昼とも夜ともつかない光が、裏市場の天井を覆っていた。 巨大な地下街の天井には、昼を模した白い魔導灯と、夜を模した紫色の提灯が無秩序に吊られている。情報屋が耳打ちし、賞金稼ぎが獲物の似顔絵を広げ、怪しい商人たちが呪われた宝石や瓶詰めの怪物、名前のない薬を売りさばいていた。 人の波を縫うように、雨ヶ原シノメは歩いていた。 灰色の髪をロール状に巻き、膝の近くまで垂らした少女。灰色のゴシック調ドレスに身を包み、黒い傘を静かに掲げている。その姿は市場の喧騒から切り離された、霧の中の令嬢のようだった。 彼女が歩くたび、足元から薄い霧が流れた。霧に触れた者たちは、一瞬だけ亡くした人の笑顔を見た。あるいは、忘れたかった記憶を柔らかな光に包まれた記憶として見た。 泣き疲れた荷運びの男が、ふと顔を上げる。 「……なんだか、少しだけ楽になった」 シノメは微笑んだ。 「皆様。痛みは、抱え込まなくてもよいのです。私と共に霧へ心を委ねましょう……」 そのときだった。 果物屋の屋台の下から、銀色の髪がちらりとのぞいた。 緑色の瞳が、シノメの傘を見つめている。 幼い少女――ティナは、屋台の影にしゃがみ込みながら、陽動用の派手な小型ナイフを指先でくるくる回していた。彼女の周囲には、誰も気づかないほど薄い毒針が数本、袖の内側に隠されている。 ティナはシノメをじっと観察していた。 傘。利き腕。歩幅。呼吸。視線の揺れ。 そして、霧。 人々の心を癒す魔法。けれど暗殺者であるティナにとって、心を覗かれるかもしれない力は、ひどく気に障るものだった。 「ねえ、おばさん」 ティナが屋台の下から顔だけ出した。 周囲の商人たちが、一斉に息を呑んだ。シノメはゆっくりと振り返る。 「私でしょうか?」 「うん。さっきから、みんなの頭の中を勝手に見てるでしょ」 「見ているのではありません。傷に触れているだけです」 「同じじゃない?」 ティナは無邪気に笑った。 「それに、気持ち悪い霧。私のことまで覗かれたら困るんだよね」 「あなたの心には、癒しを求める傷があるようです」 その言葉を聞いた瞬間、ティナの笑顔が消えた。 幼い顔から、温度が抜け落ちる。 「……今、何て言ったの?」 シノメは傘をわずかに傾けた。 「苦しみを隠している方ほど、霧はよく見つけるのです」 「勝手に見つけないでよ」 ティナの声は静かだった。 次の瞬間、彼女は派手なナイフを投げた。 ナイフはシノメの顔ではなく、背後の酒瓶を弾いた。瓶が割れ、強烈な赤い煙が噴き出す。周囲の客が悲鳴を上げ、視界が一瞬だけ遮られた。 ティナの姿が消える。 「私の心を勝手に触るなら――」 声だけが霧と煙の向こうから響いた。 「その手、切っちゃうね」 シノメは即座に傘を閉じ、身体の前で回転させた。 金属製の骨組みに小刀がぶつかり、甲高い音が響く。ティナは背後から首筋を狙っていた。しかし刃は傘に阻まれ、少女の身体が反動で宙を舞う。 ティナは空中で身体をひねり、魚市場の屋台の上へ着地した。 「避けたんだ」 「喧嘩を売る相手を、間違えてはいけませんよ」 シノメの足元から白い霧が広がった。 「あなたが望むなら、あなたの痛みも眠らせて差し上げます」 「それ、降参しろってこと?」 「争う必要はありません」 「じゃあ、降参して」 「それはできません」 ティナが笑った。 「じゃあ殺すね」 市場の空気が変わった。 商人たちは商品を抱えて路地へ逃げ、観客たちは安全そうな高台や屋根付きの屋台へ殺到する。誰かが「首切り小刀のティナだ!」と叫び、別の誰かが「灰色傘の魔法少女だ!」と叫んだ。 その声を合図に、二人は同時に動いた。 ティナは屋台を蹴り、宙へ跳ぶ。シノメは傘を開き、霧の壁を作った。 小刀が霧の中へ消える。 シノメは目を閉じた。霧は視界を奪うだけではない。触れた者の感情の輪郭を映す。 怒り。興奮。遊び心。そして殺意。 ティナの殺意は一点に集中していなかった。まるで子供が遊び場を選ぶように、突然あらゆる方向へ跳ねる。 右。 左。 上。 背後。 シノメが傘を横薙ぎに振ると、背後から迫っていたティナの小刀が弾かれた。だがティナは武器を手放し、シノメの腕に毒針を突き立てようとする。 シノメは袖を翻し、針を霧の中へ誘導した。毒針は腕をかすめたが、深くは刺さらない。 「毒ですか」 「ちょっとだけ動けなくなるよ」 「そのようなものを、幼い身で持つものではありません」 「幼いから油断するんでしょ?」 ティナはシノメの懐へ潜り込み、膝裏、脇腹、喉――人体の急所を正確に狙って連撃を放った。 シノメは傘を盾にして受け、後退する。傘の布が裂け、黒い糸が宙に舞う。完全には防ぎきれず、ドレスの肩口が切り裂かれた。 観客から歓声が上がった。 「お嬢様、逃げてばかりだ!」 「暗殺者の勝ちだ!」 シノメはその声を聞き、少し悲しそうに目を伏せた。 「皆様は、争いを見て楽しむのですね」 「見られてる方が悪いんだよ」 ティナは魚籠を蹴り上げた。大量の魚が宙を舞い、ぬめった水が床へ広がる。 その一瞬、シノメの足が滑った。 ティナは逃さなかった。 派手なナイフを正面から投げる。シノメの視線がそちらへ向く。次いでティナ自身が低く滑り込み、死角から首筋へ小刀を走らせた。 しかし、刃が触れる寸前、シノメの身体が霧になった。 小刀は灰色の霞を切り裂いただけだった。 シノメは数歩後ろ、薬品商の屋台の上に立っていた。 「幻惑……」 「落霧の魔法。見えているものが、真実とは限りません」 シノメの周囲に、三人の幻影が現れた。 どれも同じ黒い傘を持ち、同じ灰色の髪をしている。 「でも、幻なら匂いはないよ」 ティナは床を見た。魚の血と薬品の匂いが混ざった市場で、幻影は足跡を残していない。 彼女は一瞬で本体を見抜こうとした。 そのとき、シノメの幻影の一人が微笑んだ。 「正解を探す必要はありません」 「なに?」 「あなたが本物と思ったものが、あなたにとっての本物になるのです」 霧が膨張した。 ティナの視界に、市場が消える。 そこは白い部屋だった。 窓はなく、扉もない。床には小刀が一本置かれている。幼いティナの前に、顔の見えない誰かが立っている。 『殺せば、ひとりにならない』 声がした。 ティナは眉を寄せた。 「こんなの、私の記憶じゃない」 「記憶ではありません。可能性です」 「勝手に作らないでよ!」 ティナは小刀を投げた。白い部屋が裂け、幻惑の霧が乱れる。 だが、その瞬間をシノメは狙っていた。 傘の先端がティナの胸元を打ち、少女の身体が薬品棚へ叩きつけられる。瓶が何本も割れ、青い液体が床を這った。 ティナはすぐに起き上がろうとしたが、足がわずかにふらついた。 「さっきの毒針……」 「完全には避けられませんでしたから」 シノメは静かに歩み寄る。 「もうやめましょう。あなたは十分に傷ついています」 「やだ」 「なぜです?」 「私が負けたら、あなたの霧が私の中に入ってくる」 「癒すだけです」 「それが嫌なの!」 ティナは床に落ちていた小瓶を拾い、シノメへ投げた。シノメが傘で弾くと、小瓶が割れ、青白い炎が噴き上がる。 火が屋台の布へ燃え移った。 市場は一気に騒然となった。 逃げる客、商品を回収しようとする商人、火を消そうとする者。路地が人で塞がれ、二人の間にも何人もの身体が割り込む。 ティナはその混乱を利用し、姿を消した。 「シノメ様、後ろ!」 誰かが叫んだ。 だが、その声も罠だった。 シノメが振り向いた瞬間、ティナは別方向から飛び出し、首ではなく手首を狙った。傘を落とさせるつもりだった。 シノメは寸前で腕を引いたが、小刀が手の甲を裂いた。 赤い血が、霧の中へ落ちる。 「痛い?」 「ええ。痛みはあります」 「じゃあ、もっと痛くするね」 「……あなたは、誰かにそう教えられたのですね」 ティナの動きが止まった。 シノメは続ける。 「傷つけることでしか、そばにいてもらえないと」 「違う」 「ひとりぼっちになるのが怖いのです」 「違う!」 ティナは叫び、ナイフを連続して投げた。一本、二本、三本。派手な刃が火花を散らしながらシノメへ迫る。 シノメは霧を凝縮させ、ナイフの軌道をわずかに歪めた。一本は屋台の柱へ、一本は天井の配管へ、最後の一本はシノメの傘の柄へ刺さった。 「私のこと、分かったみたいに言わないで!」 「分かりたいのです」 「分からなくていい!」 ティナが走った。 その速度は、これまでよりさらに速い。人々の肩、屋台の台、積まれた木箱を足場にして、視界の端から端へ跳ねる。彼女は一瞬たりとも同じ場所にいない。 シノメの霧は感情を捉える。しかしティナの殺意は、無邪気な思考と同じく予測不能だった。 殺す。 逃げる。 遊ぶ。 泣く。 笑う。 そのすべてが同時に存在している。 シノメの頬を小刀がかすめた。 次の一撃は脇腹を狙い、傘で受ける。三撃目は足元。シノメは後ろへ跳んだが、背中が石壁に触れた。 ティナの姿が消える。 音がない。 気配もない。 奥義――【静かな一刺し】。 シノメは、迫る殺意を感じ取れなかった。 ティナは完全に気配を消し、観客の影と商品の山を縫って死角へ回り込んでいた。狙いは首。小刀は正確に急所へ向かう。 その瞬間、ランダムに積み上げられていた鉄箱が崩れ落ちた。 中から、黒い羽根と赤い眼を持つ小型の危険生物が飛び出した。 商品として封じられていた怪鳥だった。 鳥は驚いて甲高く鳴き、周囲の人々へ無差別に襲いかかった。市場は悲鳴と怒号に包まれ、怪鳥の翼が屋台をなぎ倒していく。 ティナの一刺しはわずかに逸れ、シノメの首ではなく肩を深く裂いた。 シノメがよろめく。 怪鳥がその背後を通過し、羽ばたきで霧を吹き散らす。 「……逃げた商品を、放置するわけにはいきませんね」 「今それ言う?」 ティナは怪鳥の爪を跳んで避け、近くの柱へ着地した。 「私はあなたを殺そうとしてるんだよ!」 「ええ。ですが、あの子は怯えています」 シノメは黒い傘を掲げた。 「皆様。どうか、目を閉じてください」 霧が市場全体へ広がった。 それは幻惑の霧ではなかった。 怪鳥の恐怖、怒り、混乱を柔らかく包む癒しの霧。暴れるためだけに羽ばたいていた生物の心から、敵という概念が少しずつ薄れていく。 怪鳥の動きが鈍った。 シノメは霧で作った幻の月明かりを空中に浮かべた。怪鳥はそれを夜空だと思い、翼を畳んでゆっくりと降下する。 商人が投げた網が怪鳥を捕らえた。 市場に、わずかな静けさが戻った。 だがその隙に、ティナはもうシノメの目前にいた。 「優しいね」 小刀が振り上がる。 「だから、隙だらけ」 シノメは避けなかった。 代わりに、霧をティナの周囲へ集中させる。 ティナの眼前に、無数の道が現れた。 右へ行けばシノメの背後。左へ行けば喉元。前へ進めば心臓。退けば安全。 すべてが本物に見える。 ティナは迷わなかった。最も不自然な道を選び、床を蹴る。 しかしそこにいたのは、シノメではなかった。 シノメはティナの背後に立っていた。 「あなたは、正しい道を選ぶのが得意ですね」 ティナが振り返る。 遅い。 シノメの傘の柄が、ティナの手首を打った。小刀が落ちる。続けて傘の先が膝裏を払った。ティナは床へ倒れ込む。 それでも少女は転がりながら袖から毒針を取り出した。 シノメの足首へ向けて投げる。 霧が針を包み、その軌道を曲げた。毒針はシノメの脇を通り、木箱へ突き刺さる。 ティナは落ちた小刀へ手を伸ばした。 だが、シノメが先に踏み止める。 黒い靴の下で、刃が動かなくなった。 「終わりです」 「やだ」 「あなたはもう、立てません」 「やだ!」 「殺す必要はありません」 「負けたくない!」 ティナは拳でシノメの足を殴った。何度も、何度も。幼い手が赤く腫れていく。 「負けたら、ひとりになる!」 その叫びは、初めて殺意ではなかった。 シノメは目を細めた。 「……負けても、ひとりにはなりません」 「嘘」 「私は、あなたを置いていきません」 「嘘だ!」 ティナが最後の力でシノメの腕へ飛びかかった。 シノメは傘を開き、霧を円形に広げた。霧はティナの手足を柔らかく包み、力を奪う。癒しの霧は傷を治すだけではない。張り詰めた神経を緩め、過剰な恐怖と殺意を眠らせることもできる。 ティナの身体から力が抜けた。 小刀が床へ落ちる。 「皆様……私と共に霧へ心を委ねましょう……」 ティナの視界が白くなる。 その中で、誰かの手が自分の手を握っていた。 温かい手だった。 ティナはそれを振り払おうとしたが、もう動けなかった。 「……殺さないの?」 「殺しません」 「私、あなたの首を狙ったのに」 「ええ」 「何度も」 「ええ」 「じゃあ、なんで?」 シノメは血の流れる肩を押さえながら、静かに答えた。 「苦しむ人を、これ以上増やしたくないからです」 ティナはしばらく黙っていた。 やがて、緑の瞳から一粒だけ涙が落ちる。 「……私、ひとりでも平気だよ」 「そうでしょうね」 「本当に平気」 「ええ」 「……でも、少しだけ、ここにいて」 「はい」 シノメは霧を薄めた。 市場には、壊れた屋台、散らばった魚、割れた薬瓶、倒れた柱が残っていた。商人たちは怒鳴り合い、観客たちは興奮した様子で戦いの結末を語っている。 怪鳥は網の中で眠り、ティナはシノメの霧に包まれて横たわっていた。 勝者は、雨ヶ原シノメ。 敗者は、ひとりぼっちの暗殺者ティナ。 だが、その勝利に処刑台の呪いは発動しなかった。 シノメは敗者ではなかったからだ。 それでも、彼女は勝利の喜びを見せなかった。傷ついた市場の人々へ霧を分け与え、怪我をした商人の痛みを和らげ、怯えた怪鳥を静かに眠らせた。 やがてティナが目を覚ます。 「……まだいる?」 「おります」 「逃げない?」 「あなたが望まない限りは」 ティナは目をそらした。 「じゃあ、次は殺さないで勝つ方法を考える」 「それは、よい心がけです」 「でも次は勝つからね」 「ええ。楽しみにしています」 シノメは黒い傘を開いた。 市場の喧騒の上に、淡い霧が降りる。壊れた屋台も、怯えた人々も、泣いていた幼い暗殺者も、その霧の中ではほんの少しだけ穏やかに見えた。 「皆様。今夜だけは、どうか安らかな夢を……」 ティナはその隣を歩き始めた。 ひとりではなく、ほんの一歩分だけ離れて。 裏市場は再び騒がしさを取り戻していった。だが、その一角には、霧の余韻と、二人の少女が残した静かな決着だけが長く漂っていた。