昼とも夜ともつかない、巨大な裏市場。 天井を覆う鉄骨と無数の布屋根の隙間から、青白い魔導灯と赤い提灯が交互に覗いていた。違法な魔道具、身元を消された宝石、禁制薬、異世界産の獣の卵、偽造身分証、賞金首の情報。客と商人と用心棒がひしめき、怒号と値切り声と楽器の音が絶えず混ざり合っている。 その雑踏を、グルーシヤス・アルマリーは一人で歩いていた。 表の顔なら、少し俯き、銀色の瞳を隠すように長い黒髪を垂らした、どこにでもいる学生に見える。手には古びた料理本。市場に来た理由も、「珍しい香草を探しに来た」と言えば誰も疑わない。 だが、彼女の足取りは静かすぎた。人にぶつからず、視線を合わせず、しかし周囲の出口と高所、武器になりそうな品物をすべて把握している。 その一角、壊れた時計塔を改造した露店の前で、彼女は足を止めた。 店先には、時間魔法に関係するらしい黒い結晶が並んでいる。その奥に立っていたのが、サイファーだった。 黒いスーツ。無表情。周囲の喧騒から切り離されたような姿。 彼の指先が空中をなぞると、白い記号が浮かび上がる。 『☠︎︎︎︎︎』 Wingdings。意味を理解できる者は少ない。 グルーシヤスは、ちらりとそれを見た。 そして、店の台に置かれた黒い結晶を見た瞬間、彼女の表情が変わった。 結晶の内部には、細い赤い糸のような光が封じられている。彼女の召喚獣である狼の魔人が、以前奪われた魔力核と同じ波長を持っていた。 サイファーが結晶を手に取る。 その瞬間、彼の背後にいた狼が、影の中から姿を現した。 赤い瞳。炎のような鬣。人語を理解する魔人の狼。 狼は低く唸った。 サイファーが結晶を見る。 「……その核を、どこで手に入れたの?」 グルーシヤスの声は、表向きの少女らしいか細いものだった。 サイファーは答えず、空中に記号を書いた。 『☜☠︎︎︎︎♟︎』 意味は誰にもわからない。 だが、彼は結晶を懐へしまった。 グルーシヤスの目が細くなる。 「返して」 店主が慌てて割り込んだ。 「お、お嬢ちゃん、ここはそういう場所じゃない。欲しいなら金を――」 サイファーがグルーシヤスを見た。 ノイズ混じりの声が響く。 「■■……対象、魔人狼を所有。危険度、上方修正」 グルーシヤスの狼が牙を剥いた。 彼女は、ほんの一瞬だけサイファーのスーツの胸元を見た。そこに、時計の歯車を模した組織章がある。 時の流れを監視する組織。 そして、その組織が魔力核を解体し、狼の種族を研究対象にしていたことを、彼女は知っていた。 怒りが、遅れて湧いた。 表の人格が静かに蓋を閉じ、裏の人格が立ち上がる。 銀の瞳が、赤く染まった。 「……ああ。あなたたちの人間だったのね」 サイファーは記号を書くのを止めた。 「■■?」 グルーシヤスは笑った。先ほどまでの恥ずかしがり屋の少女の面影はない。 「返せと言ったでしょう。返さないなら、あなたの指を一本ずつ折って、結晶を飲み込ませる」 周囲の商人がざわめいた。 サイファーは冷たく彼女を見た。 「非合理的」 「違うわ。合理的よ」 グルーシヤスは、腰のサバイバルナイフを一本抜いた。 「私はあなたを殺す。あなたは抵抗する。抵抗すれば、もっと壊す。簡単な話でしょう?」 サイファーの指が空中を走る。 『⚔︎』 彼は一歩前に出た。 「交渉は成立しない」 「ええ。だから喧嘩を売ってるの」 彼女がナイフを投げた。 それが戦闘開始の合図になった。 サイファーの目の前の空間が折れ、ナイフが消える。次の瞬間、彼女の背後、屋台の布を貫いて飛び出した。 しかしグルーシヤスは振り向きもしなかった。 風の魔法が背中を押し、身体が横へ滑る。ナイフは木箱に突き刺さり、箱の中の違法な煙玉を破裂させた。 紫色の煙が市場の通路に広がる。 「おい、商品が!」 「逃げろ! 毒煙だ!」 客が一斉に散る。 混乱の中、サイファーが右手を払った。 目に見えない刃が煙を裂き、屋台を真っ二つにする。木材と瓶が宙へ飛び、グルーシヤスの頭上へ落ちた。 狼が吠えた。 炎の壁が立ち上がり、落下物を焼き払う。赤い火花の向こうから、グルーシヤスがサブマシンガンを二丁抜いた。 銃声が市場を震わせる。 弾丸はサイファーへ向かう途中で、次元の裂け目に吸い込まれた。だが、彼が安全だと思った瞬間、背後の別の裂け目から弾丸が現れた。 サイファーは首を傾けて避ける。 「弾道を二重化……単純だ」 「そう?」 グルーシヤスは笑う。 弾丸の一発が、彼の足元に積まれていた鉄粉入りの袋を破った。鉄粉が床一面に散り、サイファーの靴を覆う。 彼女は風魔法で鉄粉を舞い上げ、視界を奪った。 同時に、植物魔法を発動する。 石畳の隙間から蔓が伸び、サイファーの腕と脚へ絡みついた。 サイファーは空間を折る。蔓の周囲だけが別の場所へ転送され、拘束が切れた。 だが、グルーシヤスはすでに彼の懐へ潜り込んでいた。 肘打ち。掌底。膝。短い動きが連続し、黒いスーツの防護布が軋む。 サイファーは防御より反撃を選んだ。拳が空間をくぐり、グルーシヤスの腹の寸前で現れる。 普通なら直撃だった。 しかし彼女の周囲に赤い頭巾のような光が浮かんだ。 【赤い頭巾】。 魔法も能力攻撃も通じず、ダメージも受けない。 拳は彼女の身体に触れた瞬間、力を失った。 「……防御能力」 サイファーは即座に距離を取った。 グルーシヤスは彼の手首を掴んでいた。 「逃がさない」 彼女が背負い投げを繰り出す。サイファーの身体は屋台の机を壊しながら転がった。 その衝撃で、瓶詰めにされていた幻惑薬が割れる。 市場全体が歪んだ。 客の姿が三人にも四人にも増え、通路の奥行きが不自然に伸びる。商人たちは自分の店が何軒も並んでいるように見え、互いにぶつかり合った。 サイファーは立ち上がり、空中へ記号を書いた。 『∴』 幻覚の中から、正確にグルーシヤスの位置を特定する。 「視覚情報を信用していない……」 「頭がいいのね」 「君の攻撃は、環境依存が多い。ならば環境を消す」 サイファーが両手を広げた。 市場の一角が、空間ごと切り取られた。 屋台も、客も、商品の山も、すべてが透明な立方体の内部へ閉じ込められる。音が遠のき、上下の感覚が崩れる。 次元操作による隔離。 グルーシヤスは足元の石畳を見た。そこには上下左右の区別がない。壁だったはずの場所が床になり、天井だった場所に樽が転がっている。 サイファーの姿が消えた。 次元の裏側へ潜ったのだ。 彼女は気配遮断を使った。自分の存在感を消し、呼吸を整える。 無音。 だが、狼だけは彼女の隣にいた。 狼の鼻が動く。 炎の魔人である彼は、空間そのものの歪みを熱の偏りとして感じ取っていた。 狼が吠え、右上へ炎を吐く。 何もないはずの空間が燃え、サイファーの肩が裂けた。 グルーシヤスはその裂け目へ銃弾を叩き込む。サイファーは咄嗟に転移するが、彼女は弾丸の軌道を風で曲げ、次元の出口へ送り込んだ。 しかしサイファーは着弾直前に空間をさらに折った。 弾丸が彼の周囲を円運動し、グルーシヤスへ戻ってくる。 赤い光が弾丸を弾いた。 その瞬間、閉じ込められていた客の一人が叫んだ。 「賞金首だ! 赤ずきんと黒服の男! どっちも懸賞金が高いぞ!」 声に応じるように、梁の上から二人の賞金稼ぎが飛び降りた。 ランダムイベント――賞金稼ぎが二人に賞金を懸けて乱闘へ介入した。 二人は魔力銃と鎖を構え、同時に叫ぶ。 「仲良く殺し合ってろ! 最後に生きてる方を撃つ!」 賞金稼ぎの銃撃が、二人へ降り注ぐ。 グルーシヤスは舌打ちし、狼の背へ飛び乗った。狼が炎を噴き出し、銃弾を焼く。サイファーは賞金稼ぎの一人の背後にワープし、無形の刃を首元へ走らせた。 だが、刃は途中で止まった。 賞金稼ぎが身につけた空間固定具が、周囲の次元を縫い止めていた。 サイファーの表情が初めてわずかに変わる。 その隙に、もう一人が鎖を投げた。鎖はグルーシヤスの腕へ巻きつき、魔力を吸い上げようとする。 「赤ずきんだか何だか知らねえが、武器を捨てな!」 グルーシヤスは赤い目で笑った。 「それ、私には効かないわ」 鎖が彼女の腕に触れた瞬間、赤い頭巾の力に弾かれて砕け散る。 彼女は賞金稼ぎの懐へ入り、拳を一度だけ叩き込んだ。男は宙を舞い、魔導具店の壁へ激突した。 もう一人へは狼が炎を吐いた。ただし直撃させず、床を円形に焼く。逃げ場を失った賞金稼ぎは足を滑らせ、サイファーの無形の刃が銃を切断した。 武装を失った二人は、観客の群れへ逃げていった。 だが、戦場はさらに危険になっていた。 空間固定具が破損したことで、サイファーの隔離空間が不安定化する。床の一部が黒く沈み、地下から冷たい風が吹き上がった。 グルーシヤスがそれに気づいた瞬間、石畳が崩れた。 二人と狼は、店の商品ごと地下へ落下した。 地下には、裏市場の密輸倉庫が広がっていた。天井は低く、通路は狭い。棺桶のような箱、封印された水槽、積み上げられた鉄籠。壁には古い排水管が走っている。 地上からは、客たちの悲鳴と商人の怒号が遠く聞こえた。 サイファーは着地と同時に、地下の地形を見回した。 「狭い。次元展開には不適」 「だから落としたのはあなたでしょう」 「偶発的事象だ」 「じゃあ、その偶発に殺されて」 グルーシヤスがナイフを三本投げる。 サイファーは一枚の次元扉を開いた。ナイフは扉へ入る。 しかし、グルーシヤスは植物魔法で地下の根を呼び起こしていた。古い木箱を突き破った根が、次元扉の縁へ絡みつく。 扉が完全には閉じない。 一本のナイフが、サイファーの左肩へ突き刺さった。 「空間を閉じるなら、入口を固定すればいい」 グルーシヤスは楽しそうに言った。 「あなたの能力、便利だけど、場所が必要ね」 サイファーはナイフを抜き、傷口を見た。 血は流れていたが、彼の目に痛みはない。 「観察した。君は防御不能ではない」 「へえ?」 「攻撃を受けないのではなく、赤い頭巾という能力が攻撃を無効化している。ならば、攻撃以外で制御する」 サイファーが指を鳴らした。 地下の鉄籠が一斉に開いた。 中には、魔法を吸収する黒い布と、空間を固定する杭が入っていた。彼はそれらを次元操作で周囲へ配置し、地下通路全体をひとつの巨大な迷路へ変えた。 壁と壁の間に隙間が生まれ、同じ場所が何度も繰り返される。 グルーシヤスは歩いても、必ず同じ鉄籠の前へ戻ってくる。 「迷路?」 「目的は殺害ではなく、封じ込め」 「狼を奪うつもりね」 サイファーは否定しなかった。 「魔人狼の魔力核は、時間監視装置の再起動に必要だ」 その言葉を聞いた瞬間、グルーシヤスの笑みが消えた。 「そう。やっぱりあなたたちは、あの子を道具にする」 狼が彼女の隣で唸る。 彼女はその首筋を撫でた。 「大丈夫。食べていいわよ」 狼の炎が、青白く変わった。 それは通常の炎ではなかった。熱で燃やすのではなく、魔力の流れを焼く炎。空間固定杭の周囲にまとわりつく魔力だけを狙い、杭を一つずつ無力化していく。 サイファーが目を見開いた。 「魔力回路を識別している……」 「仲良しだから」 グルーシヤスは答えた。 「長く一緒にいれば、何を燃やして何を残すかくらい、わかるのよ」 彼女は迷路を正面から進まなかった。 サバイバルナイフで排水管を切断し、毒魔法を流し込む。毒は空気より重く、地下通路の低い場所へ広がった。 サイファーは次元の裂け目を開き、毒を別の場所へ送ろうとする。 だが、その裂け目から送り出された毒は、グルーシヤスが植物魔法で生やした花の内部へ吸収された。花は急速に膨らみ、毒の霧を蓄える巨大な胞子嚢になる。 彼女はそれを蹴った。 紫の霧が、サイファーのいる通路だけに噴き出す。 サイファーはワープする。 しかし、グルーシヤスは彼の移動先を予測していた。毒霧が広がる範囲に、あらかじめ風の魔法で渦を作っていたのだ。どの出口を選んでも、薄い毒がまとわりつく。 サイファーの動きがわずかに鈍った。 「毒は効かないはずでは?」 「効くかどうかじゃないわ。判断速度を少し落とすだけ」 グルーシヤスが踏み込む。 サイファーは見えない刃を連射した。狭い地下通路に無数の斬撃が走り、鉄籠も箱も壁も切り裂く。 グルーシヤスは赤い頭巾の力で進み続ける。斬撃は彼女を傷つけられない。しかし、彼女の周囲の床や壁が切断され、足場が崩れていく。 サイファーは理解していた。 彼女自身に攻撃が通じなくても、環境を破壊すれば動きを制限できる。 だが、グルーシヤスもそれを理解していた。 彼女は崩れた床の下へ飛び込み、落下しながら銃を撃った。弾丸は鉄製の棚へ当たり、棚を倒し、サイファーの進路を塞いだ。 狼が炎を吐き、棚の下に積まれていた密輸用の油を燃やす。 炎の壁が地下通路を二つに分けた。 サイファーは火の向こう側に立っていた。 彼の周囲に、無数の黒い裂け目が開く。 「終わりだ。君の防御は、君の意識が維持する能力だ。ならば認識を分断する」 裂け目から、同時に何十もの見えない刃が飛んだ。 グルーシヤスの赤い頭巾がすべてを弾く。だが、刃は床、天井、壁を切り、地下倉庫そのものを崩し始めた。 頭上から大量の箱が落ちる。 狼が彼女を押しのけ、炎の盾を展開した。 その一瞬、狼の意識が彼女から離れた。 サイファーはそこを狙った。 彼の姿が消える。 次に現れたのは、狼の背後だった。魔力核を抜き取るための次元拘束が、狼の胸へ伸びる。 グルーシヤスの赤い目が、獣のように細くなった。 「触るな」 その声は低く、怒りそのものだった。 彼女はサブマシンガンを捨て、両手を地面へついた。 植物魔法、風魔法、炎魔法、毒魔法、幻想魔法。 五つの魔法を同時に重ねる。 まず植物の根が地下倉庫の壁を貫き、無数の柱となって空間を固定した。次に風が通路を圧縮し、サイファーの転移先を限定する。毒の霧が彼の周囲に円を描き、炎の狼がその円の外周を焼く。そして幻想魔法が、地下倉庫に無数の偽の出口を作った。 サイファーの次元操作は、出口を選ぶたびに同じ位置へ戻される。 彼は冷静に解析した。 「多属性の連結……目的は攻撃ではなく、空間座標の固定」 「正解」 グルーシヤスが姿を現した。 彼女は幻想の分身を十体ほど作っていた。どれも赤い瞳で笑い、同じナイフを構えている。 サイファーは一体を斬った。幻だった。 二体目を斬った。幻だった。 三体目に触れた瞬間、植物の蔓が彼の腕へ絡んだ。 「残念。パズルは得意なの」 彼女は言った。 「あなたがどの出口を選び、どの順番で偽物を消すか。全部、規則がある」 サイファーは記号を書いた。 『♜』 それは降参ではない。ひとつの計算を終えた印だった。 彼は自分の周囲に巨大な次元の穴を開いた。 地下倉庫の天井、壁、床、燃えた油、毒霧、鉄籠。そのすべてを一度に別の空間へ放り出す。 空間が崩壊し、二人の間に何もない黒い裂け目が生まれた。 サイファーは裂け目の向こうへ移動しようとした。 しかし、狼が炎を吐いた。 グルーシヤスの植物の柱が、その炎を細い導線のように受け止め、裂け目の縁へ流し込む。狼の炎は魔力回路だけを焼いた。 次元の穴が閉じる。 サイファーの右腕が、肩から先だけ別の位置に取り残された。 彼は動じず、左手で空中に記号を描いた。 『☠︎︎』 最後の攻撃。 彼の足元から、透明な刃が一本だけ伸びた。これまでの乱雑な連射ではない。全ての次元操作を一点へ集めた、極端に細く鋭い刃だった。 刃はグルーシヤスの胸へ進む。 赤い頭巾が光る。 刃が止まる。 止まった、はずだった。 サイファーは刃を彼女へ向けたまま、床を切り裂いた。 彼女の足元が崩れ、グルーシヤスの身体が地下水路へ落ちる。サイファーは彼女を殺すのではなく、洪水の流れへ押し流し、狼から引き離そうとした。 だが、グルーシヤスは落下中に笑った。 「なるほど。殺さずに分断するのね」 彼女は空中で人格を切り替えた。 赤い眼が銀色へ戻る。 表の人格。 「たすけて……!」 悲鳴が地下水路に響く。 地上から、まだ逃げていなかった市場の客たちが覗き込んだ。銀眼の少女が流されている。狼が必死に追いかけている。 サイファーは一瞬だけ、周囲の反応を計算した。 その瞬間、グルーシヤスの表情が裏へ戻る。 赤い瞳。 彼女は水路の壁にナイフを突き立て、身体を止めた。さらに風魔法で水流を逆巻きにし、狼を自分の位置へ引き寄せる。 「私の狼を奪うなら、あなたの帰る場所も奪う」 彼女は水路の上へ跳び、サイファーの立つ足場へ戻った。 サイファーはすぐに転移しようとした。 しかし、彼の周囲にはすでに植物の根が張り巡らされていた。狼の炎がその根を焼き固め、鉄より硬い輪に変えている。 さらにグルーシヤスは、サイファーが使っていた空間固定杭を拾い、彼自身の影の周囲へ逆向きに打ち込んでいた。 彼の影が床に縫い止められる。 「次元を動かすには、座標が要る」 彼女は静かに言った。 「座標を固定して、影を出口にして、魔力の流れを狼の炎で焼く。これで、あなたはどこへも行けない」 サイファーは記号を書こうとした。 だが、彼の指先が動かない。 植物の蔓が手首を縛っていた。 「……合理的だ」 ノイズ混じりの声が、初めてわずかに揺れた。 グルーシヤスは彼の胸元から黒い結晶を取り出した。 「返してもらうわ」 サイファーは彼女を見た。 「君は、その狼のために多くを捨てる」 「捨ててない」 彼女は結晶を狼へ渡した。狼はそれを炎で包む。黒い結晶は砕け、内部の赤い光が狼の胸へ戻っていった。 「選んでるのよ」 サイファーはなおも抵抗しようとした。 グルーシヤスはナイフの刃を、彼の喉元へ当てた。 地上の観客が息を呑む。 誰もが殺しを待っていた。 だが、彼女はすぐには刺さなかった。 「あなたの組織の名前。研究施設の場所。残りの魔力核の保管先」 サイファーは沈黙した。 グルーシヤスは、彼の足元に落ちていた時計の歯車型の組織章を拾い上げる。 「答えないなら、あなたを殺す。答えるなら、あなたの次元装置だけ壊す」 合理的な交渉だった。 サイファーは彼女の目を見た。嘘をつけば殺される。逃げることはできない。戦闘継続は、空間固定と狼の炎によって不可能。 数秒の計算の末、彼は空中に記号を書いた。 『☒』 グルーシヤスは眉を上げる。 「拒否?」 サイファーは続けて、複雑なWingdingsの列を書いた。 それを読める者はほとんどいなかった。 だが、グルーシヤスは記号の形を見て、ほんの少し笑った。 「……取引条件を提示してるのね。私が施設を潰す代わりに、あなたを生かせ、と」 サイファーの無表情がわずかに固まる。 「当たった?」 彼女はナイフを引いた。 「いいわ。今日はそれで許してあげる」 グルーシヤスは、彼の胸元へ指を当てた。 「でも、次に狼へ触れたら、あなたの頭を市場の看板に飾る」 そして、サイファーの次元装置を撃ち抜いた。 銃弾は装置だけを破壊し、黒い火花が散る。サイファーの周囲にあった裂け目がすべて閉じた。 彼は膝をついた。 完全な敗北だった。 地上では、ようやく市場の人々が動き始めていた。商人たちは壊れた屋台を見て怒鳴り、賞金稼ぎは逃げ、客たちは「赤ずきんだ」と囁いている。 グルーシヤスは銀色の瞳に戻り、長い黒髪で赤い目を隠した。 表の少女の顔へ戻る。 「えっと……大丈夫ですか?」 地上から見下ろしていた商人が、震えながら尋ねた。 「お、お嬢ちゃんがやったのか?」 彼女は恥ずかしそうに首を振る。 「わ、私は逃げていただけで……」 狼が隣で小さく鼻を鳴らした。 サイファーはそれを見て、空中に最後の記号を書いた。 『⚠︎』 警告だった。 グルーシヤスはその記号を見て、裏の人格で微笑んだ。 「ええ。また会いましょう」 彼女は狼の背に乗り、崩れた地下倉庫の奥へ消えていった。 裏市場には、炎で焦げた屋台、毒花の残骸、切り裂かれた鉄籠、そして次元の傷跡だけが残った。 誰もがその日から、黒髪の学生を見かけるたびに囁くようになった。 ――赤ずきんには、決して喧嘩を売るな。 その忠告が広まる頃には、グルーシヤスと狼の姿は、もう市場のどこにもなかった。