古びた時計塔の最上階には、使われていない応接室があった。 壁際には止まった時計がいくつも並び、窓辺には夕暮れの光が細く差し込んでいる。赤いスーツに身を包んだ白ウサギの獣人、アルビノは、その光の中でソファに深く腰を沈めていた。腰まで届く白髪が背もたれからこぼれ、白いうさ耳は気まぐれに左右へ揺れている。 鼻メガネの奥の赤い瞳は、膝の上に置いた懐中時計をぼんやり眺めていた。 「……そろそろ、お茶の時間ですかねぇ」 懐中時計の針は、三時を指したまま動いていない。 その向かい側では、小さな悪魔の少女が椅子に座っていた。白黒のゴスロリドレスに、小さな王冠。膝の上には、少しツギハギのある白い兎のぬいぐるみが置かれている。 ハルシア・アクザリートは、机の上に置かれた茶器を見つめながら、いかにも不満そうに眉をひそめた。 「三時ならば、とうに茶が出ておってよい頃合いではないか」 「時計が三時って言ってるだけなので、まだ三時とは限らないですよぉ」 「何を申しておる。時計が時を示さずして、何を示すのじゃ」 「雰囲気とか……目安とか……」 「時計を持つ者の言葉とは思えぬのう」 ハルシアは呆れたように言いながらも、怒っているわけではなかった。むしろ、アルビノが時間に対してあまりにも大らかであることを、半ば面白がっているようだった。 アルビノは懐中時計の蓋を閉じ、赤いスーツの胸ポケットへ戻した。そして、テーブルの上に置かれた空のティーカップを手に取る。 「お茶、飲みたいんですか?」 「飲みたいから待っておるのじゃろう」 「では、ハルシアさんが淹れてくださると助かりますねぇ」 「なぜ妾が客人の世話をせねばならぬ」 「わたし、めんどうなことは苦手なので」 「堂々と言うでないわ」 ハルシアは小さくため息をついた。膝の上の兎のぬいぐるみ――アルナヴォネットが、彼女の腕の中でわずかに傾く。 その様子を見たアルビノは、ぬいぐるみへ視線を向けた。 「アルナヴォネットさんは、お茶を飲むんですか?」 「ぬいぐるみじゃからの。飲めぬ」 「では、わたしと同じですねぇ」 「そなたは飲めるじゃろう」 「飲むまでが、ちょっと大変なので」 「カップを口へ運ぶだけではないか」 「そこへ至るまでに、お湯を沸かして、茶葉を選んで、蒸らして、片づけて……」 「聞いているだけで怠け者の言い訳にしか聞こえぬぞ」 「よく言われます」 アルビノは悪びれもせず、ソファの背に身を預けた。鼻メガネが少しずれたので、手袋をはめた指でそっと押し上げる。 ハルシアはその仕草をじっと眺めていたが、やがて机の隅に置かれた小さなベルへ手を伸ばした。鈴を鳴らすと、部屋の外から控えめな足音が近づき、しばらくして使用人が茶器を運んできた。 湯気の立つ紅茶と、焼き菓子の皿が机に並べられる。 「おお、来ましたねぇ」 「妾が呼んだからの」 「ありがとうございます。ハルシアさんは親切ですねぇ」 「礼を言われるほどのことではない。そなたがあまりにも動かぬゆえ、見ておれなかっただけじゃ」 「それを親切と言うんですよぉ」 アルビノは紅茶を一口飲み、ほっと息をついた。白い耳が満足そうにわずかに揺れる。 ハルシアも自分のカップを手に取ったが、すぐには口をつけなかった。紅茶の水面を眺めながら、ふと思い出したように尋ねる。 「ところで、そなたはなぜ時計を持っておるのじゃ。時間にうるさくないのであろう?」 「時間にうるさくないからこそ、持ってるんです」 「逆ではないか?」 「時計があると、時間を気にしなくて済むんですよ。持っていれば、いつでも見られますから。見なくても安心できます」 「ずいぶん妙な理屈じゃのう」 「そうですかぁ?」 「妾には理解しがたい。時は流れ、罪は積もり、いずれ裁きの時が来る。時間とは、常に意識すべきものじゃ」 ハルシアの言葉には、長い年月を生きてきた者だけが持つ重みがあった。 彼女は九歳ほどの姿をしている。しかし、その実年齢は四百を越えている。それ以上は数えていないという。幼い姿と老成した口調の組み合わせは不思議だったが、アルビノは特に気にしていないようだった。 「ハルシアさんは、ずっと断罪のお仕事をしているんですか?」 「うむ。妾の務めじゃからな」 「大変そうですねぇ」 「大変であるとも。罪を見極め、事情を聞き、相応の裁きを定めねばならぬ。簡単に決めつければ、それこそ裁く側の罪となる」 「なるほどぉ」 「……本当に分かっておるのか?」 「半分くらいは」 「半分か」 「残り半分は、お茶がおいしいなぁ、ということを考えていました」 ハルシアは片手で額を押さえた。 「そなたは真面目なのか不真面目なのか、まるで分からぬ」 「よく言われますねぇ」 「それも先ほど聞いたぞ」 アルナヴォネットが、ハルシアの膝の上で少しだけ跳ねた。アルビノはそれを見て、目を細める。 「アルナヴォネットさんは、ハルシアさんのことをどう思っているんでしょう」 「相棒じゃ。言葉にせずとも分かる」 「いいですねぇ。わたしも、そういう相手が欲しいです」 「そなたには武器があるではないか」 「ガトリングガンは相棒というより、重たい荷物ですねぇ」 アルビノは部屋の隅に置かれた二挺のガトリングガンをちらりと見た。赤い装飾の施された銃身は立派だが、確かに持ち運ぶだけでも苦労しそうな大きさだった。 「ラビット・バレット、と呼んでおるのじゃったな」 「はい。名前だけは格好いいでしょう?」 「名前だけ、とは自分で言うでない」 「実物は重いので、ちょっと扱いに困るんです。近くに置いておくと安心しますけど、移動させるのが面倒で」 「武器を家具のように扱う者は初めて見たわ」 「家具よりは便利ですよぉ。家具は火を吹きませんし」 「家具に火を吹かれてたまるか」 ハルシアの声が少しだけ大きくなった。その反応がおかしかったのか、アルビノは口元を手袋で隠して、くすくす笑った。 「ハルシアさん、意外と冗談が通じますねぇ」 「妾を何だと思っておる」 「怖い断罪の悪魔さんです」 「その通りじゃ」 「でも、兎のぬいぐるみを大事にしていて、ちゃんとお茶も呼んでくれる親切な方です」 「……余計な一言が混じっておるのう」 ハルシアは少しだけ目を逸らした。王冠の影が幼い顔に落ちる。 アルビノはそれ以上からかわず、焼き菓子を一つつまんだ。柔らかな甘さが口に広がり、彼女は満足そうに頷く。 「おいしいですねぇ」 「そうであろう。妾が選んだのじゃ」 「では、ハルシアさんは料理もできるんですか?」 「選んだだけじゃ。作ったとは言っておらぬ」 「なるほど。わたしと同じですねぇ」 「そなたは何もしておらぬであろうが」 「おいしいと思いました」 「それだけで同じと言い張る胆力は、少し見習いたいものじゃ」 窓の外で、夕暮れがゆっくりと夜へ変わっていく。止まった時計たちは相変わらず沈黙していた。 ハルシアはその一つを見上げ、それからアルビノの懐中時計へ目を向けた。 「そなたの時計は、動いておるのか?」 「たぶん」 「たぶんとは何じゃ」 「最近、確認していないので」 「時計を見るための時計ではないか」 「そうですねぇ。でも、急ぐ用事もありませんし」 「時間を戻す力を持つ者が、時間を気にせぬとはな」 「戻すと言っても、好きなようにするわけではありませんよぉ。少し遅くできるだけですし」 「それでも、時を扱う力じゃ。軽く考えてはならぬ」 「分かっています。だから普段は使いません」 アルビノの声音は穏やかだったが、その部分だけは珍しくはっきりしていた。 ハルシアは彼女の顔を見つめ、やがて静かに頷く。 「……それならばよい。力を持つ者ほど、自らの都合で振るわぬことが肝要じゃ」 「ハルシアさんも、そうしているんですか?」 「当然じゃ。裁きもまた、妾の都合で下してはならぬ」 「似ていますねぇ」 「妾とそなたがか?」 「はい。どちらも、できるけれど、できるだけ使わないようにしているところが」 「そなたの場合、面倒だからではないのか?」 「それもあります」 アルビノはあっさり認めた。 ハルシアは呆れた顔をしたが、今度は笑った。ほんのわずかな笑みだったが、彼女の幼い顔立ちを柔らかく見せた。 しばらく、二人は紅茶を飲みながら、どうでもよい話を続けた。止まった時計の数、焼き菓子の好み、兎の耳の手入れ方法。アルビノが髪を乾かすのに時間がかかると話せば、ハルシアは「それは髪が長すぎるからじゃ」と指摘した。ハルシアが王冠を寝るときも外さないと言えば、アルビノは「寝づらそうですねぇ」と首を傾げた。 やがて茶が冷め、外はすっかり暗くなった。 「さて、そろそろ帰るかの」 ハルシアが椅子から降り、アルナヴォネットを抱き直す。 「もうですか?」 「もう、とは何じゃ。十分に時は過ぎておる」 「そうですかぁ。わたしはまだ、始まったばかりの気分でした」 「そなたは時間の流れを気にせぬからのう」 アルビノも立ち上がった。腰ほどまである白髪を整え、懐中時計を取り出す。蓋を開くと、針はいつの間にか動き始めていた。 「おや。ちゃんと動いていますねぇ」 「最初から動いておったのではないか?」 「そうかもしれません」 「確認しておらぬから分からぬのじゃろう」 「その通りです」 ハルシアは小さく息を吐き、扉へ向かった。だが、数歩進んだところで立ち止まる。 「また茶を飲みたいなら、次はそなたが呼ぶのじゃぞ」 「ええ。ハルシアさんが来てくださるなら、いつでも」 「妾は茶のために呼ばれる者ではない」 「では、お話し相手として」 ハルシアは振り返った。アルビノは柔らかく微笑んでいる。赤い瞳は、夕方よりも落ち着いた色をしていた。 「……まあ、話し相手くらいなら、考えてやらぬでもない」 「ありがとうございます。次は、お菓子を用意しておきますねぇ」 「そなたが用意するのか?」 「買ってきてもらいます」 「自分で買いに行かぬのか」 「外に出るまでが少し大変なので」 ハルシアはついに堪えきれず、声を立てて笑った。アルナヴォネットも、彼女の腕の中で楽しげに揺れる。 アルビノはその様子を見て、満足そうに耳を動かした。 「では、また今度。時間は……まあ、気が向いた頃に」 「時間を決めぬのか?」 「決めても、遅れるかもしれませんし」 「妾が迎えに行けばよいのじゃな」 「それが一番確実ですねぇ」 「まったく、そなたという者は……」 呆れた言葉とは裏腹に、ハルシアの表情は穏やかだった。 扉が閉じる直前、彼女はもう一度だけアルビノを見た。 「アルビノよ」 「はい?」 「そなたは、怠惰で、時に無責任で、ずいぶんと掴みどころのない者じゃ」 「よく分かりましたねぇ」 「しかし、そなたの前では、妾も少しばかり肩の力を抜ける。……悪くない相手じゃと思っておる」 アルビノは目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。 「ハルシアさんは、厳しくて、古風で、ちょっと怖い方ですけど……とても優しい方だと思っています。わたし、また一緒にお茶を飲みたいです」 「うむ。ならば次は、そなたが茶を淹れるのじゃ」 「それは、時間をかけて考えますねぇ」 「すぐに決めよ」 「時間にうるさいですねぇ」 「妾は時間にではなく、そなたにうるさいのじゃ!」 閉じかけた扉の向こうから、ハルシアの声が響く。 アルビノは笑いながら、懐中時計を胸ポケットへしまった。時計の針は、静かに時を刻んでいる。 けれどその夜、彼女はすぐには部屋を出なかった。 冷めた紅茶の香りと、ハルシアの笑い声の余韻が残る部屋で、アルビノはもう一つ焼き菓子を手に取った。 「次のお茶会も、楽しみですねぇ」