昼とも夜ともつかない巨大裏市場――《無明市》は、常に人で溢れていた。 天井を覆う鉄骨の隙間からは、赤や青の魔導灯が不規則に明滅している。違法な薬品、異世界の銃器、呪われた美術品、密輸された魔獣の卵。情報屋が耳打ちし、賞金稼ぎが値踏みし、怪しい商人たちが客を呼び込む。 その一角、古びた楽器屋の前を、黒髪のシスターが静かに歩いていた。 アテナ・ナイトユベル。 緑の瞳は穏やかだったが、周囲の気配を一つ残らず拾っている。背にはオリファルコンの細剣。腰には二挺のリボルバー。修道服の裾が人混みに紛れ、彼女の存在そのものが薄れていた。 彼女が足を止めたのは、薬品商の屋台の前だった。 「……この瓶、封印が甘いですね」 棚に並ぶ毒薬を見て、アテナが小さく呟く。 その隣で、黒い手袋をした男が振り返った。 白髪交じりの髪。整えられた髭。仕立ての良い外套。物腰は柔らかく、医師にもホテル経営者にも見える。 H・H・デュパン。 彼は市場にいるはずのない上流階級の紳士だった。 「ほう。毒の知識がおありかな、シスター」 「多少は。あなたの服からも、病院で使う消毒薬とは違う匂いがします」 デュパンの笑みがわずかに固まった。 アテナは瓶の並びを見ていた。だが、精神魔法を使うまでもない。彼の指先には、ごく微かな薬品の染みがあり、袖口にはホテルの鍵を思わせる金属粉が付着している。 「医者であれば、患者を救う匂いがするものですが」 「……何が言いたい?」 「あなたの匂いは、閉じ込めた人間が死ぬ直前の部屋に残るものです」 周囲の喧騒が、ほんの一瞬だけ遠のいた。 デュパンは笑った。 今度の笑みには、紳士の仮面がなかった。 「訂正しよう。君は、無礼なだけでなく、非常に不愉快だ」 彼は屋台の上に置かれた瓶を一本、指先で弾いた。瓶は宙で止まり、黒い霧を噴き出す。 薬品商が悲鳴を上げ、客たちが後ずさった。 「私の仕事場を嗅ぎ回る人間は嫌いでね。まして、私の作品を侮辱する者は――」 デュパンの背後に、黒い扉が現れた。 「ホテルに招待して、二度と外へ出さないことにしている」 アテナは霧を見つめた。毒性を察知したが、身体への影響はない。それでも彼女はすぐに剣を抜かなかった。 「突然喧嘩を売るなんて。ホテル経営者は、客への礼儀を知らないのですか?」 「客ではない。被験者だ」 「では、お断りします」 アテナは一歩下がり、薬品商の屋台を盾にした。 「それと、あなたのホテルは趣味が悪そうです」 デュパンの眉が跳ね上がった。 「……趣味が悪い?」 「絶対に壊れない建物というのは、建築物ではなく、ただの執着です」 その言葉が、彼の逆鱗に触れた。 「黙れッ!」 怒声と同時に、黒い扉が何十枚も市場の各所に出現した。 扉が一斉に開き、見えない廊下が屋台と建物の間を縫うように伸びる。床が歪み、商人たちの荷車が別の場所へ滑っていった。 アテナの背後にも扉が開く。 中から白い霧が流れ出した。 「君は私のホテルに泊まる。料金は――命だ」 アテナは細剣を抜いた。刃が緑白色の光を帯びる。 「予約をしていません」 次の瞬間、彼女の姿が消えた。 気配遮断。 デュパンの視界からアテナが失われた。だが、彼は慌てず、指を鳴らす。市場の壁、屋台の天幕、積み上げられた木箱に、無数の鍵穴が浮かんだ。 「姿を消す程度で、私のホテルから逃げられると思うな」 鍵穴から鎖が飛び出す。 アテナは魚屋の看板を蹴り、空中で身体をひねった。鎖が看板を貫き、魚の入った桶が弾ける。水と鱗が路地に散乱し、客たちが一斉に逃げ出した。 彼女は屋根へ跳び、リボルバーを抜く。 銃弾はデュパンではなく、彼の周囲に浮かぶ鍵穴へ撃ち込まれた。 弾丸が光の錬金術によって三つに分裂し、鍵穴の奥へ消える。 直後、離れた場所の扉が爆発した。 「建物を壊すつもりか!」 「いいえ。あなたの魔法の接続先を調べています」 アテナは撃ち込んだ弾丸を媒介に、精霊術を流し込んでいた。光の精霊が扉の構造を読み取り、ホテルと市場の空間がどこで繋がっているのかを可視化する。 デュパンは片手を上げた。 市場の奥にあった古いホテルの模型が、巨大化して立ち上がった。屋台を押し潰しながら、石造りの外壁が地面からせり上がる。 絶対に壊れないホテル。 それは一棟の建物ではなかった。市場そのものを飲み込むように拡張する、閉鎖空間の魔法だった。 「このホテルは、私の意思が続く限り無傷だ。剣も銃も魔法も、すべて壁に吸収される」 「なら、壁を攻撃しなければいい」 アテナは屋台から飛び降り、床へ細剣を突き立てた。 刃から光の紋章が広がる。ホテルの外壁ではなく、床を流れる魔力の経路を照らし出した。 ホテルが壊れないのは、建物そのものが強いからではない。破壊の因果を、デュパンの魔力核へ転送しているからだ。 「なるほど……建築魔法に見せかけて、実態は身代わり構造ですか」 「知ったところで、どうする?」 「あなたを攻撃します」 「同じことだ!」 デュパンが手を握る。 アテナの周囲に客室の壁が出現し、四方を塞いだ。壁の隙間から毒ガスが吹き出す。だが、アテナの身体には毒も魔法も通じない。彼女は顔色一つ変えず、剣を振るった。 オリファルコンの刃が壁を斬るのではなく、壁に刻まれた「閉じ込める」という性質だけを切断した。 壁がただの光となって崩れ、閉じ込められていた市場の客たちが転がり出る。 「貴様……私のホテルを侮辱するな!」 デュパンは怒りに任せ、ホテルの廊下を一気に延長した。彼の周囲から無数の扉が開く。扉の向こうには、ベッド、拘束具、薬品棚、そして誰かが残した血痕が見えた。 観客たちは恐怖に凍りつく。 アテナの緑眼が、初めて冷たく細められた。 「……あなたは、本当に救いようがない」 精神魔法が放たれた。 デュパンの記憶が、本人の許可なく開かれる。 病院の地下。ホテルの密室。笑顔で契約書に署名する富裕客。眠らせた患者。毒ガスの試験。命乞いをする声。 アテナはそれらを見た。 デュパンもまた、自分の記憶が市場全体に映し出されたことに気づいた。魔導灯が一斉に映写装置へ変わり、彼の殺人記録が壁一面に投影される。 観客たちから怒号が上がった。 「こいつ、連続殺人犯だ!」 「賞金首のデュパンか!」 デュパンは頭を押さえた。 「やめろ……私の作品を、下等な群衆に見せるな!」 「あなたが隠していたものです。見られて困るなら、最初から殺さなければよかった」 「黙れッ!」 ホテル全体が震え、床が大きく傾いた。 そのとき、ランダムな異変が起きた。 市場の奥から、巨大な鉄籠が跳ね飛んできた。 籠の中に入っていたのは、密輸品の魔獣――全身を黒い甲殻で覆った、六本脚の《喰壁獣》だった。 アテナの精神魔法とデュパンのホテル魔法がぶつかった衝撃で、籠の封印が破れたのである。 魔獣は咆哮し、近くの屋台を食いちぎった。観客たちは逃げ惑い、戦場は一気に狭くなった。逃げ場を失った人々が市場中央へ押し寄せ、積み上げられた荷物が崩れていく。 「これはあなたの招待客ですか?」 アテナが尋ねる。 「私の責任ではない!」 「市場で暴れさせた時点で、あなたの責任です」 喰壁獣が二人へ突進した。 デュパンは即座に扉を開き、自分だけを別の廊下へ転移させた。魔獣はそのままアテナへ迫る。 アテナは逃げなかった。 リボルバーを左右に構え、魔獣の脚の関節へ撃ち込む。弾丸は光の錬金術で細い鎖へ変質し、六本の脚を絡め取った。 しかし魔獣は鎖ごと屋台を引きずり、アテナを壁へ叩きつけようとした。 彼女は細剣を地面に突き立て、精霊術で周囲の金属を集めた。壊れた看板、鉄鍋、銃器の部品、荷車の車輪が宙に浮かび、魔獣の周囲を螺旋状に回る。 「動きを止めます」 金属の輪が魔獣を締め上げた。 その隙に、デュパンが背後から現れる。 「見事だ。だが、怪物に構っている間に――」 彼の手には、黒い鍵が握られていた。 鍵が回ると、アテナの足元に客室の床が出現した。床から無数の手が伸び、彼女の身体を掴もうとする。 アテナは右手のリボルバーを捨て、デュパンの目を見た。 「あなたは、他人を閉じ込めることしかできない」 「何だと?」 「自分の恐怖も、罪悪感も、孤独も。全部ホテルの部屋に押し込めて、鍵をかけている」 精神魔法が再び侵入した。 今度は記憶を暴くだけではない。 デュパンが最も奥に隠していた記憶――幼少期、誰にも認められず、病院の倉庫に閉じ込められた夜。外では家族が食事をし、彼だけが暗闇に置き去りにされた記憶――を引きずり出した。 デュパンの顔から血の気が引いた。 「やめろ……それは、私の部屋だ……」 「ええ。だから、あなたは一生そこから出られない」 「違う! 私が閉じ込める側だ! 私にはホテルがある! 誰も私を捨てられない!」 彼が叫ぶと、ホテルがさらに巨大化した。 だが、魔力の制御が乱れた。 絶対に壊れないホテルは、破壊の因果をデュパンへ送る構造だ。精神を乱され、魔法の接続が不安定になれば、建物の損傷が一斉に術者へ返ってくる。 アテナはそれを見逃さなかった。 彼女はホテルの壁を斬らず、床に浮かぶ魔力の線を撃った。 一発。 二発。 三発。 銃弾が魔力経路を正確に貫き、光の錬金術で「返還」の性質を「循環」へ書き換える。 デュパンが驚愕した。 「何をした……?」 「あなたのホテルの力を、あなたの外へ逃がしただけです」 ホテルに蓄積されていた破壊の因果が、デュパン一人へ集中しなくなった。代わりに、それは市場の空間を循環し、ホテルそのものの境界を曖昧にしていく。 壁と壁の間に隙間が生まれ、閉ざされた客室が市場の路地へ繋がった。 逃げ道が開き、観客たちが一斉に脱出する。 喰壁獣もまた、開いた路地へ誘導され、アテナが放った光の鎖によって外側の檻へ押し戻された。 「貴様は……私のホテルを、ただの建物にした!」 デュパンが懐から注射器を取り出した。透明な液体が黒く泡立っている。 「ならば、医者として君を処置する」 彼は自分の腕へ薬液を注入した。 筋肉が膨張し、皮膚に黒い紋様が走る。毒と魔力を自らに取り込み、彼は獣のような速度で突進した。 アテナは剣で受ける。衝撃で足元の石畳が砕け、周囲の瓶や金属製品が飛び散った。 デュパンは拳を振るい、アテナは身を沈めて避ける。二人は屋台の間を駆け、倒れた柱を踏み台にし、看板の上で交差した。 デュパンの爪がアテナの頬をかすめる。 しかし傷は一瞬で消えた。 「効かない……?」 「魔法も能力も、物理攻撃も。最初に説明したでしょう」 アテナはデュパンの懐へ入り、柄でみぞおちを打った。 デュパンがよろめく。 「それでも、殴る必要はあります」 続けざまに、肘、膝、足払い。世界トップクラスの剣術を支える闘技が、狭い路地で遺憾なく発揮される。デュパンは屋台の柱へ叩きつけられ、天井から落ちた布に絡め取られた。 彼は最後の力で黒い扉を開く。 「私のホテルへ……来い……! 永遠に、君だけの部屋を用意してやる!」 扉の向こうには、果てのない廊下が広がっていた。無数の客室の扉が並び、そのすべてにアテナの名前が刻まれている。 アテナは扉の前に立った。 そして、剣を鞘へ収めた。 「あなたは勘違いしています」 「何を……」 「私は、あなたのホテルに入るのではありません」 彼女は扉の枠へ指を触れた。 光の錬金術が走る。 「あなた自身を、ホテルから追い出します」 魔力構造の中心――デュパンとホテルを結ぶ契約が露わになった。アテナはそれを切断する代わりに、精神魔法で契約の意味を書き換えた。 《ホテルは所有者を宿泊客として扱う》。 デュパンの顔が歪む。 「やめろ……やめろおおおおおおッ!」 ホテルの廊下が一斉に彼へ向かって折れ曲がった。 壁、床、天井、扉。すべてが彼を押し包み、デュパンを一つの客室へ押し込んでいく。彼は扉に爪を立て、狂ったように叫んだ。 「私は支配者だ! 客ではない! 私のホテルだぞ!」 「いいえ」 アテナは扉の外側から、静かに鍵を回した。 「今日からあなたは、最初の宿泊客です」 扉が閉じた。 市場に残っていたホテルの外壁が、音もなく消えていく。残ったのは、崩れた屋台、割れた瓶、散乱した商品、そして一枚の黒い鍵だけだった。 鍵は床に落ち、二度と動かなかった。 観客たちは遠巻きにアテナを見ていた。恐怖と安堵が入り混じったざわめきが広がる。 やがて、誰かが拍手をした。 別の誰かが賞金首の名を叫び、情報屋たちは一斉に駆け出していく。市場の商人たちは壊れた屋台を見て頭を抱え、魔獣の檻を管理していた男は逃げようとしたところを賞金稼ぎに捕らえられた。 アテナは散らばった荷物の中から、自分が最初に見ていた毒薬の瓶を拾った。 「……封印、本当に甘いですね」 彼女は光の錬金術で瓶を修復し、薬品商へ返した。 そのとき、閉ざされたはずの黒い扉の向こうから、かすかな声がした。 「待て……アテナ……。私は必ず……」 アテナは扉を見つめる。 「反省するまで、チェックアウトは認めません」 彼女が背を向けると、黒い扉は市場の雑踏に溶けるように消えた。 デュパンは死ななかった。 だが、永遠に壊れないホテルの、永遠に閉じた一室に閉じ込められた。そこでは毒ガスも拘束具も必要ない。彼自身の記憶と、誰にも届かない叫びだけが、彼を迎え続ける。 アテナは騒がしい市場を歩き出した。 次元移動の光が足元に広がる。 背後では、壊れた屋台を立て直す商人たちの怒鳴り声と、賞金稼ぎたちの笑い声が響いていた。 無明市は、いつものように人で賑わっている。 ただ一つ、裏市場の片隅に、誰にも泊まれないホテルの鍵だけが残っていた。