雨上がりの午後、古びた駅舎の待合室には、時計の音だけが静かに響いていた。 壁際の長椅子に、赤いスーツ姿の少女が座っている。腰まで届く白髪を背に流し、白いうさ耳の間には、少し斜めになった鼻メガネ。手袋をはめた指で懐中時計を弄びながら、彼女は何度目か分からない欠伸をした。 「……遅いですねえ」 そう呟いてから、アルビノは懐中時計を閉じた。 「まあ、急いでいるわけではないんですけど」 待ち合わせの時刻から、すでに三十分は過ぎている。けれど、彼女の表情に苛立ちはなかった。時間にうるさくないという名前の通り、遅刻についても、予定の変更についても、だいたいは「そういう日もありますよね」で済ませてしまう。 駅舎の扉が軋んだ。 「おや、誰か来ましたねえ」 入ってきたのは、適当に着た修道服の女だった。頭を覆うものはなく、黒い長髪は寝起きのように乱れている。深紅の瞳が室内を見回し、アルビノを見つけると、彼女はへらりと笑った。 「やあやあ。待った?」 「三十分くらいです」 「そりゃ悪かったねえ。道端で酒瓶を見つけてさ」 「道端に酒瓶が落ちていたんですか?」 「落ちてたというか、置いてあったというか。まあ、細かいことはいいじゃない」 ノクターン・ルナリスはそう言って、アルビノの隣に腰を下ろした。修道服のポケットから煙草を取り出すが、火をつける前に、アルビノが懐中時計の蓋でそっと彼女の手を押し下げた。 「ここ、禁煙ですよ」 「元シスターに説教するとは、いい度胸だねえ」 「私はシスターではないので、説教ではなくお願いです」 「どっちでも同じようなものさ」 ノクターンは煙草を指先で回し、結局、口にくわえただけで火はつけなかった。アルビノはその様子を確認すると、満足そうに耳を揺らした。 「それで、今日は何の用でしょう?」 「依頼の話。駅前の喫茶店で打ち合わせする予定だったんだけど、閉まってた」 「臨時休業ですか?」 「たぶんね。張り紙があったけど、読むのが面倒で見てない」 「なるほど」 「だからここでいいでしょ。椅子もあるし、雨漏りもしてない」 「雨漏りしていないことを、そんなに嬉しそうに言う人は初めて見ました」 アルビノはくすりと笑った。ノクターンは肩をすくめ、修道服の内側から折りたたまれた紙を出した。紙には、街の外れにある古い天文台の見取り図と、簡単な依頼内容が記されている。 「天文台の管理人が、夜になると聞こえる変な音を調べてほしいんだってさ。鐘みたいな音とか、誰かが歩く音とか。幽霊かもしれないらしいよ」 「幽霊……」 アルビノの赤い瞳が、わずかに輝いた。 「幽霊は、時間に正確だったりするでしょうか」 「知らないねえ。死んでからまで時間を気にするなんて、よっぽど几帳面な奴じゃない?」 「それは大変そうです。私はそういう方とは、あまり相性がよくありません」 「君、白ウサギなのに時間を気にしないんだっけ?」 「白ウサギだからといって、いつも急いでいるとは限りませんよ。走るより、座っているほうが楽ですし」 「うん。君は見た目からして、もっと忙しなく跳ね回るものだと思ってたけどねえ」 「よく言われます」 「そのたびに否定するの?」 「いいえ。面倒なので、はいはい、と聞き流しています」 二人の間に、しばし穏やかな沈黙が落ちた。駅の外では、屋根から落ちる雨粒が一定の間隔で地面を叩いている。アルビノは懐中時計を開き、針を眺めた。ノクターンは煙草を指で弄びながら、彼女の横顔を見る。 「それ、ちゃんと動いてるの?」 「もちろんです」 「でも、さっきから何度も開いたり閉じたりしてるだけじゃない」 「時間を確認しているんですよ」 「時間を気にしないくせに?」 「気にしないことと、確認しないことは違います」 「へえ。難しいねえ」 「ノクターンさんは、時間を確認しないんですか?」 「私は時計を見ると、まだ寝てていい時間じゃないかって期待するから見ない」 「それは確認というより、現実逃避ですね」 「そうとも言う」 ノクターンは平然と答えた。その雑な態度に、アルビノはまた笑う。 やがて、彼女は長い白髪を肩の後ろへ払った。腰に吊った二挺の重い銃が、金具を鳴らす。ノクターンはそれに気づき、視線を向けた。 「相変わらず物騒なものを持ってるねえ」 「ノクターンさんも、銃とナイフを持っていますよね」 「私は護身用。君のは……なんだっけ、ラビットなんとか」 「ラビット・バレットです」 「そうそう。それ、兎が持つには重すぎない?」 「重いですよ。なので、できるだけ持ち歩きたくありません」 「武器なのに?」 「必要なときだけ持つのが理想です。今日は依頼の下見だけなので、置いてくればよかったかもしれません」 「じゃあ、なんで持ってきたのさ」 「置いていくと、取りに戻るのが面倒でしょう?」 ノクターンは一瞬黙り、それから吹き出した。 「君、思ったよりズボラだねえ」 「ノクターンさんほどではありません」 「失礼だなあ。私は効率的に生きてるだけだよ」 「その結果、酒瓶を拾って遅刻したんですか?」 「効率的に飲みたかったんだよ」 「駅へ来る効率は悪くなっています」 「細かいねえ」 「時間にうるさくないだけで、筋道には少しうるさいんです」 「ややこしい兎だ」 アルビノは否定せず、鼻メガネの位置を直した。 そのとき、駅舎の奥から小さな物音がした。古い棚が揺れたような、乾いた音だった。ノクターンは反射的に視線を向ける。アルビノも耳を立てたが、すぐに力を抜いた。 「猫でしょうか」 「たぶんね」 「確認しなくていいんですか?」 「確認したら、何か面倒なものが見つかるかもしれない」 「見つからないかもしれませんよ」 「それでも、見に行く理由にはならないねえ」 「合理的です」 「褒めてる?」 「たぶん」 「たぶんかあ」 ノクターンは立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。どうやら物音の正体を確かめるより、ここで休んでいるほうを選んだらしい。 「天文台には、いつ行く?」 「今日の夜でしょうか」 「今からじゃないの?」 「今から行くと、到着する頃には夕方です。夜の音を調べるなら、夜に向かうほうが自然かと」 「じゃあ、いったん解散?」 「ノクターンさんは、夜まで何をするんですか?」 「寝る。起きたら飲む。気が向いたら煙草を吸う」 「調査の前に酔ってしまうのでは?」 「それはそれで、幽霊が本当にいるように見えて楽しいかもしれない」 「依頼人には、正直に報告してくださいね」 「もちろん。『酔っていたのでよく分かりませんでした』って」 「それは正直すぎます」 アルビノは困ったように笑い、長椅子の背にもたれた。赤いスーツと白い髪の組み合わせは鮮やかだったが、本人の雰囲気は驚くほどのんびりしていた。 「では、夕方にまたここで待ち合わせましょう」 「またここ?」 「場所を変えると、探すのが面倒です」 「君は本当に面倒くさがりだねえ」 「ノクターンさんにだけは言われたくありません」 「私は自覚があるからいいの」 「私も自覚がありますよ」 二人は顔を見合わせた。どちらからともなく、同時に小さく笑う。 駅舎の時計が、少し遅れた時刻を告げた。針は不規則に揺れたあと、何事もなかったように進み始める。アルビノはそれを見て、懐中時計を開いた。 「この時計、駅の時計より三分早いですね」 「じゃあ、駅の時計が間違ってるんじゃない?」 「その可能性もあります」 「どっちでもいいんだ」 「ええ。三分くらいなら、待つのも待たせるのも誤差です」 「じゃあ私は、次も三十分くらい遅れていい?」 「三十分は少し長いですねえ」 「時間にうるさくないんじゃなかったの?」 「うるさくないだけで、寂しくないとは言っていません」 その言葉に、ノクターンはほんの少しだけ目を細めた。いつものへらへらした笑みは変わらない。それでも、先ほどまでより静かな表情だった。 「……じゃあ、二十分にするよ」 「十五分では?」 「交渉するんだ」 「待つ時間が短いほうが楽ですから」 「はいはい。じゃあ十五分。努力する」 「努力でどうにかなるものなんですね」 「たぶんねえ」 ノクターンは立ち上がり、煙草をポケットへ戻した。アルビノも腰を上げ、懐中時計をしまう。二人は駅舎の扉へ向かった。 外はまだ薄曇りだった。濡れた線路が空の色を映し、遠くで鳥が鳴いている。 「そういえば、アルビノ」 「はい?」 「君、幽霊が怖い?」 アルビノは白いうさ耳をぴくりと動かし、少し考えた。 「怖いというより、話が通じるかどうかが気になります」 「そこを気にするんだ」 「話が通じない相手は、対応が面倒ですから」 「なるほどねえ。じゃあ、もし幽霊が出てきて、すごく時間に厳しい奴だったら?」 「そのときは、ノクターンさんにお任せします」 「私に?」 「はい。私は時間にうるさくないので、厳しい方とは相性が悪いんです」 「分かった。そいつには私が、『死んだ後まで急かすな』って言ってやるよ」 「頼もしいですね」 「褒めても何も出ないよ。酒ならあるけど」 「昼間からですか?」 「幽霊の調査前なら、景気づけにいいじゃない」 「私は結構です。眠くなりますので」 「君は寝るの?」 「必要なら寝ます」 「それ、必要じゃなくても寝る人の言い方だねえ」 アルビノは返事の代わりに、欠伸をした。ノクターンは笑いながら歩き出し、アルビノも少し遅れて隣に並ぶ。 夕方の待ち合わせまで、まだ時間はある。二人は急がず、濡れた道を歩いていった。ノクターンは時折、酒瓶の話をし、アルビノはそのたびに呆れたような相槌を打った。けれど、歩調は自然に揃っていた。 駅から離れたところで、ノクターンがふいに口を開く。 「アルビノってさ、思ったより話しやすいねえ」 「ノクターンさんも、思ったより時間に寛容です」 「私が遅刻したこと?」 「はい。遅刻したのに、ちゃんと来ましたから」 「来るのは普通じゃない?」 「普通ができる人は、案外少ないですよ」 「へえ。君、たまに変なこと言うね」 「よく言われます」 「それ、便利な返事だねえ」 「便利なので使っています」 二人の声は、雨上がりの街にゆっくり溶けていった。 やがて分かれ道に着くと、ノクターンは片手を上げた。 「じゃあ、夕方に。十五分以内に来るよ」 「できれば、遅れても二十分以内でお願いします」 「五分増えた」 「保険です」 「はいはい。君にしては厳しいねえ」 「ノクターンさんにだけです」 「それは光栄」 ノクターンはへらりと笑い、片手を振って去っていく。アルビノはその背中を見送り、懐中時計を取り出した。 針は、静かに時を刻んでいる。 「……まあ、夕方になれば分かりますよねえ」 そう呟き、アルビノも反対の道へ歩き出した。 その足取りは、やはり急いでいなかった。 夕方、再び天文台へ向かう前。アルビノはノクターンについて、こう思っていた。 ――だらしなくて、話が軽くて、予定を守る保証もない人。でも、こちらを急かさず、無理に踏み込まず、何かあれば隣にいてくれる。少し面倒ですが、悪くない方です。 一方、ノクターンもまた、アルビノについて考えていた。 ――のんびりしていて、重たい武器を持つくせに持ちたがらず、時間の話をするのに時間を気にしない変な兎。でも、沈黙が気まずくならないし、急かされないのは楽だ。できれば、次の待ち合わせには十五分以内に行ってやろう。 もっとも、その決意が守られるかどうかは、夕方になってみなければ分からなかった。