深い静寂に包まれていたはずの古の聖域は、今や血と硝煙、そして砕けた岩石の塵に満ちていた。 メアリーは、自身の足元に転がる醜悪な魔物の死骸を一瞥し、ふっと溜息をついた。彼女が纏う白いワンピースは、戦いの中にあっても不思議と汚れひとつない。金色の長い髪が微風に揺れ、碧色の瞳が冷徹に周囲を走査する。 「まったく。予定外の伏兵とは、お行儀の悪いこと。お掃除に時間がかかってしまいますわね」 彼女の手元では、銀色に輝く液体金属が生き物のようにうねっていた。物質を錬金し、金属へと変換する彼女の権能――コンバージョン。そして、その金属の性質を自在に操るオーダーズメタル。彼女にとって、戦場にあるあらゆる物質は、自身の武器へと作り変える素材に過ぎない。 その時だった。地響きと共に、視界を覆い尽くすほどの巨大な影が舞い降りたのは。 ドォォォォォォン!! 衝撃波で周囲の樹木がなぎ倒され、地面に深い亀裂が走る。メアリーは即座に反応し、液体金属を瞬時に硬質化させ、鋭いロングソードへと形成した。同時に、自身の身体を包み込むように「反魔重装甲・改」を展開する。気品あるお嬢様の姿から一転、鈍い銀色の輝きを放つ重厚な鎧が彼女を包み込んだ。 「……どなたかしら。この状況で私の前に立ちはだかるなんて、よほどの自信家か、あるいは単なる愚か者か」 目の前に鎮座するのは、山そのものが意思を持って歩き出したかのような、岩の怪物。身長は数千メートルに及び、その存在感だけで大気が圧迫される。ロッドハールである。 ロッドハールは、その巨大な瞳で足元の小さな銀色の騎士――メアリーを見下ろした。彼はもともと、この地の平穏を守るために神に創られた守護者である。彼にとって、この聖域に侵入し、魔物を屠るメアリーは「異物」に映った。 「……人間か。ここは、お前のような者が踏み入る場所ではない」 地鳴りのような低音が響く。言葉というよりは、大地の震動に近い。ロッドハールはゆっくりと、しかし拒絶するように巨大な拳を上げた。 メアリーは不敵に微笑む。相手のサイズに怯えるなど、彼女の辞書にはない。 「あら、挨拶にしては少々乱暴すぎますわね。ですが、礼儀を教える準備はできておりますわ」 メアリーが地を蹴った。加速と共に液体金属が足元から噴出し、彼女を弾丸のように射出する。空中でソードを槍へと変形させ、超高速の刺突をロッドハールの腕に叩き込んだ。 キィィィィィィィン!! 激しい金属音が鳴り響くが、ロッドハールの岩肌には傷ひとつついていない。神の加護を受けた彼の肉体は、並大抵の攻撃を完膚なきまでに無効化する。 「……軽いな」 ロッドハールが軽く腕を振る。ただの払い除けに過ぎないはずが、発生した風圧だけでメアリーは後方へ弾き飛ばされた。しかし、彼女は空中で液体金属を扇状に展開し、空気抵抗を利用して華麗に接地する。 「ふふ、強靭ですこと。ですが、硬いだけでは面白くありませんわ」 互いに牽制し合い、空気は張り詰める。メアリーは相手の正体が単なる魔物ではなく、ある種の神性を帯びた守護者であることを見抜き、ロッドハールはメアリーが単なる人間ではなく、極めて高度な錬金術と武芸を操る特異個体であると認識した。 そんな二人の間に、突如として「絶望」が介入する。 ――ギャアアアアアアアア!! 天を裂くような咆哮と共に、空間がガラスのように砕け散った。そこから現れたのは、このダンジョンの最深部に潜んでいたはずの強敵、「虚空の暴食龍(ヴォイド・イーター)」であった。 全身が黒い霧のような鱗に覆われ、その口からはあらゆる物質と魔力を飲み込む黒い穴(ブラックホール)が形成されている。彼がただそこに存在するだけで、周囲の岩石が吸い込まれ、消滅していく。ロッドハールが守るべき大地さえも、この龍にとってはただの餌に過ぎなかった。 「……奴か」 ロッドハールが低く呟く。彼はこの龍が聖域の均衡を破壊し、森と山を蝕んでいる元凶であることを知っていた。 「あら、タイミング良くお出ましになりましたわね。私の目的はあのアグリーなトカゲを討伐すること。どうやらあなた様も、あの方がお気に召さないようですわね?」 メアリーは鎧の形状をさらに最適化し、液体金属の槍を二本、十字に構えた。ロッドハールは静かに、しかし重い足取りで龍の方へと向き直る。 「……フン。今は、力を合わせるだけだな」 「話が早くて助かりますわ。それでは、最高の共同作業にいたしましょう」 戦いの幕は、電光石火の速さで上がった。 ヴォイド・イーターが咆哮し、口から超高密度の消滅波動を放つ。すべてを無に帰す一撃。しかし、そこへロッドハールの巨大な腕が壁となって立ちはだかった。 「どけ」 ロッドハールが大地を掴み、そのまま巨大な岩の盾をせり上がらせる。消滅波動が岩壁に衝突し、凄まじい爆発が起こる。岩が砕け、消失していくが、ロッドハールは微動だにしない。神の加護による超速再生が、消えゆく肉体を瞬時に補完し続ける。 その盾の影から、銀色の閃光が飛び出した。 「今ですわ!」 メアリーが空中から急降下し、液体金属を巨大なドリル状に変換。回転による穿孔力と、オーダーズメタルによる「超硬度」の付与。彼女は龍の硬い鱗の隙間を突き、その胸元へと深く突き立てた。 ズガァァァァァン!! 「ギガァッ!?」 龍が衝撃にのけぞる。しかし、龍の体表から黒い触手のような霧が噴出し、メアリーを拘束しようと襲いかかる。メアリーは即座に反魔重装甲を最大出力で展開し、魔力を弾く障壁で触手を弾き飛ばした。だが、相手は空を舞う龍。機動力で劣る彼女にとって、空中の戦いは不利だった。 「ふんっ!!」 ロッドハールが地を叩いた。その瞬間、龍の足元の地面が爆発的に盛り上がり、巨大な岩の柱が数本、龍の体を空中で突き上げた。物理的に逃げ道を塞ぎ、地上へと叩きつける戦術である。 「お見事ですわ、ロッドハール様! その隙、逃しませんわ!」 メアリーは地上に残していた大量の液体金属を一気に呼び寄せた。彼女の周囲に、数千本の銀色の針が形成される。コンバージョンによる物質変換と、オーダーズメタルによる形状制御の極致。 「【流銀の雨(シルバー・レイン)】!!」 空へと放たれた数千の針が、弾道を描いて龍の全身に降り注ぐ。一本一本が超高速の貫通力を持ち、龍の鱗を次々と貫いていく。龍は苦悶の叫びを上げ、激しく身悶えした。 だが、ヴォイド・イーターはまだ死んでいなかった。瀕死の状態で、龍は自身の全魔力を口内に集約させる。周囲の空間が歪み、光さえも吸い込まれる究極の消滅攻撃。それを放てば、この森も、山も、そして目の前の二人さえも消し飛ばされるだろう。 「……厄介な技を使うな」 ロッドハールが前へ出る。彼は自らの身体をさらに巨大化させ、大地そのものと一体化させた。土属性の権能を最大限に解放し、龍を飲み込むほどの巨大な地殻の檻を作り出す。 「オレが抑える。……やれ」 「ええ、任せてくださいませ!」 ロッドハールが龍を岩の檻に閉じ込め、その身で攻撃の衝撃を真っ向から受け止める。神の肉体が軋み、ひび割れ、一部が消失していく。しかし、彼は一歩も引かない。その不動の精神と肉体が、龍の最終攻撃を強引に封じ込めていた。 その絶好の機会を、メアリーは見逃さなかった。 彼女は自身のすべての液体金属を一点に集約。ロングソードを、さらに巨大な、天を衝くような銀の聖槍へと変形させた。反魔重装甲のエネルギーをすべて攻撃に転換し、槍の先端に超高密度の振動を付与する。 「これで終わりですわ。――【流銀の裁定(シルバー・ジャッジメント)】!!」 銀色の閃光が走った。 ロッドハールの拘束を突き抜け、メアリーの槍がヴォイド・イーターの心臓を正確に貫いた。液体金属が龍の内部に浸透し、内側から爆発的に硬質化。龍の細胞ひとつひとつを金属に変え、内側から完全に破壊した。 ドォォォォォォォォォン!! 大爆発と共に、黒い霧が霧散し、龍の巨体は静かに崩れ落ちた。聖域に、再び静寂が訪れる。 ロッドハールは、元に戻ったサイズでふぅと息を吐いた。彼の体には多くの亀裂が入っていたが、神の加護によって、それらは見る間に塞がっていく。 メアリーは槍を液体に戻し、再び気品あるワンピース姿へと戻った。彼女はふふっと微笑み、隣に立つ岩の巨人に視線を向けた。 「いい連携でしたわね。あなたのようなお方が味方にいてくださるとは、幸運でしたわ」 ロッドハールは無口に、しかしどこか満足げに鼻を鳴らした。 「……お前も、ただの人間ではないな。その槍、悪くなかった」 「あら、お褒めに預かり光栄ですわ。ですが、次にお会いする時は……どちらが強いか、ゆっくりと確かめ合いたいものですわね」 メアリーはいたずらっぽく笑い、優雅に会釈をした。ロッドハールはそれに応えるように、ゆっくりと大きく頷いた。 共通の敵を失った二人の間には、奇妙な信頼感と、心地よい競争心が芽生えていた。異なる世界観、異なる理を持つ二人が、一時的に交差した奇跡の戦い。 「それでは、ごきげんよう。山の守護者様」 メアリーは軽やかな足取りで、来た道を戻っていく。ロッドハールは、彼女の姿が見えなくなるまで、静かにその背中を見送っていた。 空には、澄み渡った青い空が広がっていた。