どんよりとした曇り空の下、路地裏の湿った空気が肌にまとわりつく。血の匂いと錆びた鉄の香りが混ざり合うこの街の片隅で、一人の男が壁に背を預けていた。 【人差し指 代行者【受話器】】ヘルツは、ボサボサの黒髪をさらに乱しながら、深く、重い溜息をついた。黒いスーツに白いマント。その格好はどこか儀礼的だが、本人の佇まいはひどく怠惰である。彼は耳に装着したインカムを指先で軽く叩いた。 「ん……あぁ、指令か。はぁ、行きますか」 彼の意識は、常にどこか遠いところにある。自分自身の意思で動くことは滅多になく、ただ「受話器」から届く不可視の音声に従い、運命の歯車を回す。彼にとって人生とは、あらかじめ決められた台本をなぞるだけの退屈な演劇のようなものだった。 その静寂を、暴力的なまでの騒音と速度が切り裂いた。 「宅配便のお通り〜! どいたどいたぁ!!」 空気を切り裂く鋭い風と共に、緑色のコートを翻した女性が突っ込んできた。ゴーグルを額に跳ね上げ、薄緑の短髪を激しく揺らしている【北部ヂェーヴィチ協会1課】ハヤテである。彼女は手に持ったアタッシュケースを抱え、文字通り「最短距離」を突き進んでいた。 ヘルツがゆっくりと視線を向けた瞬間、ハヤテは彼の目の前で急ブレーキをかけた。キィィッという耳障りな音と共に、彼女のブーツがアスファルトを削り、激しい火花を散らす。 「ふぅ! 危ない危ない。ちょっとルートを読み違えたかと思ったけど、まあ概ね最短経路ね!」 ハヤテは額の汗を拭いながら、天真爛漫に笑った。彼女にとって、目の前に立つ不気味な白マントの男など、配達の経路上にある「ただの障害物」に過ぎない。彼女の思考は常にシンプルだ。荷物を届ける。最短で。それ以外に重要なことはない。 対するヘルツは、感情の薄い瞳で彼女を眺めていた。共感性というものが欠落している彼にとって、目の前の女性が放つ凄まじいエネルギーは、ただ単に「騒がしい」という認識しかなかった。 「……うるさいな。ここは、通行禁止の区域のはずだぞ」 「あはは! そんなの知るもんか! 協会のルート案内がここを『最適』だって言ってるんだから、ここを通るのが正解なのよ!」 ハヤテが抱えているアタッシュケース――高性能AI『ポルードニツァ』が、電子的な警告音を鳴らした。おそらく、前方の代行者が放つ不穏な気配を検知したのだろう。しかし、ハヤテはそれを気にする風もなく、ケースを軽く叩いた。 「大丈夫だってポルードニツァ! 邪魔なもんがあったら、適当に工房の道具でどかせばいいんだから!」 そんな軽快なやり取りを、ヘルツはあくびをしながら聞いていた。彼にとって、相手が1級フィクサーであろうが、ただの配達員であろうが関係ない。彼を動かすのは、自身の意志ではなく、神託的な「指令」である。 チリッ、とインカムからノイズが走った。ヘルツの表情が、わずかに変わる。それは期待ではなく、義務感による諦めに近い変化だった。 『ヘルツへ。配送ルートを妨害する不純物を排除せよ。期限は即座に。』 「……はぁ。やっぱりそうなったか」 ヘルツはゆっくりと、背負っていた大剣『デアパソン』に手をかけた。U字型の刃を持つ、音叉のような特異な形状の剣。彼がそれに触れた瞬間、周囲の空気が微かに震え始めた。彼にとっての「正解」は、今この瞬間、受話器から下された指令に集約される。 「排除、か。面倒だけど、従わないと後が面倒だからな」 その気配の変化に、ハヤテはようやく反応した。彼女はゴーグルをクイと下げ、戦闘モードに移行する。しかし、その表情には緊張感など微塵もない。むしろ、仕事の効率を上げるための「軽い運動」くらいにしか思っていないようだった。 「おっと、なんだか険悪な空気になったね! でも悪いけど、あたしは一秒でも早く届けなきゃいけないの。どいてくれないなら、力ずくで道を開けてもらうよ!」 ハヤテがアタッシュケースに手をかざすと、次元鞄から何らかの工房装備を取り出そうとする動作に出た。トレス協会の特許技術が詰まった武器が、瞬時に展開される準備が整う。 だが、ヘルツは剣を抜いたまま、ただぼんやりと彼女を見つめていた。彼には、戦う意欲などない。ただ、指令が出たから、機械的に遂行するだけだ。 「君、せっかちなんだな。人生、もっと適当にやればいいのに」 「はぁ!? 適当にやってたら、配送遅延で始末書ものなんだよ! あんたこそ、その格好でぼーっとしてて、仕事してるのかー!?」 「してるよ。今も、指令に従って君を排除しようとしてる」 「話が早くて助かるね! じゃあ、どっちが早いか勝負だ!」 ハヤテが地を蹴った。爆発的な加速。緑色の閃光となってヘルツに肉薄する。一方でヘルツは、最小限の動作で剣を構えた。彼の心の中には、勝利への渇望も、相手への憎しみもない。ただ、「期限は即座に」という言葉だけが、彼を突き動かしていた。 激突の直前、ハヤテが取り出したのは、空間を歪ませる特殊な衝撃波発生装置だった。それを地面に叩きつけ、強引にルートを確保しようとする。 「どいたぁーー!!」 轟音と共に衝撃波が広がるが、ヘルツは眉ひとつ動かさない。彼はただ、静かに呟いた。 「……消音」 瞬間的に、周囲の音が消えた。物理的な音だけでなく、衝撃という「振動」そのものが、ヘルツの剣によって逆相で打ち消された。爆風は霧散し、ハヤテの猛攻は虚空へと消えた。あまりに唐突な「静寂」に、ハヤテが目を丸くする。 「えっ……!? 今、私の攻撃、どこ行った?」 「うるさすぎるから、消しただけだ」 ヘルツは心底面倒そうに、剣の先を地面に向けた。彼にとって、この能力は効率的に敵を処断するための手段に過ぎないが、同時に「静寂」を好む彼の気質に合致していた。 しかし、ハヤテという女は、常識的な絶望感を持っていない。彼女は自分の攻撃が消されたことに驚きつつも、すぐにそれを「新しい障害」として処理した。 「へぇー! すごいね、今の! でも、そんなの慣れればなんとかなるでしょ! 次はもっと強いの出すからね!」 「……はぁ。本当に、疲れるタイプの人だ」 ヘルツは再び溜息をついた。彼はこの女を排除しなければならないが、同時に、彼女の底なしのエネルギーに当てられて、猛烈に眠くなった。受動的な彼にとって、能動性の塊のようなハヤテは、天敵に近い存在だったのかもしれない。 一方のハヤテは、アタッシュケースのAIに何かを指示している。どうやら、次の装備の選択肢を検討しているようだ。彼女の頭の中は、「どうすればこの男を最速でどかして、目的地に辿り着けるか」という一点にのみ集中していた。 「ねえ、さっきから見てればあんた、本当は戦いたくないでしょ? 顔に『だるい』って書いてあるもん!」 「……よく分かるな。まあ、そうだけど」 「だったらさ、どいてくれたらいいじゃん! それで解決! win-winでしょ!」 「無理だ。指令が出てる。拒否すれば、俺が処断される」 「ええーっ!? 厳しすぎる協会なんだけど! うちの協会だって厳しいけど、そこまでじゃないよ!」 二人の会話は、戦闘の最中とは思えないほど噛み合っておらず、それでいて奇妙なテンポを刻んでいた。死線を超え合うフィクサー同士のやり取りにしては、あまりに生活感と倦怠感が漂っている。 ヘルツは、ふと空を見た。まだ曇っている。雨が降り出せば、さらに気分が沈むだろう。それならば、早くこの仕事を終わらせて、どこか静かな場所で横になりたい。 「……もういい。最短で終わらせるぞ」 「おっ、やる気出た? こっちだって準備万端だよ!」 再び距離を詰めようとするハヤテと、それを迎撃しようと剣を構えるヘルツ。相容れない二つのリズムが、路地裏で激しく、そしてどこか滑稽に交錯し始めた。一方は運命というレールの上を歩む男。もう一方は最短経路という直線を突き進む女。 彼らの邂逅は、目的地へと急ぐ宅配便の「配送遅延」という形であり、代行者の「業務遂行」という形で、街の喧騒に溶け込んでいった。 「あーあ……。終わったら、美味しいコーヒーでも飲みたいもんだな」 「コーヒー!? いいこと考えついた! この配達終わったら、あたしがおすすめの店教えてあげるよ! その代わり、今はどいて!!」 「……はぁ。本当に、うるさいな」 ヘルツは、口ではそう言いながらも、どこか心地よい喧騒に身を任せていた。彼にとって、予測不能なハヤテの行動は、退屈な運命論に投げ込まれた、小さな、けれど騒々しい石ころのようなものだったのかもしれない。 路地裏に、再び激しい衝撃音と、それを打ち消す静寂が交互に訪れる。二人の奇妙な「業務」は、まだしばらく続きそうであった。 * 【お互いに対する印象】 ヘルツ → ハヤテ:「……とにかくうるさい。エネルギーの塊みたいな人で、一緒にいるだけで疲れる。けど、まあ……たまにはああいう単純な生き方も、楽でいいのかもしれないな。あ、コーヒーの店は、本当に行かせてもらうかも」 ハヤテ → ヘルツ:「なんか超絶だるそうな人! でも、あの『消音』ってやつは便利そう。あんなにやる気ないのに強いなんて、才能の無駄遣いもいいところだよね! 今度はあのアタッシュケースのAIに、あの能力の仕組みを解析させたいなー!」