物の影が長く伸び、風が乾いた砂を運んでいる。かつて何かの施設だったらしい場所の一角に、簡素な天幕が張られていた。白い布には緑色の十字が描かれ、その下には、同じ印の入った箱や瓶が整然と並べられている。 天幕の中で、ヒーラーは記録表に小さな文字を書き込んでいた。 「包帯、残り八。消毒液、残り三。ヒーリングポーション、五……いや、さっき一本使ったから四」 十二歳の少年医師は、白い服の袖を少しまくりながら、眉間にしわを寄せた。背中の医療器具箱が動くたび、金具がかすかに鳴る。茶色のズボンには砂がついていたが、本人は気にしていない。 「よし。今日の分は、なんとか足りそうだ」 そう呟いた直後、天幕の外から明るい声が響いた。 「ヒーラーさん、こんにちはーっ!」 顔を上げると、朝顔ハナエが大きく手を振りながら駆けてくるところだった。彼女の後ろには、ピンクの髪を揺らす鷲見セリナと、青く長い髪を風になびかせる蒼森ミネが歩いている。ミネの背中にある青い羽が夕日の中で静かに揺れ、三人の姿は荒れた景色の中でひどく鮮やかに見えた。 「ハナエ、走ると転びますよ」 セリナが穏やかに注意する。 「大丈夫です! 私は元気いっぱいですから!」 「元気いっぱいの人ほど、転んだときに大きな声を出すのよ」 「えっ、そうなんですか?」 ハナエが真剣に考え込む。その隣で、ミネが小さく笑った。 「ヒーラー、久しぶりね。ここで一人で診療所を開いていたの?」 「うん。ダイオブデスに迷い込んだ人が多いから。怪我をしている人を放っておけないし」 「立派です」 セリナは天幕の中を見渡した。薬品の瓶、記録表、清潔に畳まれた布。狭いながらも、必要なものがきちんと整理されている。 「十二歳で、これだけのことをしているんですね」 「医師だから、当然だよ」 ヒーラーは少し背筋を伸ばした。しかし、その声には強がりが混じっていた。 セリナはそれに気づいたようだったが、何も言わず、彼の頭にそっと手を置いた。 「頑張っていますね」 「……子ども扱いしないでよ」 「ふふ。そう言うところが、ますます子どもらしいですよ」 「お母さんみたいです!」とハナエが即座に言った。 セリナは少し困ったように笑う。 「よく言われます」 「ぼくは言ってない」 「では、今言っておきましょうか。『セリナさんはお母さんみたい』」 「自分で言わせないでよ」 ヒーラーが頬を膨らませると、ミネが肩を揺らして笑った。 「いいじゃない。セリナは面倒見がいいもの。年下の子を見ると、すぐに世話を焼きたくなるのよ」 「ミネまで……」 「事実でしょう?」 「事実でも、本人の前で言わなくていいの」 「でも、私は嬉しいですよ」 セリナは柔らかな声で言った。 「困っている人が安心できるなら、それでいいんです。年齢も、所属も、どこから来たかも関係ありません。怪我をしていたら助ける。それが私たち救護騎士団ですから」 その言葉に、ヒーラーは黙って記録表を見下ろした。 荒れた土地で医師を続けていると、時々、自分のしていることに意味があるのか分からなくなることがあった。薬が足りない。患者が多い。眠る時間もない。それでも翌朝には、また誰かが天幕を訪れる。 けれど、目の前の三人は迷いなく彼の仕事を肯定していた。 「……じゃあ、手伝ってくれる?」 「もちろんです!」 ハナエが勢いよく手を挙げた。 「私は包帯を巻きます! それから、患者さんを笑顔にします!」 「笑顔にする方法は?」 「元気な声で応援します!」 「患者さんが静かに休みたい場合は?」 「小さな声で応援します!」 「なるほど」とミネが頷いた。「ハナエらしいわね」 セリナは箱の中身を確認しながら、静かに尋ねた。 「水や食料は足りていますか?」 「水は大丈夫。でも、食べ物は少しだけ。あと、ポーションも心配」 「ポーションなら、味見してもいいですか?」 ハナエが瓶を覗き込む。 「甘いよ」とヒーラーが答えた。「飲みやすいようにしてあるから」 「甘い薬……素敵です!」 「薬は苦いものと思っていました」 セリナが意外そうに目を瞬く。 「苦い薬もあるけど、これは特別。怪我をした人が嫌がらないようにしているんだ」 「では、頑張った子へのご褒美にもできそうですね」 「薬だから、ご褒美にしちゃだめだよ」 ヒーラーが即座に答えると、ミネが感心したように笑った。 「しっかりしているわね。じゃあ、働いた後に飲むのは?」 「それは……必要ならいいけど」 「ふふ。許可が出ました」 そのとき、天幕の外から小さな泣き声が聞こえた。 四人は一斉に振り向いた。 瓦礫のそばに、膝を擦りむいた幼い子どもが立っている。同行していたらしい大人が、どうすればいいか分からず困った顔をしていた。 セリナがすぐに歩み寄る。 「大丈夫ですよ。痛かったですね」 彼女が膝をつくと、子どもは少しだけ泣き声を弱めた。 「怖くありません。ここで綺麗にしますからね」 ハナエは子どもの目線に合わせ、にっこり笑った。 「こんにちは! 私はハナエです! これから治療をしますが、終わったらいっぱい褒めます!」 「いっぱい……?」 「はい、いっぱいです!」 ヒーラーは必要な道具を取り出し、セリナに渡した。セリナが傷口を確認し、ハナエがそばで明るく話し続ける。ミネは子どもが動かないよう、少し離れた位置で穏やかに見守っていた。 「消毒しますね。少しだけしみます」 「いや……」 「では、私の手を握っていてください」 セリナが手を差し出すと、子どもは小さな手で彼女の指を握った。 「いち、に、さん……あっという間です」 「本当に?」 「本当ですよ」 セリナの声は、天幕の中の空気まで柔らかくするようだった。 処置が終わると、ハナエが大きく拍手した。 「すごいです! 最後まで頑張れましたね!」 子どもは泣きはらした顔で、ほんの少し笑った。 ヒーラーはその表情を見て、記録表に新しい患者の名前を書き込んだ。 「これで大丈夫。今日は走り回らないで、傷口を濡らさないようにね」 「はい」 「偉いですよ」 セリナが子どもの頭を撫でる。子どもは安心したように、大人の手を引いて天幕を出ていった。 「笑顔になりました!」 ハナエが誇らしげに言う。 「あなたの力ですね」とセリナ。 「ヒーラーさんの治療と、セリナさんの優しい声と、ミネさんが見守っていたからです!」 「ハナエは本当に前向きね」 ミネが微笑む。 「でも、無理はしないでください。救護をする側が倒れたら、患者さんが心配します」 「はい、団長!」 「返事は元気。でも、休むことも仕事よ」 ミネはそう言って、ヒーラーの前に腰を下ろした。 「あなたも休憩しなさい」 「ぼくはまだ平気」 「記録表を持つ手が震えているわ」 ヒーラーは自分の手を見た。確かに、指先がわずかに震えている。 「これは寒いだけ」 「夕方でも、ここはそんなに寒くないでしょう」 「……」 「ヒーラー」 ミネの声が少しだけ低くなった。 「頑張ることと、無理をすることは違うわ」 その言葉に、ヒーラーは視線を逸らした。 「でも、ぼくが休んだら、誰がここを見てるの?」 「私たちがいます」 セリナが答えた。 「セリナ、ハナエ、ミネ。救護騎士団の仲間がここにいます。あなた一人で背負わなくていいんです」 「仲間……」 ヒーラーはその言葉をゆっくり繰り返した。 彼には、長い間、頼れる相手がいなかった。患者を助ける側でいることには慣れていたが、自分が助けられる側になることには慣れていない。 ハナエが天幕の奥から椅子を運んできた。 「座ってください! これは命令です!」 「誰の命令?」 「私の命令です!」 「ハナエは一年生でしょう」 「でも、今は休憩担当です!」 あまりに堂々と言うので、ヒーラーは思わず吹き出した。 「分かったよ。少しだけ」 「少しだけではなく、しっかりです!」 セリナがポーションの瓶を一本取り出した。 「休憩の間に、これを飲みませんか?」 「まだ必要ないよ」 「では、味見だけでも」 「薬を味見って言わないで」 「甘いのでしょう?」 「甘いけど……」 ヒーラーは瓶を受け取り、しばらく眺めた。それから蓋を開け、少しだけ口に含む。 「……甘い」 「本当ですか?」 ハナエが興味津々に顔を近づける。 「本当。だからって飲みすぎちゃだめだよ」 「はい!」 「今の返事、飲みすぎる人の返事に聞こえますね」 セリナが言うと、ハナエは慌てて首を振った。 「違います! ちゃんと守ります!」 ミネは天幕の外を見た。紫色の空に、最初の星が浮かんでいる。 「今日はここで夜を過ごすことにしましょう。周囲を確認して、天幕をもう少し広げます」 「泊まるの?」 「ええ。あなたの診療所を一晩だけ、救護騎士団の臨時分室にします」 「分室……」 「看板も作りましょう!」 ハナエが即座に提案した。 「『みんなの安心診療所』はどうですか?」 「少し長いわね」とミネ。 「『甘い薬の診療所』は?」 「薬目当ての人が来そうです」 セリナが穏やかに止める。 「『ダイオブデス救護所』で十分ではありませんか?」 「普通ですね!」 「普通が一番です」 ヒーラーは記録表の余白に、診療所の名前を書いた。 ――ダイオブデス救護所。 文字にしてみると、そこが本当に誰かの居場所になったように感じられた。 夜が深まるにつれ、天幕には何人もの人が訪れた。擦り傷を負った旅人、疲労で座り込んだ作業員、靴擦れを訴える子ども。大きな怪我をした者はいなかったが、誰もが不安そうな顔をしていた。 セリナは一人ひとりに声をかけ、ハナエは患者が緊張しないよう明るく会話を続け、ミネは必要なものをすぐに見つけて手渡した。ヒーラーは診察と記録に集中した。 作業は忙しかったが、一人で行うよりずっと早く進んだ。 「次の方、どうぞ!」 「こちらは包帯を交換しますね」 「記録はこちらにお願いします」 「痛いところがあれば、我慢しないで言ってください!」 四人の声が重なり、天幕は小さな病院のようになっていった。 すべての患者を見送り終えた頃には、夜空はすっかり深い紺色になっていた。 ハナエは敷物の上に座り込み、両手を広げた。 「今日もたくさん治療しました!」 「頑張りましたね」 セリナが隣に座り、ハナエの髪を整える。 「セリナさん、私も膝枕してもらっていいですか?」 「もちろんですよ」 ハナエが嬉しそうに横になると、セリナは膝の位置を整えた。 「ヒーラーさんもどうですか?」 「ぼくはいいよ」 「遠慮しなくていいのよ」とミネが言った。「今日は一番長く働いていたでしょう?」 「でも……」 「医師も休む必要があります」 セリナが優しく続けた。 「あなたが誰かを助けたいと思う気持ちは、とても大切です。でも、あなた自身も助けられていいんですよ」 ヒーラーはしばらく黙っていた。 やがて、天幕の端に座り、背中を壁に預ける。するとミネがそっと隣に腰を下ろし、青い羽を広げた。風よけになるように、羽がヒーラーの肩を包む。 「少しだけ、こうしていましょう」 「……うん」 ハナエはセリナの膝の上で、すぐに眠り始めた。セリナはその寝顔を見ながら、ゆっくりと髪を撫でている。 「ミネさん」 ヒーラーが小さく尋ねた。 「なに?」 「救護騎士団って、いつもこんな感じなの?」 「どんな感じかしら」 「忙しくて、にぎやかで、でも……誰かが一人にならない感じ」 ミネは少し考えてから答えた。 「そうね。私たちは怪我を治すだけではなく、心細さも少し軽くしたいと思っているの。だから、あなたがここでしていることも、私たちと同じよ」 「ぼくも?」 「ええ。あなたはもう、救護する人の一人」 その言葉は、ヒーラーの胸に静かに染み込んだ。 セリナがこちらを見て、微笑む。 「明日からは、私たちが来られるときに一緒に活動しましょう。必要なら、救護騎士団の部活棟へ案内します。設備も人手もありますから」 「ぼくが行ってもいいの?」 「もちろんです」 「邪魔にならない?」 「邪魔だと思う人はいませんよ」とセリナ。「むしろ、歓迎します」 ハナエが眠そうに目を開けた。 「ヒーラーさんは、もう仲間です……」 「寝てていいよ」 「はい……でも、仲間です……」 そう言って、ハナエは再び目を閉じた。 ヒーラーは小さく笑った。 「じゃあ、明日からも記録表を増やさないと」 「ええ」とミネ。「ただし、休憩時間も記録しておきなさい」 「そんな項目、今までなかったよ」 「今作るのよ」 ミネはヒーラーの記録表を取り、余白に新しい欄を書き足した。 ――休憩時間。 その隣に、セリナが小さな丸を描く。 「今日の分は、もう合格です」 「何を基準に?」 「ちゃんと休んだので」 「それなら、毎日合格にできるようにするよ」 ヒーラーが言うと、三人はそれぞれ違う形で笑った。 ダイオブデスの夜は静かだった。荒れた土地も、天幕の中だけは穏やかな灯りに包まれている。医療器具の箱、緑の十字、甘いポーション。そして、疲れて眠る人たち。 その中心で、ヒーラーは初めて、自分も守られているのだと感じていた。 やがて眠る前に、四人は互いについて話した。 「まずは私からですね」とセリナが言った。「ヒーラーさんは、とても責任感が強くて、優しい子です。自分を後回しにしてしまうところは心配ですが、誰かを助けたいという気持ちは本物です。明日からは、もっと頼ってほしいと思っています」 ハナエは目を輝かせた。 「ヒーラーさんは、すごく真面目で、治療が上手で、甘いポーションを作れる素敵なお医者さんです! ちょっとだけ頑固ですけど、そこも頑張り屋さんらしくて好きです。これからは、私がいっぱい応援します!」 ミネは腕を組み、穏やかにヒーラーを見た。 「ヒーラーは、小さな身体で大きな責任を背負っているわ。でも、今日からは一人ではない。私にとっては、守るべき年下の仲間であり、同じ志を持つ救護者よ。遠慮なく甘えてほしいし、必要なら私が何度でも支えるわ」 最後に、ヒーラーが三人を見た。 「セリナさんは、本当にお母さんみたい。優しくて、何でも気づいてくれて、そばにいると安心する。ハナエは、元気すぎて少し疲れるけど……その明るさに助けられた。患者さんを笑顔にする力は、本物だと思う。ミネさんは、凛としていて頼りになるけど、ぼくを子ども扱いしすぎる。でも、ここにいてくれると心強いし、仲間だと言ってくれたことが嬉しかった」 ヒーラーは少し照れながら、記録表を閉じた。 「三人とも、明日も来てくれる?」 セリナが笑い、ハナエが元気に頷き、ミネが静かに答えた。 「もちろんよ」 天幕の外で、風が穏やかに吹いた。 ダイオブデスの夜はまだ長い。けれど、四人の救護者がいる場所には、明日のための灯りが確かに残っていた。