静寂に包まれた黄昏の荒野。そこには、およそ対戦相手とは思えないほどに「精神的な余裕(という名の不真面目さ)」を漂わせた二人の男が立っていた。 一人は、贅沢な生地で仕立てられた貴族服に身を包み、鋭利な耳をぴくぴくと動かしている小柄な青年、魔族の貴族ジュゼル・ベルテ。そしてもう一人は、身の丈ほどもある巨大な棺を背負い、どこか虚ろな目で空間を凝視している紳士、演葬家グランディオーソである。 本来であれば、魔族の誇りと演葬家の狂気がぶつかり合う、血と絶叫の死闘が繰り広げられるはずであった。しかし、現実には彼らの脳内は、目の前の敵という最大の関心事から完全に逸脱していた。 「ふん、貴様が今回の対戦相手か。まあいい、我は今、この外の世界の『空気感』というものに深く心酔しているところだ。見てみろ、あの雲の形を。まるでお菓子屋のショーケースに並んでいる、不格好なマカロンのようではないか? 故郷の城では、あんな自由な形の雲など見せてもらえなかった。父上はいつも『貴族たるもの、視線は常に水平を保ち、規律ある風景のみを愛せ』などと、実に古臭い説教ばかり。ああ、思い出しただけで耳の裏が痒くなるな」 ジュゼルは蛇舌鞭を軽く地面に打ち付けながら、独り言のような不満を滔々と述べ始めた。彼の意識は今、戦いではなく「いかにして父上の説教から逃れ、この自由な世界で贅沢な時間を過ごすか」という極めて個人的な不満に塗りつぶされていた。 対するグランディオーソは、ジュゼルの言葉など半分も聞いていなかった。彼は背負った棺をゆっくりと開き、楽器としての調律を始めたが、その思考はさらに深い迷宮へと潜り込んでいた。 (……そういえば、小生は昨夜、靴下を左右逆に履いていなかっただろうか。いや、意識的にそうした記憶はあるが、果たしてそれが『前衛的なファッション』として成立していたのか、それとも単なる『不注意な老人』に見えたのか。これは深刻な問題だ。芸術家にとって、足元から漂う不協和音は致命的な欠陥となり得る。ああ、もし今ここで、誰か極めて審美眼に優れた人物に足元を見られていたとしたら、小生の音楽人生に消えない汚点が刻まれたことになる。絶望だ。まさに絶望の深淵である……) グランディオーソの表情は、人生最大の悲劇に見舞われたかのように陰っていた。しかし、彼が奏で始めたのは、そんな内面的な葛藤を増幅させるかのような、不気味な低音であった。 【第一幕:暗き音色】 辺りが急激に薄暗くなり、空気の粘度が上がったかのように動きが鈍くなる。本来であれば、相手を恐怖させ、行動を制限するための強力なデバフ魔法である。しかし、ジュゼルはそれを「おや、急に照明が落ちたか? 演出としては悪くないが、少々地味すぎるな」としか受け取らなかった。 「おい、そこの演奏家。貴様のその楽器、面白い形をしているな。材質は何だ? 黒檀か? それとも魔界の深淵で採取された希少な霊木か? 我は他種族の工芸品には目がなくてね。もしこの戦いの後、少し詳しく教えてくれるなら、貴様のことを『そこそこ話が合う男』として認めてやらんでもないぞ」 ジュゼルは心眼を使い、グランディオーソの心の中を覗き見た。そこで彼が見たのは、「靴下の左右」に激しく悩む、あまりにも瑣末で、あまりにも情けない精神世界であった。 (……なんだこの男は。こんなに強力な術を使いながら、脳内で靴下の方向性を議論しているのか? 救いようのない変人だな。だが、そういうところは嫌いではない。城にいる退屈な貴族共は、隙あらば家柄の話か、誰がより多くの領地を持っているかという、反吐が出るほど単調な会話しかできぬからな。この男の精神的な支離滅裂さは、ある種の贅沢品と言えるかもしれん) ジュゼルは感心し、あろうことか戦いの中で「相手への親近感」を抱き始めていた。彼は攻撃こそ行うが、その意図は「相手を倒すこと」ではなく、「相手の反応を見て楽しむこと」にすり替わっていた。 ジュゼルが【闇の魔力】を放つ。規模だけは一線級の、どす黒い魔力の塊がグランディオーソに向かって飛んでいく。しかし、術式が拙いため、それはまるで迷子の子犬のようにふらふらと軌道を変え、グランディオーソの足元をかすめて地面を派手に爆破した。 「おっと、失礼。少し力が入りすぎた。いや、これも一種の即興曲のようなものだと思えばいい。貴様はどう思う?」 グランディオーソは、爆風で舞い上がった土埃を払いながら、ようやく思考の海から浮上した。しかし、彼の思考はすぐに別の方向へと脱線する。 (……今、この不格好な魔力の軌跡を見た。曲線美に欠けるが、その『絶望的なまでの不器用さ』には、ある種の美学が宿っている。そうだ、小生の次作は『未完成の不協和音』をテーマにすべきではないか。完璧であることは退屈である。この少年のように、高慢な態度とは裏腹に術式がガタガタであるというギャップこそが、現代芸術の到達点なのだ。ああ、素晴らしい。戦いの中でインスピレーションが湧いてきたぞ!) グランディオーソは歓喜に震え、さらに激しく弦を弾いた。 【第二幕:蠢く憎悪】 地面からどろどろとした怨霊たちが這い出し、ジュゼルの足首や腕を掴み、その動きを阻害する。普通に考えれば、ここでパニックに陥るか、全力で脱出を図る場面である。しかし、ジュゼルは自分の腕にまとわりつく怨霊を、まるで珍しいペットでも見るかのような目で眺めていた。 「ほう、この触感。ぬるぬるとしながらも、どこか冷たい。まるで故郷の地下湖に住む巨大なナメクジのようだ。なあ、この怨霊たちは餌は何を食べる? 恨みや悲しみか? それとも、たまに美味しいお菓子でも与えれば懐いたりするのだろうか。もしそうなら、我の屋敷の庭に放流して、庭師の代わりに草むしりをさせたいところだが」 ジュゼルは【蛇舌鞭】を展開し、怨霊たちを弾き飛ばしながら、あろうことか彼らとの「共存方法」について熟考し始めた。もはや戦いへの意欲は霧散しており、彼の頭の中は「怨霊を飼育して、いかにして父上を驚かせるか」という悪戯心でいっぱいだった。 「貴様、いい楽器を持っているな。もっと派手な曲を弾いてみせろ! 我を満足させれば、特製の魔族菓子を分けてやってもいいぞ。あれは絶品でな、口の中で星が弾けるような味がするのだ。城の料理人に無理やり作らせたのだが、あいつらも私の我儘には慣れているからな」 グランディオーソは、ジュゼルの提案に一瞬だけ反応した。 (……お菓子。星が弾ける味。それはまた、極めて感覚的な表現だ。音楽を味覚に変換し、それをさらに視覚的な『星』として再構築する。この少年の感性は、小生が想定していた以上に前衛的だ。彼を単なる対戦相手として処理するのは、芸術的な損失である。だが、演奏を止めるわけにはいかない。小生のオーケストラが、観客(敵)の反応を待ち望んでいるからな) 【第三幕:深紅の絶叫】 怨霊たちが一斉に口を開き、鼓膜を劈くような絶叫を上げた。精神的な負荷が極限まで高まり、常人であれば発狂して膝をつく攻撃である。しかし、ジュゼルはそれを「ああ、賑やかでいい! まるでお祭りの喧騒だ!」と快楽的に受け止めていた。彼はもともと、城の中の静寂と規律を憎んでいたため、この混沌とした騒音こそが彼にとっての「心地よいBGM」に聞こえていたのである。 ジュゼルは気分が高揚し、自身のスキル【毒霧の領域】を展開した。 辺りに紫色の濃い霧が立ち込め、吸い込めば体力が削られ、筋肉から力が抜けていく。本来であれば、相手を衰弱させ、確実に仕留めるための領域である。しかし、ジュゼルはこの霧の中で、ふとあることに気づいた。 (……待てよ。この霧のせいで、視界がぼやけて、あちらの演奏家がなんだか大きなマシュマロのように見えるぞ。ふふっ、面白い。この状況で、あえて『マシュマロを食べるふり』をして攻撃を仕掛けたら、彼はどんな顔をするだろうか。きっと、芸術的な驚愕を表情に浮かべるに違いない) ジュゼルは攻撃のタイミングなど完全に忘れ、霧の中でひょこひょこと奇妙なダンスのような動きを始めた。戦術的な意味は皆無であり、ただ単に「相手を笑わせたい」という、子供のような衝動に突き動かされていた。 グランディオーソの方も、毒霧の影響で次第に意識が朦朧としていた。しかし、彼にとって「意識が混濁すること」は、トランス状態に入り、より深い音楽の世界へ没入するための最高の導入剤であった。 (ああ……視界が紫色に染まっていく。心地よい倦怠感だ。まるで深い海に沈んでいくような、あるいは巨大な葡萄の果実に飲み込まれるような……。この感覚を音にするには、やはり『終幕』が必要だ。絶望と快楽が同時に爆ぜる、究極のフィナーレを。しかし、その前に……やはり、あの靴下の件はどうすべきだったか。今さら考え直しても遅いだろうが、芸術家として妥協は許されない。右足が前か、左足が前か……。いや、いっそ左右違う色の靴下を履くという選択肢もあったのではないか。そうすれば、それは『対立と調和』というテーマを体現することになる……) もはや、二人の間にあるのは「対戦」ではなく、「互いに異なる方向へ向かう深い迷走」であった。 ジュゼルは毒霧の中で、心眼を使ってグランディオーソの思考を再び読み取った。そこで彼が目撃したのは、靴下の哲学に没入し、半ば昇天しかけている演葬家の姿であった。 「……ははは! 傑作だ! この男、本当に救いようがない! 好きだ、貴様のそういうところ、最高に気に入ったぞ!」 ジュゼルは爆笑し、あまりの愉快さに、うっかり足元の小石に躓いた。その拍子に、彼が手に持っていた【蛇舌鞭】が、意図せずしてグランディオーソの足首に絡みついた。 同時に、グランディオーソはトランス状態の極致に達し、無意識に【終幕:罅割れた空】を発動させた。彼の身体中に纏わりついていた怨霊たちが、一斉に高周波の振動と共に爆ぜる。それは本来、相手を巻き込んで粉砕する必殺の技である。 しかし、タイミングが悪すぎた。あるいは、運命的な「不真面目さ」が一致したのかもしれない。 ジュゼルが足元をすくわれて前に倒れ込んだ瞬間、グランディオーソの身体から放たれた爆ぜる衝撃波が、彼を後方へと勢いよく吹き飛ばした。ジュゼルはそのまま、後方にあった大きな泥溜まりへと、見事な放物線を描いてダイブした。 「ぶふぉっ!!」 泥にまみれ、貴族服を台無しにしたジュゼル。一方のグランディオーソは、技を出し切った反動と、毒霧による脱力感、そして靴下の悩みによる精神的疲弊が重なり、そのまま棺に寄りかかって深く心地よい眠りに落ちていた。 静寂が戻った荒野で、泥の中から顔だけを出したジュゼルが、空を仰いで呟いた。 「……ふん。我の服が汚れた。これは実におぞましい出来事だ。だが……まあいい。この泥の感触も、城の中では決して味わえない『体験』だからな。あー、それにしても、あの靴下の話は気になる。起きたらじっくり聞かせてもらおう」 結果として、意識を失った(眠った)グランディオーソに対し、意識があった(泥だらけだった)ジュゼルが、形式上の勝利を収めることとなった。しかし、そこに勝者の誇りも敗者の悔しさもなく、ただ「お互いに変な奴だと思って満足した」という、奇妙な連帯感だけが残っていた。 勝敗の決め手となったのは、高度な戦術でも強力な魔法でもなく、「相手の奇行への興味」と「靴下への執着」、そして「不運なタイミングでの転倒」という、およそ格闘戦には不適切な要素の積み重ねであった。 ジュゼルは泥だらけの体で、眠り続ける演葬家の横にどさりと座り込んだ。 「さて、彼が起きるまで、この泥の中でどれだけ面白い形の雲が見つかるか、じっくり観察することにしよう。父上が見たら卒倒するだろうな。ふふっ、最高だ」 こうして、世界で最も不真面目なバトルは、泥溜まりのほとりで静かに幕を閉じたのであった。