特別ラウンドが終わるまで、誰も信じない。 その言葉を胸の奥で何度も繰り返しながら、一般人は古びた建物の廊下を歩いていた。黒い服に茶色のズボン。頭の上には、黄色い髪が覚醒したようにまっすぐ立っている。自分でも妙な姿だと思うが、この場所では外見を気にしている余裕などなかった。 遠くから、低く一定のリズムが聞こえてくる。 ONE BOUNCE。 特別ラウンドの開始を告げる曲だった。勝利条件は、一分間生き残ること。ただそれだけ。しかし、一般人にとっては、その一分がひどく長い。 廊下の角を曲がったとき、白衣の裾が視界に入った。 青く長い髪。背中には大きな青い羽。凛とした佇まいの少女が、壁際に置かれた医療箱を確認している。白衣の天使という言葉が、そのまま形になったような人物だった。 「あなた、怪我はありませんか?」 声は穏やかだった。けれど一般人は足を止めず、少し距離を取った。 「近づくな。今は誰も信じない」 少女は驚いたように瞬きをした。それから、わずかに眉を下げる。 「警戒しているのですね。無理もありません。ここは、安心して休める場所ではなさそうですから」 「そういう言い方をする奴ほど怪しいんだ」 「なるほど。では、わたしが怪しいかどうかは、あなたが決めてください。ただし、具合が悪くなったらすぐに言うこと。無理をして倒れるのは、いちばん困ります」 少女――蒼森ミネは、一般人の敵意を受けても声を荒らげなかった。救護騎士団の団長として、誰かを安心させることには慣れているのだろう。 一般人はミネの背後にある医療箱を見た。包帯、消毒液、見慣れない薬品。どれも本物らしく見える。だが、この場所では、信用できるものなど何もない。 「お前は、何者だ」 「蒼森ミネ。トリニティ総合学園の三年生で、救護騎士団の団長をしています」 「騎士団長?」 「はい。怪我をした人を助けるのが仕事です」 ミネはそう言ってから、一般人の足元に視線を落とした。 「それと、少し疲れていますね。走りましたか?」 「……見ただけでわかるのかよ」 「歩き方と呼吸で、ある程度は。あなたは体力を使いすぎています。今すぐ休めとは言いませんが、水分だけでも取ってください」 差し出されたのは、小さな水筒だった。 一般人は受け取らなかった。 「毒かもしれない」 「では、わたしが先に飲みます」 ミネはためらいなく水筒を口にした。少し飲んでから、一般人へ戻す。 「これでどうでしょう」 「……そこまでして信用させたいのか?」 「信用は、急いで得るものではありません。あなたが警戒を解くまで、わたしは待ちます」 その言葉に、一般人は一瞬だけ黙った。けれど、すぐに顔をそむける。 「一分間だけだ。終わったら、俺は一人で行く」 「わかりました。ただ、一分間を生き残るために誰かと協力するのは、悪い選択ではありません」 「協力? 俺を利用するつもりか」 「いいえ。わたしはあなたを守りたいのです」 あまりにも真っ直ぐな返事だった。 一般人は、かえって戸惑った。誰かに守ると言われた記憶など、最近はなかった。まして、青い羽を持つ少女に、真剣な目で言われるとは思わない。 「守るって……お前、俺のことを何も知らないだろ」 「何も知らないからこそ、目の前で困っている人を放っておけません」 ミネは少しだけ笑った。その表情は柔らかいが、どこか危うい熱を秘めている。白衣の天使という印象の奥に、熱血騎士の芯があるのだと、一般人にもわかってきた。 廊下の向こうで物音がした。 一般人の身体が強張る。反射的に、黒い指切りグローブをはめた手を上げた。ミネはその動きを見たが、問いたださなかった。 「来るのか?」 「わかりません。しかし、ここに留まるなら、静かにしてください」 ミネは一般人の前に立った。青い羽がゆっくりと広がり、二人の姿を隠すように壁際へ寄せる。羽は大きいが、動きは驚くほど静かだった。 「お前、飛べるのか」 「はい。ですが、今は飛ばないほうがよさそうです。目立ちますから」 「冷静だな」 「団長ですから」 「それだけじゃないだろ」 ミネは横目で一般人を見る。 「どういう意味でしょう?」 「なんか……壊しそうな顔をしてる」 一瞬、ミネの笑顔が固まった。 「それは、よく言われます」 「やっぱりな」 「ですが、わたしが壊したものは、騎士団がきちんと治します」 「その噂、本人が認めるのかよ!」 思わず一般人が声を上げると、ミネは人差し指を唇に当てた。 「静かに。今のは冗談です」 「冗談に聞こえなかったぞ」 「では、覚えておきます。次からは、もっと穏やかな冗談にしますね」 そう言うミネの声は、やはり穏やかだった。一般人は警戒を続けながらも、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。 物音は遠ざかっていった。曲のリズムだけが、建物の中に残る。 「あと何秒だ?」 「あなたの勝利条件の時間でしょうか」 「ああ。一分間だ」 「この曲が始まってから、三十秒ほどです」 「半分……」 一般人は壁に背を預けた。クロークを使えば、姿を隠すことはできる。しかし、透明になっている間はスタミナが戻らず、走れば消耗も激しい。効果が切れた後には、二秒間動けなくなる。 使うべきか、使わないべきか。 「その布は、使うと疲れますか?」 ミネが、一般人の手にあるぼろい透明マントを見た。 「……詳しいな」 「詳しいわけではありません。あなたがそれを気にしている様子だったので、使うには代償があるのだと思いました」 「透明になれる。でも、走ると体力を持っていかれる。終わった後は動けない」 「なら、最後の切り札にしたほうがよさそうです」 「お前ならどうする?」 「あなたが自分で決めるべきです。ただ、わたしが近くにいるなら、無理に隠れなくてもいいと思います」 「何を根拠に?」 「わたしが、あなたのそばにいるからです」 その答えは、あまりにも単純だった。一般人は小さく息を吐く。 「……団長って、みんなにそう言うのか?」 「困っている人には、そう言います」 「全員を甘やかしてたら、身が持たないだろ」 「年下の子には、つい甘くなってしまうのです」 「俺も年下に見えるのか?」 「少なくとも、ひとりで無理をしている人には見えます」 一般人は返事をしなかった。ミネはそれ以上踏み込まず、静かに隣へ立った。 やがて曲の音が少し高くなる。残り時間が近づいているらしい。 「ミネ」 初めて、一般人は名前を呼んだ。 「はい」 「もし、この一分が終わったら……お前はどうする」 「あなたが無事なら、それで十分です。できれば、こちらの医務室まで来てください。疲労を確認したいので」 「まだ信用してない」 「それでも構いません。信用していなくても、休むことはできますから」 「変な奴だな」 「よく言われます」 「それも本人が認めるのかよ」 「ええ。自覚はあります」 一般人は、今度こそ笑った。ほんの短い笑いだったが、ミネは嬉しそうに目を細めた。 その瞬間、廊下の奥から再び大きな物音がした。一般人は身構え、ミネはすぐに彼の前へ出る。 「大丈夫です。焦らないで」 「でも……」 「あなたは、あなたの判断をしてください。わたしはわたしの役目を果たします」 「役目って?」 「助けることです」 残り時間は、わずかだった。 一般人は透明マントを握りしめた。しかし、使わなかった。ミネの青い羽がすぐそばにある。彼女が本当に信用できるかどうかは、まだわからない。けれど、少なくともこの一分間、彼女は一度も一般人を置き去りにしなかった。 やがて、曲が途切れた。 建物全体が、短い沈黙に包まれる。 「終わりました」 ミネが告げた。 一般人はしばらく動かなかった。身体に力が残っていることを確かめるように、指を開閉する。それから、ゆっくりと息を吐いた。 「……生き残った」 「おめでとうございます」 ミネは微笑み、両腕を広げた。 「よく頑張りましたね」 「何だ、その手は」 「ハグです」 「いらない」 「そうですか?」 「そうだ」 一般人は即答した。だが、ミネは腕を下ろさず、少し首をかしげている。青い羽まで一緒に包み込むような姿勢は、確かに普通のハグより迫力があった。 「……本当に、いらないんだな?」 「はい」 「そうか」 ミネが残念そうに腕を下ろそうとしたとき、一般人はその手首を軽くつかんだ。 「ただし、短くだ」 「はい!」 ミネは嬉しそうに笑い、一般人を抱きしめた。青い羽が二人の背中を包む。温かく、柔らかい。一般人は最初こそ身を固くしていたが、すぐに力を抜いた。 「……羽まで使うのか」 「大切な人を抱くときは、羽も一緒です」 「大切な人ってほどじゃないだろ」 「今日、無事に一分間を耐え抜いた仲間です」 その言葉に、一般人は少し黙った。 「仲間、か」 「嫌ですか?」 「……まだ、誰も信じてない」 「はい」 「でも、お前は……完全に敵ってわけじゃない」 「それだけで十分です」 ミネはゆっくりと腕を解いた。 「医務室へ行きましょう。水分を取って、少し休んでください」 「断ったら?」 「あなたが自分で歩けるなら、わたしは隣を歩きます」 「結局ついてくるのか」 「団長ですから」 一般人は呆れたように肩をすくめた。それでも、今度は先に歩き出した。ミネは少し遅れて、その隣に並ぶ。 廊下を進みながら、一般人はふと思い出したように尋ねた。 「ミネ。俺に対する印象は?」 「あなたに対する印象ですか?」 「ああ。最後に、ちゃんと言っておけ」 ミネは歩みを緩め、一般人を見た。 「最初は、とても警戒心が強く、ひとりで何もかも背負おうとしている人だと思いました。でも、あなたは本当に慎重で、周りをよく見ています。信じることを急がないのは、弱さではありません。自分を守るための強さです」 そこでミネは、少しだけ笑った。 「それに、思っていたより優しい人です。わたしの提案を拒みながらも、最後にはきちんと隣にいてくれましたから」 「……そういうの、恥ずかしいな」 「では、あなたからもお願いします」 「俺から?」 「はい。わたしに対する印象を」 一般人はしばらく考えた。白衣の天使。救護騎士団の団長。年下を甘やかす、少し変わった少女。穏やかなのに、どこか熱すぎるところがある。たぶん、必要とあれば誰よりも無茶をする。 「最初は、絶対に危ない奴だと思った」 「今は?」 「今も少し思ってる」 「少しですか?」 「かなり少しだ。お前は……変だけど、嘘はつかない。誰かを助けるって言ったら、本当に助けようとする。あと、距離が近い」 「ハグは嫌でしたか?」 「嫌とは言ってない」 「では、またしてもいいのですね」 「毎回とは言ってない!」 ミネが声を立てて笑う。一般人も、今度は笑いをこらえなかった。 二人の足音が、静かな廊下へ重なっていく。 特別ラウンドが終わっても、一般人はまだ誰も完全には信じていなかった。それでも、隣を歩く白衣の少女だけは、少なくとも疑い続ける必要がないような気がしていた。 ミネにとってもまた、彼はただの救護対象ではなかった。怯えながらも最後には手を差し出せる、頑固で、不器用で、守る価値のある仲間だった。 そして二人は、まだ名前のつかない信頼を抱えたまま、医務室へ向かった。