特別ラウンドの終了を告げる鐘が、見慣れない広間に低く響いた。 床は磨かれた白い石でできていたが、壁際には古びた木箱や、用途の分からない機械が並んでいる。天井から吊られた照明は時折ちらつき、どこか落ち着かない空気を漂わせていた。 その中央に、一般人はひとりで立っていた。 黒い服に茶色のズボン。両手には黒い指切りグローブ。そして、覚醒したように上へ跳ねた黄色い髪。見た目だけなら、どこにでもいそうな住民だった。けれど今の彼は、誰も信じていない。 特別ラウンドが終わるまで、誰も信じない。 それが彼の胸に刻まれた、たったひとつの方針だった。 「一分間、生き残ればいい」 一般人は小さく呟き、周囲を見回した。 正確な時間は分からない。だが、ここにいる以上、何かが始まる。逃げ道があるのか、誰かが味方になるのか、それさえも不明だった。 そのとき、広間の高い窓から青い光が差し込んだ。 風が巻き起こり、長い青髪が大きく揺れる。次の瞬間、背中に青い羽を広げた少女が、静かに床へ降り立った。 白衣をまとった姿は凛としており、手には医療用の鞄が提げられている。表情は穏やかだったが、その瞳には強い意志が宿っていた。 「こんにちは。私は蒼森ミネ。トリニティ総合学園、救護騎士団の団長です」 ミネは丁寧に名乗り、一般人から少し離れた場所で立ち止まった。 一般人はすぐには答えなかった。彼女の背中の羽を見て、それから白衣、医療鞄、そして落ち着いた立ち姿を順番に確認する。 「……救護騎士団?」 「はい。怪我をした人を助けるのが役目です」 「助けるって言っても、ここは特別ラウンドだ。今の俺は、誰も信じない」 ミネは否定しなかった。 「それは、とても賢い判断ですね。知らない場所で、知らない人を簡単に信じるべきではありません」 「意外だな。もっと『大丈夫、私を信じてください』って言うのかと思った」 「そう言うだけで信じてもらえるなら、医療現場は苦労しませんから」 ミネは穏やかに微笑んだ。 その笑顔には、相手を安心させようとする優しさがあった。しかし同時に、何かを決めた人間だけが持つ硬さもある。一般人はそれを見逃さなかった。 「……本当に団長なんだな」 「ええ。ですが、今は肩書きより、あなたが困っていることのほうが重要です」 「困っていることならある。一分間、生き残らなきゃいけない」 「なるほど」 ミネは腕時計に目を落とした。正確な残り時間を測れるものではなかったが、状況を整理するように考え込む。 「では、一分間を無事に過ごすため、まずは落ち着ける場所を探しましょう。呼吸が速くなっています」 「見ただけで分かるのか?」 「救護騎士団の団長ですから」 「……怖いな」 「怖がらなくて大丈夫ですよ。少なくとも、私はあなたを傷つけるつもりはありません」 「少なくとも、って言った」 「言葉の選び方を間違えました。あなたを傷つけるつもりはありません。必要なら、守ります」 今度のミネの声には、迷いがなかった。 一般人はなおも警戒していたが、彼女の言葉を完全に拒絶することもできなかった。彼女は距離を詰めすぎず、手を伸ばしもせず、ただ相手の判断を待っている。 信用を求めてくるのではなく、信用できるように振る舞おうとしている。その違いは、一般人にもなんとなく伝わった。 「俺は一般人だ」 「分かりました」 「名前じゃない。ただの呼び方だ」 「では、一般人さんとお呼びしても?」 「好きにしろ」 「はい、一般人さん」 ミネは小さく頷いた。 広間の奥で、時計の針が一つ進む音がした。一般人は反射的にそちらを見る。ミネはその様子に気づいたが、あえて指摘しなかった。 「時間が気になるんですね」 「当然だろ。いつ何が来るか分からない」 「そうですね。ですが、焦りすぎると判断を誤ります。まず、使えるものを確認しましょう」 ミネは医療鞄を開いた。包帯、消毒液、冷却材、簡易食、携帯用の水。どれも整然と収められている。一般人はその中身を見て、少しだけ目を細めた。 「医療品を集めるのが趣味って、本当か?」 「よくご存じですね」 「さっき名乗ったとき、そういう雰囲気があった」 「雰囲気で趣味まで分かるとは、観察力がありますね。実際、珍しい医療品を見つけると嬉しくなります」 「珍しい医療品って、例えば?」 「古い型の縫合道具や、地方ごとに作りが違う救急箱、それから保存状態の良い薬瓶などです」 「薬瓶?」 「中身が空でも、ラベルや形に歴史が残っていますから」 「……変わった趣味だな」 「よく言われます。でも、集めたものが誰かの役に立つこともあります」 ミネはそう言って、鞄の隅にある小さなケースを大切そうに撫でた。 その姿を見て、一般人はわずかに肩の力を抜いた。少なくとも、彼女が自分の役割を軽く考えていないことは分かった。 「あなたは、戦う人なのか?」 「必要なら前に出ます。ただ、今は戦闘の話をする場面ではありません」 「でも、団長なんだろ」 「団長だからこそ、無用な争いは避けます。救護騎士団は、壊れたものを治すための組織ですから」 ミネはそこで一度言葉を切った。 「……まあ、私が少し張り切りすぎて、周囲から『ミネが壊して騎士団が治す』と言われることもありますが」 一般人は初めて、はっきりとした反応を見せた。 「それ、治す側が言っていい噂なのか?」 「噂です。噂に決まっています」 「今、間があったぞ」 「気のせいです」 ミネは涼しい顔で答えたが、青い羽の先がわずかに揺れた。 一般人は思わず鼻で笑った。緊張が消えたわけではない。それでも、先ほどまで広間を満たしていた張り詰めた空気が、ほんの少しだけ薄くなった。 ミネはそれを見逃さなかった。 「笑えるなら、少し安心しました」 「安心するな。まだ誰も信じてない」 「はい。信じなくても構いません」 「本当にそれでいいのか?」 「ええ。信頼は命令するものではありません。時間をかけて築くものです」 一般人は黙った。 彼にとって、誰かを信じないことは自分を守るための癖だった。特別ラウンドでは、それが正しいと何度も思い知らされてきた。近づいてきた者が味方とは限らず、助けると言った者が最後まで助けてくれるとも限らない。 だから、ミネの言葉は少しだけ調子が違って聞こえた。 信じろとは言わない。信じなくてもいいと言う。 その距離感が、かえって奇妙だった。 「一分間が終わったら、どうする?」 一般人が尋ねると、ミネは彼をまっすぐ見た。 「あなたが望むなら、広間の外まで案内します」 「望まなかったら?」 「それでも、出口の方向だけは伝えます」 「なぜそこまでする?」 「救護騎士団だからです」 「それだけ?」 「それだけで十分でしょう」 ミネの返答は、あまりにも自然だった。 一般人は床に視線を落とした。自分は特別な誰かではない。強いわけでも、重要な役割を持っているわけでもない。ただ生き残るためにここにいる。それでも彼女は、助ける相手として扱っている。 「……俺が一般人でも?」 「もちろんです。一般人さんであろうと、騎士であろうと、怪我をした人は治療します」 「区別しないのか」 「必要な区別はします。けれど、助ける価値があるかどうかで人を選びません」 その言葉に、一般人はしばらく返事をしなかった。 遠くで機械音が鳴り、照明が一度消えた。暗闇は数秒で終わったが、その間、一般人の指が無意識に握り締められた。 ミネはすぐ隣に立った。触れはしない。ただ、羽を少し広げて、暗闇の中でも彼の視界に青い輪郭を残した。 「ここにいます」 短い言葉だった。 一般人はそれに答えなかったが、握り締めていた手をゆっくり開いた。 やがて照明が戻る。 「……羽、便利だな」 「そうですね。飛べますし、目印にもなります」 「抱きしめるときも使うのか?」 唐突な質問に、ミネは少し驚いた。 「ええ。羽も一緒に抱きます」 「誰でも?」 「相手が嫌がらなければ」 「俺は嫌がる」 「分かりました。では、抱きしめません」 即答だった。 一般人はまた黙り込み、それから小さく笑った。 「本当に、変な団長だな」 「よく言われます」 「否定しないのか」 「自分でも少しそう思いますから」 時計の針が、また進む。 残り時間がどれほどなのか、一般人には分からない。けれど、最初よりも呼吸は落ち着いていた。ミネも急かさず、医療鞄を閉じて広間を見回している。 「ミネ」 初めて、一般人は彼女の名前だけを呼んだ。 「はい」 「もし俺が、最後まで誰も信じなかったら?」 「それでも構いません」 「助けてもらったとしても?」 「信じるかどうかは、助けられた側が決めることですから」 「助ける側は、見返りを求めないのか?」 「求める人もいるでしょう。でも私は、少なくとも今は求めません」 一般人はミネの横顔を見た。 凛とした白衣の天使。けれど、噂になるほど熱血で、必要なら自分から危険へ飛び込む人。優しいだけではない。おそらく、決めたことを曲げない頑固さも持っている。 それでも今は、彼を追い詰めるのではなく、ただ隣にいる。 その事実が、何よりも印象に残った。 やがて、広間に新しい鐘の音が響いた。 一度、二度、三度。 特別ラウンドの終了を告げる、穏やかな音だった。 一般人は周囲を見た。何も起こらない。扉も閉じたままではあったが、先ほどまで感じていた見えない圧力が消えている。 「終わったのか?」 「そのようですね」 「……生き残った」 「おめでとうございます」 ミネは微笑み、右手を差し出した。 一般人はその手を見つめた。握手を求めているのだろう。だが、すぐには手を伸ばさなかった。 誰も信じない。 その決意は、まだ消えていない。 それでも、彼はゆっくりと手を伸ばし、ミネの手を握った。 「これは信じたってことじゃない」 「はい」 「ただの握手だ」 「はい。握手ですね」 ミネの手は温かかった。 「出口まで案内してくれ」 「もちろんです」 「でも、俺の後ろを歩け。前を歩かれると警戒する」 「分かりました。あなたの後ろを歩きます」 一般人が先に歩き出す。ミネは数歩遅れて続いた。青い羽が音もなく揺れ、白衣の裾が静かに床を滑る。 扉の前で、一般人は足を止めた。 「ミネ」 「はい」 「……助かった」 それだけ言うと、彼はすぐに前を向いた。 ミネは目を細め、優しく頷く。 「どういたしまして、一般人さん」 扉が開く。 二人は広間をあとにした。 完全に信じ合えたわけではない。これから先も、一般人は簡単には誰かを信頼しないだろう。ミネもまた、彼の警戒心を無理に変えようとはしない。 けれど、一分間を共に過ごしたことで、二人の間には小さな理解が生まれていた。 それは信頼の始まりと呼ぶには、まだ控えめなものだった。 それでも、始まりと呼んでもよいものだった。 ◇ 蒼森ミネから見た一般人の印象。 「警戒心が強く、自分を守るために誰も信じないという姿勢を崩さない人です。ただ、周囲をよく見ていて、相手の言葉の矛盾にもすぐ気づく聡明さがあります。口では冷たく振る舞っていても、最後にはきちんと感謝を伝えられる。私は、思っていたよりずっと誠実な人だと感じました。今度会うときは、無理に信じてもらおうとはしません。まずは温かい飲み物を用意して、ゆっくり話せればと思います」 一般人から見た蒼森ミネの印象。 「最初は、白衣を着た羽の生えた騎士団長なんて、どう考えても普通じゃないと思った。実際、普通ではない。優しそうなのに、妙に熱くて、噂どおり何かを壊しそうな雰囲気もある。でも、こっちに信じろと押しつけなかった。助けた見返りも求めなかった。だから、まだ完全には信じていない。それでも、背中を預けてもいいかもしれないと思える相手ではある。……羽を一緒に広げて抱きしめるのは、まだ遠慮しておく」