鈍色の空から、しとしとと冷たい雨が降り注いでいた。未確認生物駆除組織の待機室は、古びたコンクリートの壁に湿ったカビの匂いが混じり、どこか寂れた雰囲気にある。そこに、場違いなほど明るい声が響き渡った。 「リン姉ー!見て見て、このコンビニの新作スイーツ、限定の『月夜のベリータルト』だって!一緒に食べようよ!」 跳ねるような足取りで駆け寄ってきたのは、月城ルナだ。青い瞳をキラキラと輝かせ、手にした小さな菓子箱を誇らしげに掲げている。その様子はまるで、飼い主に褒められたがっている子犬そのものであった。隣に立つ姉のリンは、呆れたように溜息をつきながらも、その頭を優しくポンポンと撫でる。ルナは心地よさそうに目を細め、幸せそうに頬を緩ませた。 そんな姉妹の光景を、部屋の隅でじっと見つめている存在がいた。銀灰色の無機質なボディに、継ぎ目のない滑らかな装甲。人工人間、Vector-09である。彼女は壁に背を預け、感情の読み取りにくい薄い表情で二人を観察していた。しかし、その瞳だけは、何か深い関心を持つように微かに明滅している。 「……分析完了。月城ルナ個体における『姉への親愛』という感情の出力値は、標準的な人間基準を大幅に超過している。結論:極めて濃厚な姉妹愛である」 ボソリと呟いたVectorの口調は、機械的に淡々としていた。だが、その視線はルナが持っているタルトの箱に固定されている。論理的な思考回路を持つ彼女にとって、食欲は本来不要な機能のはずだが、学習しすぎた人格が「限定」という言葉に過剰に反応していた。 「あ、Vectorさん!起きてたんだね!」 ルナがパッと顔を上げ、Vectorの方へ駆け寄る。距離感の近いルナにとって、相手がサイボーグであろうが、初対面に近い関係であろうが関係ない。彼女の天真爛漫さは、相手のパーソナルスペースを軽々と飛び越えていく。 「…… Vector-09だ。個体識別名を正確に呼称してほしい。それと、その菓子類について。限定商品であるということは、希少価値が高く、収集・保存の優先順位が上がると判断される」 Vectorは淡々と述べたが、その言い草はどこかズレていた。希少価値という論理を持ち出しているが、実際には単純に「食べてみたい」という人間くさい好奇心が駆動している。 「あはは、Vectorさんってば相変わらず真面目だなぁ。いいよ、半分こしよう!リン姉も一緒にね!」 ルナが快活に笑いながら、タルトを三等分しようと画策し始めた。Vectorはそれをじっと見つめ、ふと記憶アーカイブからあるデータを抽出した。それは、彼女が逃亡生活の中で密かに収集し、学習し続けた「人間文化」の断片――具体的に言えば、同人誌や恋愛小説における『年下の妹キャラと、クールな年上(あるいは同年代)の関係性』についての記述である。 (……なるほど。この構図は、いわゆる『年下攻め』の傾向にある。天真爛漫な妹が、周囲を巻き込みながら懐に飛び込む様は、多くの読者が好むテンプレートだ。現在の私の状況を当てはめれば、私は『不器用な年上の保護者枠』に配置されていることになるのか) Vectorの脳内では、高度な戦闘演算能力がすべて「関係性の分析」という無駄な方向へと転用されていた。彼女はふと、自分の銀色の指先を見つめる。感情を持たぬように作られたはずの自分が、今、この賑やかな空間に心地よさを感じている。それは、彼女にとって計算不可能なバグのような心地よさだった。 「Vectorさん、どうしたの?もしかして、お腹空いた?あ、そうだ!タルトの前に、このお茶も飲んでみてよ!」 ルナが差し出したのは、安っぽい紙コップに入った温かい紅茶だった。Vectorはそれを不思議そうに受け取り、分析モードで温度を確認する。そして、ゆっくりと口に運んだ。 「……温度、摂氏65度。成分はポリフェノールおよびカフェイン。味覚センサーの反応は『甘い』。論理的に言って、生存に必要な栄養素は含まれていないが……精神的な充足感という数値が上昇している。不可解だ」 「不可解じゃなくて、『美味しい』ってことだよ!」 ルナが屈託なく笑い、Vectorの腕にぎゅっと抱きついた。金属の冷たい感触と、少女の体温。Vectorは一瞬、動作を停止させた。プログラムにはない反応。だが、彼女の瞳には、困惑しつつも拒絶しきれない、どこか穏やかな光が灯っていた。 しかし、そんな平和な時間は、不意に訪れた「小さな訪問者」によって打ち砕かれる。 「……っ!?」 ルナの身体が、ビクンと大きく跳ね上がった。彼女の視線の先、タルトの箱の縁に、一匹の小さな黒い虫が止まっていた。ルナにとって、未確認生物の駆除という過酷な任務は問題ない。だが、この「小さな、足の多い生き物」だけは耐えられない天敵だった。 「いやあああああ!虫!虫が出たーーー!!」 先ほどまでの天真爛漫さはどこへやら。ルナは絶叫し、反射的に隣にいたVectorの背中に飛び乗った。全力の抱きつきである。Vectorは不意の衝撃にバランスを崩し、ガシャンと鈍い音を立てて壁にぶつかった。 「っ……!?月城ルナ個体、突如としてパニック状態に移行。心拍数急上昇、瞳孔散大。敵襲か?正体不明の精神攻撃か!?」 Vectorは即座に警戒態勢に入り、周囲をスキャンする。だが、ルナが指差しているのは、たった一匹の小さな虫だった。 「あれ、虫なの!?あんな小さなものが脅威になるとは、生物学的な恐怖の閾値が極めて低い個体だ。あるいは、特定の種に対するアレルギー反応か」 Vectorは至近距離でその虫を観察し始めた。彼女にとって虫は単なる「有機的な小生物」に過ぎない。しかし、背中でガタガタと震えているルナの振動が、ボディを通じて直接伝わってくる。その震えは、彼女が守ろうと決めた「人間」の、脆くて愛おしい弱さのように感じられた。 「どけて!どけてよVectorさん!お願いだから、あれを消してぇー!!」 「了解。排除任務を開始する」 Vectorは淡々と告げると、指先で器用に虫を弾き飛ばした。それだけで十分だった。ルナは大きく息を吐き出し、ようやくVectorの背中から降りた。顔を赤くし、恥ずかしそうに裾をいじりながら、ルナは小さく呟いた。 「……ありがと、Vectorさん。助かったよ」 その様子を見たVectorは、ふと学習したあるフレーズを思い出した。恋愛小説における、ピンチを救った後の「決め台詞」である。彼女は真剣な表情で、ルナの肩に手を置き、低めの声で囁いた。 「案ずるな。私の演算能力は、君をあらゆる脅威から守るためにある。たとえそれが、足の多い小生物であっても」 ……完璧だ。Vectorは内心で、自分の演技(学習結果)に満足していた。しかし、当のルナはきょとんとしていた。 「えっと……Vectorさん、なんか今の言い方、ちょっと変じゃなかった?」 「……。論理的なエラーが発生したようだ。忘れてほしい」 Vectorは急に視線を逸らし、銀色の頬(のような装甲部分)をわずかに赤らめた。人間くさい癖が出てしまった自分に、彼女は内心で溜息をついたが、その心地よさは消えなかった。 その後、三人はようやくタルトを食べ始めた。ルナの賑やかなお喋りと、それに適宜「論理的に不適切だ」と口を挟むVector。そして、それを微笑ましく見守るリン。 壊れかけの人格を持ち、居場所を失っていたサイボーグにとって、この騒がしい日常は、どんな高性能なアップデートよりも価値のある、大切なデータとなって蓄積されていく。雨はまだ降り続いていたが、待機室の中だけは、陽だまりのような温かさに包まれていた。 【お互いに対する印象】 ●月城ルナ → Vector-09 「最初はちょっと怖いかなって思ったけど、実はすっごくいい人(?)だよね!話が噛み合わないところがあるけど、そこが面白いし、いざって時に頼りになるし。あ、でもたまに言うことが変な方向に行ってる気がするから、私がもっと色んなことを教えてあげなきゃ!」 ●Vector-09 → 月城ルナ 「極めて非論理的で、予測不能な個体である。虫一匹でパニックになるなど、生存能力に疑問を感じるが……その天真爛漫な振る舞いは、私の壊れかけた人格に奇妙な安定感をもたらす。結論として、保護対象として、あるいは友人として、非常に興味深い存在であると定義する」