広大な闘技場。そこは、あらゆる次元、あらゆる理(ことわり)を越えて集いし強者たちが、その技を競い合うために設けられた絶対的な中立地帯である。空は永遠に薄明の紫に染まり、地表は硬質な黒い結晶で覆われている。観客席は雲の上にまで突き抜けており、そこには数多の世界の観測者たちが、期待に目を輝かせて眼下の戦場を見下ろしていた。 しかし、今、この聖域とも呼べる闘技場は、致命的な「システムエラー」に見舞われていた。 対戦カードを決定し、選手をフィールドへと転送する自動制御システムが、原因不明の不具合により完全に停止したのである。アナウンスは途切れ、転送ゲートは鈍い灰色の光を放ったまま沈黙し、予定されていた対戦者たちは、待機室とも休憩所ともつかない、広大な白い虚空のような待機エリアに放り出されたままとなっていた。 そこには、もはや「戦い」という緊張感など微塵もない、停滞した時間が流れていた。 元軍人、ディラーダインは、灰色の外套を深く羽織り、白い壁に背を預けて静かに目を閉じていた。彼の指先は、愛用する仕込み杖の頭に軽く触れている。50代という年齢に相応しい落ち着きと、軍人時代に培われた規律正しさが、その佇まいから滲み出ていた。彼は、この不測の事態に対しても動揺することはない。ただ、静かに、自分の呼吸を整え、精神を研ぎ澄ましているだけだった。 だが、その内側では、退役してからの空白を埋めるように、再び戦いに身を投じた己の情熱が、静かな炎となって燃えていた。彼は時折、薄く目を開け、周囲の状況を確認する。視線の先には、自分とは正反対の性質を持つであろう、幼き少女と、あまりにも巨大すぎる存在がいた。 ディラーダインの傍らでは、彼に付随する氷精霊が、ぷかぷかと空中に浮かんでいた。その小さな体は、透き通った氷の結晶で構成されており、ときどき「きゅぅ」と小さく鳴いては、退屈そうに自分の短い腕で頬を叩いている。精霊は、主であるディラーダインの表情を伺い、彼が動かないことに飽き足らず、近くに転がっていた小さな氷の粒をパチンと弾いた。氷の粒は白い壁に当たり、心地よい音を立てて砕け散る。それが、この静寂に満ちた空間における数少ない「音」であった。 一方、人造生命の少女、ツヴァイアは、白い床の上にちょこんと座り込んでいた。152センチという小柄な体躯。白髪に赤い瞳。彼女の表情は、凪いだ海のように穏やかで、感情の起伏がほとんど見えない。彼女が身に纏う【バスターライトアームズ】の重厚な金属光沢が、虚空の白い光を反射してキラキラと輝いている。彼女は、自分の膝の上に置いた巨大なレーザーライフルの銃身を、小さな手で丁寧に撫でていた。 彼女にとって、この待機時間は苦痛ではなかった。多元世界防衛局という、正義も悪も超えた調停組織に属し、常に効率と目的のために生きてきた彼女にとって、「何もしなくていい時間」は、プログラムされていない贅沢な空白だった。彼女は時折、流し目でディラーダインの方をちらりと見た。彼から漂う、熟練の戦士としての静謐な気配。彼女の計算能力は、彼が極めて危険な相手であることを瞬時に弾き出していたが、同時に、彼が今この瞬間、自分と同じように「静寂」を楽しんでいることも理解していた。 ツヴァイアはふぅ、と小さく息をついた。彼女の赤い瞳に、わずかな好奇心が宿る。もし戦いになれば、この静寂を切り裂く雷鳴のようなレーザーを放つことになるだろう。だが、今はそれでいい。彼女はゆっくりと目を閉じ、内部システムの同期チェックを行いながら、意識を半分だけ眠りに落とした。微かに聞こえる機械的な駆動音だけが、彼女が生きていることを証明していた。 そして、この空間で最も異質な存在が、フワリーナであった。 身長82,000メートル。もはや「人間」や「人型」という概念を遥かに超越した、天を突くほどの巨躯。しかし、その姿は恐ろしい怪物などではなく、白くふわふわとした、まるで雲を凝縮させたような毛に包まれたドラゴンの子供であった。彼女の巨体は、この待機エリアの天井(といっても仮想的な境界線だが)に頭をぶつけることなく、器用に体を丸めて横たわっていた。 フワリーナにとって、この状況は最高の「遊び場」だった。彼女は、自分の足元にいる、蟻よりも小さな人間二人を、興味津々に見つめていた。彼女の視点からすれば、ディラーダインもツヴァイアも、あまりに小さく、あまりに儚い。けれど、だからこそ可愛い。彼女は、もふもふとした大きな前足で、地面を「トントン」と軽く叩いた。 その「軽い」動作一つで、待機エリアの空間が激しく振動した。ドォォォォンという地響きが起こり、ディラーダインの外套が揺れ、ツヴァイアの体がわずかに跳ねる。だが、フワリーナはそれに気づいていない。彼女はただ、無邪気に、もふもふの胸毛を揺らしながら、黄色い一本角をぴこぴこと動かしていた。 (あそびたいなぁ……) 彼女の心の中は、そんな単純な欲求で満たされていた。彼女にとって、これから行われる「戦闘」とは、大好きな誰かとじゃれ合い、転がり合い、笑い合う遊びのことだ。彼女は、巨大な尻尾をゆっくりと左右に振った。そのたびに、猛烈な風が巻き起こり、待機室の空気の流れが乱れる。ディラーダインは、その風に煽られながらも、表情ひとつ変えずに目をつぶったままだ。ツヴァイアは、風に飛ばされないよう、ライフルの重量を重心に利用して踏ん張っていた。 時間は、残酷なほどにゆっくりと過ぎていった。 一時間。二時間。あるいは、数日経ったのかもしれない。この空間には時計がなく、太陽も月もない。あるのはただ、白い静寂と、時折起こるフワリーナの無意識な振動だけだった。 ディラーダインは、ふと意識を覚醒させた。彼はゆっくりと立ち上がり、仕込み杖を軽く突き、肩の凝りをほぐす。彼の視線は、隣でまだ微睡んでいるツヴァイアに向けられた。彼は、彼女が持つ兵器の破壊力を直感的に理解していた。あのレーザーが放たれれば、一瞬で全てが蒸発する。だが、同時に彼は、彼女の瞳にある「純粋さ」も見抜いていた。それは、戦うことを義務付けられた者の純粋さである。 ディラーダインは、小さく溜息をついた。彼はもともと、冷酷な軍人として恐れられていた。だが、その内側には、弱きものへの慈悲を捨てきれない人間性が残っていた。彼は、隣にいる少女に声をかけようとしたが、やめた。今のこの静寂を壊すことは、彼にとって心地よくないと感じたからだ。 一方、フワリーナは、退屈の極みに達していた。彼女は、自分の前足の爪をぺろぺろと舐め、それから、もう一度、小さな二人をじっと見つめた。彼女は、ディラーダインが放つ「冷たい気配」に興味を持った。それは、彼女が大好きな雪の匂いに似ていた。彼女は、鼻息を大きく吹きかけた。ヒュゥゥゥーッという猛烈な突風が、ディラーダインを直撃する。しかし、彼は一歩も退かず、外套を翻してその風を受け流した。 フワリーナは嬉しくなった。この小さな人間は、私の風に耐えられる! 彼女は、嬉しさのあまり、巨体を「ゴロン」と転がした。 ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!!! 世界が崩壊したかのような衝撃波が走り、待機エリアの床に巨大な亀裂が入った。仮想空間であるはずの壁にノイズが走り、激しい火花が散る。システムエラーがさらに悪化したのか、周囲の景色が点滅し始めた。 「……そろそろ、か」 ディラーダインが、静かに呟いた。彼の言葉と同時に、頭上の空から、ノイズ混じりの機械音声が鳴り響いた。 『――システ……ム・リブート……完了。エラーを……解消。対戦カードを……確定。転送を開始……します』 その瞬間、白い虚空が激しく明滅し、三人の足元に光の円陣が現れた。ツヴァイアがパチリと目を開ける。フワリーナが「わーい!」という歓喜の声を上げる(その声だけで鼓膜が破れそうな音圧だったが)。 光が彼らを包み込み、視界が真っ白に染まる。次に目を開けたとき、彼らは再び、あの黒い結晶の闘技場の中央に立っていた。観客席からは、地鳴りのような歓声が上がっている。 対戦形式は、三つ巴の乱戦。ルールはただ一つ、「最後の一人(または一匹)が残るまで戦うこと」。 ディラーダインは、静かに仕込み杖を構えた。彼の周囲に、絶対零度の冷気が渦巻き始める。氷精霊が、彼の肩に乗り、小さく牙を剥いた。 ツヴァイアは、両手に【ハイパーシューター】を構え、赤い瞳を鋭く光らせた。彼女の背後の【レイズ・ウェイブ】から、無数の追尾レーザーが展開され、ターゲットをロックオンする。 フワリーナは、大きな口を開けて、嬉しそうに笑っていた。彼女にとって、これは最高の遊びの時間だ。彼女は、巨大な足を踏み出し、地響きと共に前進する。 静寂は終わった。停滞した時間は、今、爆発的な闘争心へと変換される。 ディラーダインの足が地を蹴った。その速度は音を置き去りにし、一瞬にしてツヴァイアの懐へと潜り込む。同時に、ツヴァイアの指がトリガーを引いた。 激突の瞬間。光と氷と、巨大な衝撃が交差する。 激闘の幕が、今、切って落とされた。