雨上がりの夕暮れ、剛翼同盟の借家には、濡れた石畳から立ちのぼる冷たい匂いが流れ込んでいた。 グリモ=メルラは、古びた窓を細く開けたまま、部屋の中央に積まれた衣服を畳んでいた。黒と赤を基調にしたゴスロリ服は、彼女がなけなしの金を何日もやりくりして買ったものだった。胸元の飾りも、袖口の細かなレースも、決して高価ではない。それでも、鏡に映った自分を見た時だけは、少しだけ背筋を伸ばせる気がした。 頭にはキャベリン。金髪の隙間から覗くその姿は、可憐な服装とはどこかちぐはぐで、けれど彼女自身は気に入っていた。 「……今日だけは、ちゃんと私らしくいられる気がします」 誰に言うでもなく呟き、メルラは小さく笑った。 その笑みは、嬉しい時にも、辛い時にも同じ形をしていた。 背後で扉が開く。 「まだ終わっていないのか、貴様」 不敵な笑みを浮かべた小柄な男が、濡れた外套を脱ぎながら入ってきた。銀髪には雨粒が残り、耳元のピアスが室内の明かりを受けて揺れる。 「す、すみません。すぐに終わらせます」 「謝罪はいい。時間を返せ」 実透遊真は部屋を見回した。机の上には買い出しの品、棚には整えられた薬草、暖炉のそばには修繕途中の鞄。そしてメルラの手元には、丁寧に畳まれた服。 遊真はそれを一瞥し、口元の笑みをわずかに深めた。 「随分と良い物を買ったな」 「は、はい。あの……少しだけ、気分転換にと思いまして」 「気分転換? 我々の財布は気分で軽くしていい物ではないぞ」 「ご、ごめんなさい……」 「だから謝るなと言っている」 言葉だけを見れば冷たい。しかし遊真は、服を取り上げたり、価値を問いただしたりはしなかった。メルラはそのことに気づき、恐る恐る顔を上げる。 「……怒って、いらっしゃらないのですか?」 「怒る理由がない。貴様が必要な物資を勝手に横流ししたわけでもない。自分の取り分で買った物なら、私の損にはならん」 「取り分……」 メルラはその言葉を小さく繰り返した。 剛翼同盟において、物資は常に遊真が管理していた。食料も薬も装備も、各人に必要な分だけが渡される。余分などない。遊真は無駄を嫌い、誰かが欲しいと言ったからといって分け与えることもなかった。 その仕組みは厳しかったが、不思議なことに同盟は長く保たれていた。遊真は六人ほどの仲間を、仲間というより駒として扱っている。だが駒を壊すことはしない。壊れる寸前まで使い、壊れないように最低限を与える。その冷静さが、同盟を形だけでも保っていた。 「……ありがとうございます」 「礼を言われるようなことではない。貴様が自分で稼いだ金を使っただけだ」 「それでも、です」 メルラは笑った。遊真はそれを見て、眉をわずかに寄せた。 あの笑い方を、彼は知っている。 何かを耐えている時の笑い方だ。頼まれた雑務を断れなかった時も、他のメンバーに荷物を押しつけられた時も、深夜に呼び出された後も、メルラは同じように笑う。 笑うことで、壊れていないふりをする。 「今日は何をさせられた」 「え?」 「聞こえなかったか。今日は何を押しつけられた」 「押しつけられたなんて、そんな……少し片付けと、装備の手入れと、薬草の仕分けを。それから夕食の準備です。大したことではありません」 「大したことかどうかを決めるのは貴様ではない。明日の行動に支障が出るか否かだ」 「大丈夫です。私はサポーターですから、皆さんのお役に立たないと……」 「その言葉を、誰に吹き込まれた」 声の温度が下がった。 メルラは手を止める。遊真が怒っているのか、それともただ確認しているだけなのか、彼女には判別できなかった。彼と話す時には、いつも緊張する。視線を合わせるだけで、隠していた考えまで見抜かれそうになるからだ。 けれど、遊真は少なくとも彼女の存在を見ていた。 他の者たちは、彼女を道具としか見ない。荷物を運ぶ手、傷を癒やす手、能力を使うための都合のいい手。遊真だけは、役割の奥にいる彼女へ視線を向けることがあった。 「……誰に、というわけではありません。私が勝手にそう思っているだけです」 「嘘だな」 「すみません」 「またそれか」 遊真は机の上の薬草を一束持ち上げた。乾燥状態を確かめ、すぐに戻す。 「貴様の能力は、雑用をこなす手ではない。使い方を誤れば、我々の戦力そのものを変える。理解しているか」 「でも、私は自分には使えませんから……」 「使えないと決めたのは誰だ」 「……私です」 「ならば、貴様が無知なだけだ」 メルラは俯いた。きつい言い方だったが、不思議と胸を刺さなかった。遊真の言葉はいつも鋭い。けれど、彼は本当に価値がないと思ったものに時間を使わない。 こうして話をしている時点で、彼女はまだ捨てられていない。 その事実に、安堵してしまう自分がいた。 「……私、もっと強くならないといけないのでしょうか」 「当然だ」 即答だった。 「皆さんに、いつも馬鹿にされます。『自分たちがいなければ一人では何もできない』と。武器も、私にはなまくらしか支給されていませんし……」 「それは私の判断だ」 「はい」 「サポーターに大した武器は要らないと思っていた。今まではな」 遊真は椅子に腰を下ろし、長い脚を組んだ。表情にはいつもの余裕がある。しかし、その目はメルラの手元から離れない。 「貴様は自分を過小評価している。周囲もそれに便乗している。愚かな連中だ」 「……リーダーは、皆さんに何も言わないのですね」 「何をだ」 「私を、道具みたいに扱うことです」 「貴様が動けるうちは、使わせておけばいい。非効率ではない」 「そう、ですか」 「ただし、使いものにならなくなるほど働かせるなら話は別だ」 遊真の笑みが、薄く鋭くなる。 「貴様を壊す権利は私にしかない。勝手に壊そうとする者がいれば、こちらで処理する」 恐ろしい言葉だった。 なのにメルラは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じてしまった。守るという言葉ではない。心配しているとも言わない。ただ、使えなくなるなと告げているだけだ。 それでも彼女には、それが優しさに近いものに思えた。 「……ありがとうございます」 「だから礼を言うな。私は損失を避けたいだけだ」 「はい。分かっています」 また、メルラは笑った。 遊真はその笑顔を見つめ、何も言わなかった。 彼女は分かっていない。あるいは、分かっていてそう答えているのかもしれない。遊真がすることは全て利益のためだと、彼女は自分に言い聞かせている。そうでなければ、いつか期待してしまうからだ。 遊真は、期待されることが嫌いだった。 自分が悪であり、優しくない人間だという自覚はある。誰かの命を数え、誰かを駒として並べ、最も得をする順番に動かす。勝つことよりも、次に得られる利益を考える。必要なら、他者の命も自分の命も天秤に乗せる。 それを疑問に思わず生きてきた。 幼い頃の彼がいた場所では、価値だけがすべてだった。食べ物を持つ者が強く、隠れ場所を知る者が上で、役に立たない者はすぐに見捨てられた。誰かと笑い合う日常など知らなかった。優しさは、余裕のある者だけが持つ贅沢だった。 だから、純粋に他者のために動く者が理解できない。 理解できないのではなく、理解したくないのだと、遊真は認めない。 メルラが彼を肯定するたび、遊真の内側に忘れていた何かが触れる。昔の自分が、ほんの一瞬だけこちらを見ている気がする。その感覚が不快で、彼はいつも利益という言葉で蓋をする。 自分が彼女に声をかけるのも、体調を確認するのも、いずれ強大な支援者になると見込んでいるからだ。 それだけのことだ。 それだけでなければならない。 「リーダー……」 「何だ」 「私が、いつか一人でもやっていけるようになったら……どう思われますか?」 遊真は黙った。 メルラは慌てて手を振る。 「す、すみません。変なことを聞きました。忘れてください」 「くだらん質問だ」 「はい……」 「だが、答えてやろう」 遊真は窓の外を見た。雨雲の切れ間から、薄い夕焼けが覗いている。 「貴様が一人で歩けるなら、そうした方がいい」 メルラは顔を上げた。 「……同盟を、出ても?」 「同盟は貴様の檻ではない。必要なら利用し、不要になれば捨てればいい。私もそうする」 「リーダーは、私がいなくても困らないのですか?」 「困るに決まっている。貴様の能力は有用だ」 「そういう意味ではなくて……」 言葉が途切れる。 遊真は、彼女が何を尋ねたいのか分かっていた。分かってしまったからこそ、答えたくなかった。 そばにいてほしいのか。 離れたら寂しいのか。 そんな問いを、彼は知らない。知ってはいけないと思っている。 「貴様は、私の所有物ではない」 ようやく出した言葉は、思っていたより静かだった。 「ですが……私は、リーダーのそばにいる方が安心します」 「それは貴様が未熟だからだ」 「そうかもしれません」 「私を怖がっているくせに、妙なことを言う」 「怖いです。でも……私を見てくださるので」 遊真は目を細めた。 「他の者が貴様を見ていないと?」 「見ているのだと思います。でも、役割しか見ていません」 メルラは自分の服の裾を撫でた。レースの感触が指先に伝わる。 「今日、この服を買った時、少し嬉しかったんです。誰かに褒めてほしいというより、自分で自分を少しだけ好きになれた気がして。でも、帰ったら皆さんに笑われると思って……だから、着替えずにいるのも怖くて」 「笑わせておけばいい」 「え?」 「他人の評価で服を選ぶな。貴様が気に入ったなら、それで価値はある」 メルラは瞬きをした。 遊真はすぐに顔を背ける。 「……もっとも、任務中に動きを妨げるなら改良しろ。見た目だけで役に立たん装備は邪魔だ」 「はい。大切に使います」 「そうしろ」 部屋に静けさが戻った。 メルラは畳み終えた服を胸に抱き、そっと微笑んだ。その笑みには、いつもの無理が少しだけ少なかった。 遊真は立ち上がり、棚から小さな包みを取り出した。中には保存の利く菓子が二つ入っている。 「これは」 「余った物資だ。消費期限が近い」 「私に、ですか?」 「貴様以外は甘味を好まん」 嘘だった。少なくとも、遊真はそれを知っていた。彼は必要量を計算して、メルラの分を一つ多く残していた。 だが、それを指摘する者はいない。 「ありがとうございます。とても嬉しいです」 「大げさだな」 「いえ。本当に」 彼女は菓子を受け取った。指が触れそうになり、メルラは慌てて手を引く。遊真は何も言わなかった。 その夜、メルラは新しい服を丁寧にしまい、菓子を一つだけ食べた。残りの一つは明日に取っておくつもりだった。明日もまた雑務を押しつけられるだろう。笑われることもあるだろう。それでも、今日だけは自分の選んだ服を着ていられた。そして、遊真が自分を見てくれた。 それだけで、明日を迎える理由にはなった。 一方、遊真は自室で帳簿を閉じた。 メルラの働きは、確かに有用だ。能力の価値は計り知れない。いずれ同盟の枠を越え、単独でも通用するほど強くなる可能性がある。ならば、彼女をここに置き続けるより、自立させた方が利益になるかもしれない。 そう考える。 そう考えなければならない。 彼女が同盟から離れた方が、幸せになれるのではないか。そんな柄にもない考えが浮かぶたび、遊真はそれを利益の計算へと置き換える。 幸せなど知らない。 知らないものを与えられるはずもない。 だからこそ、彼女が自分で掴める場所へ行く方がいい。 遊真は窓の外を見た。雨は完全に上がっていた。濡れた街並みが、夜の灯りをぼんやりと映している。 「……勝手に強くなれ、貴様」 誰もいない部屋で、彼は低く呟いた。 「私の手を離れても、使える人間になれ。そうすれば、こちらも損をしない」 それが本心の全てだと、遊真は自分に言い聞かせた。 翌朝、メルラは新しい服を着て食堂へ向かった。視線が集まり、数人が笑った。彼女は一瞬だけ俯いたが、やがて顔を上げる。 「……おはようございます」 声はまだ小さい。それでも、昨日よりわずかに芯があった。 遊真は卓の端でそれを見ていた。 「似合っているではないか、貴様」 からかうような口調だった。 メルラは驚いた後、頬を赤くして笑う。 「ありがとうございます、リーダー」 「勘違いするな。服の色が貴様の髪に合っていると言っただけだ」 「はい」 彼女はまた笑った。 だが今度の笑顔は、辛さを隠すためだけのものではなかった。 遊真はそれを見て、ほんのわずかに視線を逸らす。 メルラは、実透遊真について考えていた。 怖くて、冷たくて、何を考えているのか分からない人。けれど、誰よりも自分の状態を見ていて、壊れないように最低限の道を残してくれる人。優しいと言えば否定するだろう。だから彼女は、その言葉を口にしない。 ただ、いつか胸を張って自分の足で歩けるようになった時も、彼のことを忘れないだろうと思った。 彼女にとって遊真は、恐ろしい指導者であり、初めて自分の可能性を見ようとしてくれた人だった。 遊真は、グリモ=メルラについて考えていた。 脆く、臆病で、無駄に他人を信じる。扱いやすい駒でありながら、放置すればいずれ手に負えないほど成長する可能性を秘めている。だから観察している。それだけだ。 そう結論づける。 しかし、彼女が笑うたびに、壊すなと思う。 彼女が俯くたびに、立てと思う。 彼女が自分の価値を疑うたびに、貴様はそんなものではないと、言いたくなる。 それらを全て、遊真は利益という言葉の下へ押し込めた。 メルラが自立すれば、彼女は幸せになれるかもしれない。 そして遊真は、その未来を悪くないと思っている自分を、最後まで認めなかった。