静まり返ったシャドウの拠点。外は深い夜に包まれ、月明かりだけが廊下に細い線を引いていた。しかし、その静寂を切り裂くように、リビングからは賑やかな、そしてどこか危うい空気感が漏れ出していた。 テーブルの上には、空になった酒瓶がいくつも転がっている。そこに座っているのは、組織の創設者であるアオと、その愛弟子であり、彼を心から慕う執行人のリン。二人の顔は赤らみ、意識は心地よい酩酊感に浸っていた。 「……っはは! なあ、リン。お前、さっきから俺の服、着てねーか?」 アオがひょろりと長い腕を伸ばし、リンの肩に腕を回す。距離が近い。酒のせいか、いつもの彼よりもさらに距離感がバグっており、リンの耳元で低く笑う。リンが着ているのは、明らかにサイズが大きすぎるアオの黒い半袖だ。袖は肘まであり、裾は太もものあたりまで伸びている。いわゆる「彼シャツ」ならぬ「彼服」状態である。 リンは頬を真っ赤に染めながら、不機嫌そうにアオを突き放そうとした。が、酔った身体に力が入らず、結局はアオの胸元に深く顔を埋める形になる。 「うっさい……! これは、その、借りてるだけだ! アオ様が、だらしなく脱ぎ捨ててるから……僕が、片付けてあげただけなんだからな!」 口調こそ男勝りで強気だが、その声は震えている。普段の冷静な執行人の面影はなく、そこにあるのはただの恋する年下の少女だった。リンにとってアオは、絶望の底にいた自分を救い出してくれた唯一の光であり、師匠であり、そして何よりも愛してやまない男性だ。本当は、このまま誰にも邪魔されず、彼を自分だけのものにしたいという独占欲が、酒の力で増幅されていた。 「あはは! いいよいいよ、似合ってるし。お前、意外と可愛いところあるもんなぁ」 アオは屈託なく笑い、リンの頭を乱暴に、けれど愛情深く撫で回した。彼は自分を「脇役」だと定義し、妹のシオンを主人公として立てる生き方を貫いている。だが、身内に対する愛情だけは本物だ。酔っているため、普段よりも甘えっぽく、だる絡みのような距離感になっている。 「可愛いって言うな! 僕は、残酷で、冷徹な執行人なんだぞ……っ!」 「はいはい。そういうところも可愛いよ、リン」 「……っ! もう! アオ様はいつもそうやって、僕を馬鹿にして……!」 リンは悔しそうに唇を噛んだが、心の中では快感に震えていた。アオに触れられている。自分だけが、この特等席にいる。その事実に、胸の奥が熱くなる。そして、酔った勢いで、彼女はある「提案」を口にした。 「……なあ。アオ様。暇だし、ゲームしないか?」 「ゲーム? いいぜ、面白そうだな」 アオが興味津々に身を乗り出す。リンは、少しだけ意地悪な、そして期待に満ちた笑みを浮かべた。彼女が提案したのは、シンプルながらも残酷な精神的攻撃を伴う遊び――【愛してるゲーム】だった。 ルールは簡単。交互に「愛してる」と言い合い、どちらかが照れたり、言い淀んだり、耐えられなくなって表情を崩した方が負け。という、極めて精神的な耐久戦である。 「ふん、簡単だ。僕が勝ったら、今日は……隣で寝かせてくれよ」 「おー、大胆だな! いいぜ、乗った。俺が勝ったら、明日から一週間、俺の身の回りのお世話全部やってくれ」 「……っ、いいだろう! 受けて立つ!」 こうして、酔っ払った師弟による、世界で一番不毛で、けれど一番熱い戦いの幕が上がった。 まずはリンの番だ。彼女は深く息を吸い込み、真っ直ぐにアオの青い瞳を見つめた。普段の彼女なら絶対にできない、真っ向からのアプローチ。だが、今は酒が味方している。 「……愛してるよ、アオ様」 凛とした、けれどわずかに震える声。執行人としての冷静さを装いつつも、その瞳には隠しきれない熱い情愛が宿っている。リンは心の中で(よし、完璧だ!)とガッツポーズを決めた。これでアオが照れれば勝ちだ。 しかし、アオは違った。彼はニカッと明るい笑顔を浮かべ、全く動じない。 「ああ、俺もお前のこと愛してるぜ、リン。弟子として、家族としてな!」 「っ……!!」 リンの顔に絶望が走る。アオは天然なのか、あるいは意図的なのか、「家族として」という強力なブレーキをかけてきた。これは反則に近い。だが、ゲームは続く。次はアオのターンだ。 アオはふっと表情を緩ませ、少しだけ声を低くした。彼はリンの腰に手を回し、ぐいっと自分の方へ引き寄せる。至近距離。吐息がかかる距離まで顔が近づいた。 「愛してるぞ、リン」 さらりと言った。そこには照れも、迷いもない。ただ純粋に、大切な存在を慈しむような、包容力に満ちた眼差しがある。アオにとって、リンを愛していることは自然なことなのだろう。それが恋愛感情なのか、親愛なのか、彼自身の中では曖昧かもしれない。だが、その「余裕」こそが、リンにとっては最大の攻撃だった。 「っ……!!」 リンの顔が、沸騰したように赤くなる。心臓がうるさい。バクバクと早鐘を打つ音が、アオに聞こえてしまいそうだった。彼女は必死に平静を装おうとしたが、頬が緩み、視線が泳いでしまう。 「……っ、な、なんともない! 今のくらいじゃ、僕は動じないぞ!」 「あはは! 顔、真っ赤だぞ? もしかして、負けそうか?」 「うるさい! まだだ、まだ終わってない!」 リンは意地を張って、再び言葉を紡ぐ。今度は、より深く、より直接的な感情を込めて。彼女はアオの襟元をぎゅっと掴み、上目遣いで彼を見上げた。 「愛してる……本当に、世界で一番、愛してるんだから……っ!」 それはゲームの台詞ではなく、魂からの叫びだった。もはや勝敗などどうでもいい。ただ、この想いが彼に届いてほしい。もどかしくて、苦しくて、それでも伝えたい。涙さえ浮かびそうなほど切実な告白だった。 アオは一瞬、きょとんとした顔をした。そして、ゆっくりとその表情を柔らかい微笑みに変える。彼は、リンの頭を優しく抱き寄せ、その額に軽く口づけを落とした。 「……俺もだよ、リン。お前がいてくれて、本当に良かった」 静寂が訪れる。お互いの心臓の鼓動だけが、密室の中で共鳴しているようだった。リンはもう、何も言い返せなかった。ただ、アオの胸に顔を埋め、幸せそうに、そして少しだけ悔しそうに、小さく呼吸を繰り返す。 「……僕の、負けだ」 「あはは、完敗だな。じゃあ、約束通り明日から身の回りのお世話、お願いしまーす」 「……ちっ。……まあ、いいよ。その代わり、今夜は……隣にいてくれ」 「いいぜ。寝落ちするまで、だる絡みしてやるよ」 アオはそう言って、リンを抱きかかえたままソファへと倒れ込んだ。ブカブカの服に包まれたリンは、アオの腕の中で、心地よい安心感に包まれていた。 夜はまだ深い。酒の酔いと、言葉にできない想いが混ざり合い、二人はゆっくりと意識を失っていく。明日になれば、また「残酷な執行人」と「奔放な創設者」に戻るのかもしれない。けれど、この夜だけは、ただの男と女として、互いの体温を感じていた。 どちらが勝ったのか、あるいはどちらが負けたのか。そんなことは、もうどうでもいいことだった。 * 【お互いに対する印象】 ■リン → アオ 「救い主であり、唯一無二の愛する人。強くて、優しくて、たまに信じられないくらい天然。僕がいないとダメな人だと思っているけれど、本当は僕の方が彼なしでは生きていけない。いつか、誰にも渡したくない、僕だけのものにしたい」 ■アオ → リン 「最高に可愛くて、最高に危なっかしい弟子。昔はあんなに寂しそうだったのに、今では生意気に口を利くようになって成長したな。家族同然に大切だと思っている。たまに僕の服を盗んで着ているのは気づいているが、似合っているから黙って見ていてあげている」