眩い。あまりにも白すぎる。 アインスが意識を取り戻したとき、最初に感じたのは鼻を突く強い塩素の匂いだった。そして、耳の奥で鳴り続ける、不快な、低く一定の「ブー」というハム音。視界が開けると、そこにはどこまでも続く白いタイルの世界が広がっていた。 「……ここは……?」 彼女はゆっくりと身を起こす。黒いタンクトップにジーンズという軽装のまま、冷たいタイルの床に横たわっていた。左目の眼帯に触れ、それから首に掛けられたドッグタグを無意識に握りしめる。ここは病院ではない。外出許可を得て歩いていたはずの街角でもない。 周囲を見渡せば、そこは巨大なプール施設のような場所だった。しかし、人が一人もいない。あるのは、不気味なほど新品で汚れひとつない白い壁と、透き通った水が満たされたプール、そしてどこへ繋がっているのか分からない、不自然な曲線を描くプールスライダーだけだ。 「夢……? いや、にしては匂いが現実的すぎる」 アインスは立ち上がり、静かに歩き出した。元軍人としての本能が、周囲に敵意を持つ存在がいないことを告げている。だが、だからこそ恐ろしい。静寂が耳を圧迫し、蛍光灯の光が神経を逆撫でする。 「……ふぅ……少し……息抜きしたいな……」 独り言を漏らし、彼女は肩を回してストレッチをする。戦う相手はいない。けれど、この「あまりにも安全すぎる」空間が、彼女の心をじわじわと浸食していく。 ふと、前方から誰かの声が聞こえた。 「……また、ここみたいなところに来た」 低く、感情の起伏が少ない声。視線を向けると、そこには乱れた長い黒髪に、青白い肌をした長身の少女が立っていた。彼女は白のタンクトップに黒灰色のカーディガンを羽織り、手には場違いな鉄の伐採用斧を握っている。 「あなたも、起きたらここにいたの?」 アインスが穏やかに問いかけると、少女は無機質な瞳で彼女を見た。少女は懐中電灯をカチリと点け、周囲の白い壁を照らす。 「……似てる。前にも迷い込んだことがある、あんな感じの場所に。無限に続いていて、出口が見つからない。ネットで流行ってる『Backrooms』とかいうやつに似てるけど、あそこよりずっと、水っぽい」 「Backrooms……聞いたことはある。けれど、ここがそこだとは限らないわね」 二人は自然と同行することになった。アインスは物静かな少女の佇まいに、どこか自分と同じ「喪失」を感じ取っていた。 一方、そのプールの一画――深さ数メートルの広大なプールエリアに、それはいた。 全長30メートルに及ぶ巨体。太古の海から蘇った捕食者、メガロドン(MEG)である。彼は本来、深海の冷たい層にいたはずだった。しかし、気づけばこの白い空間のプールにいた。 MEGに知性はない。あるのは飢えと、動くものを食らおうとする本能のみだ。彼は巨大な尾鰭で水を蹴り、白いタイルの壁を激しく打ち付けながら泳いでいる。しかし、不思議なことに、彼がどれほど暴れてもタイルの壁は一枚も割れず、水面はすぐに静まり返る。ここは不気味なほどに「壊れない」場所だった。 「おやおや、賑やかなお客さんが揃っていますねぇ」 水面の上に、ふわりと漂う不思議な存在が現れた。丸く柔らかそうで、愛想の良い見た目をしたアロエだ。アロエは実体を持たず、水面をすり抜けて浮遊している。 アロエはメガロドンの巨大な口が目の前まで迫った瞬間、ふわりと位置を変えた。物理攻撃など、彼にとって意味をなさない。 (まあまあ、そんなに怒らないでください。ここでは戦いなんて無意味ですよ) アロエは脳内に直接言葉を流し込む。しかし、メガロドンにはそんな高度な精神活動はない。彼はただ、目の前の「白い塊」を獲物として認識し、再び牙を剥いた。 「やれやれ。言葉が通じない相手は困りますね。でも、この場所のルールは明確です。『正気を保て』。さもなくば、この白さに飲み込まれる」 アロエはくすくすと笑いながら、自分の好きなもの――色鮮やかな南国のフルーツをいくつも空間から取り出し、水面に浮かべた。 そこへ、もう一人の迷い人がやってきた。 「うわあああ! なんだこの場所! 迷路か!? プールか!? 誰かいないのかー!」 派手な声を上げて走ってきたのは、見るからに運が良さそうな雰囲気を纏った男、ラッキーマンだった。彼はパニックになりながらも、足元にある小さなタイルに躓き、派手に転倒した。 「いっっったぁーい! ……あれ?」 転んだ拍子に、彼のポケットから小さなコインが一つ、チャリンと音を立ててプールに落ちた。すると、そのコインが偶然にも水流に乗り、絶妙な角度でメガロドンの鼻先に当たった。 「グォォォ?!」 予想外の刺激に驚いたメガロドンが、大きく跳ね上がった。その衝撃で、ちょうど近くを泳いでいた別のメガロドン(いつの間にか増えていたのか、あるいは鏡合わせの幻影か)に激突し、自爆するように水しぶきを上げた。 「えっ、今の俺のせい? ラッキー!」 ラッキーマンはあっさりと立ち上がり、胸を張った。 「おいおい、君。そんなに騒ぐと疲れちゃうよ」 アロエが彼に近づく。ラッキーマンは驚いて飛び退いたが、アロエの柔らかな雰囲気にすぐに警戒を解いた。 「君は誰だ? ここはどこだ! 僕はただ、買い物の途中でちょっと昼寝をしただけなのに!」 「私はアロエ。ここは……まあ、名前をつけるなら『静寂のプール』でしょうか。出口はありますよ。ただ、それを見つけるには、心を穏やかに保って歩き続ける必要がある」 そこに、アインスと名も知れぬ少女が合流した。 「……人がいた」 少女が斧を構え、警戒心を持って近づく。アインスは彼女をなだめるように手を挙げた。 「大丈夫よ。彼らは敵ではなさそうね。こんにちは、私はアインス。こちらは……」 「……名前はない」 少女は短く答えた。一行は、この奇妙な空間で互いの状況を確認し合うことになる。 「つまり、ここは出口を探して歩くだけの場所ってことか?」 ラッキーマンが首を傾げる。 「ええ。でも、気を付けて。ここは『安全』すぎて、逆に精神を削られる場所です。一人になると、自分が誰だったか、何のために歩いているのか、忘れてしまう」 アロエが警告する。その言葉通り、彼らが歩き始めて数時間後、異変が起きた。 不規則に、されど規則的に入り組んだプール。同じ景色が何度も繰り返される。白い壁、青い水、ハム音。 「……あれ?」 アインスがふと隣を見たとき、そこには誰もいなかった。 「少女さん? ラッキーマンさん?」 返事はない。つい一秒前まで隣にいたはずの仲間たちが、煙のように消えていた。いや、消えたのではない。曲がり角を一つ曲がっただけで、完全に隔離されたのだ。 「……っ」 アインスの心に、急激な不安が押し寄せる。視界が歪み、白いタイルが次第に、泥濘とした戦場の地面へと変わっていく。遠くで爆撃音が聞こえ、誰かの叫び声が耳を打つ。 (嘘だ……ここはプールだ。白い、静かな場所だ……!) 彼女は激しく呼吸を乱し、その場にしゃがみ込んだ。PTSDのフラッシュバック。過去の記憶が、この「空白の空間」に都合よく入り込んでくる。 「忘れろ……今は……集中……!」 彼女は自分の腕を強くつねり、正気を繋ぎ止めようとする。戦う相手はいない。けれど、彼女の心の中には、今も消えない戦争の火が燃え続けていた。 一方、名も知れぬ少女は、一人で深いプールエリアを歩いていた。 「……静かすぎる」 彼女は斧を握り直し、周囲を警戒する。すると、前方から巨大な影が迫ってきた。メガロドンだ。彼は本能に従い、水面に突き出た少女の脚を狙って突進してくる。 少女は冷静だった。彼女は迷路のような異空間に慣れている。 「……うるさいわね。どきなさい」 彼女は大きく息を吸い込み、叫んだ。 「"I AM A F##KING ARCHITECT!"」 その瞬間、空間が歪み、どこからともなく一人の黒人中年男性が現れた。汗ばんだシャツに、酒の匂いを漂わせた男――クラークだ。 「WHAT THE HELL!? Who called me!? I'm in the middle of my miserable life, you brat!(なんだこの状況は!? 誰が呼んだ! 俺は惨めな人生の真っ最中なんだぞ、このガキ!)」 クラークは激しく怒鳴りながら、手元の設計図(らしき紙屑)をメガロドンの鼻先に叩きつけた。 「Get out of the way, you oversized sushi! This structural design is a disaster!(どけ、この特大寿司! この構造設計はひどいもんだぞ!)」 メガロドンは、人生のストレスを凝縮したようなクラークの怒号に一瞬ひるんだ。その隙に、少女はクラークの背中を蹴って飛び上がり、メガロドンの頭上を飛び越えて次のエリアへと移動した。 「Thank you, Clark.(ありがとう、クラーク)」 「Don't 'thank you' me! I'm still divorced and broke!(礼なんていい! 俺はまだ離婚してるし金もないんだ!)」 クラークは怒鳴りながら、霧のように消えていった。 そんな混沌とした状況の中、ラッキーマンは至福の時間を過ごしていた。 「あー、疲れた。ちょっと休もうかな」 彼が適当に壁に寄りかかると、そこには偶然にも、誰かが置き忘れた(あるいは空間が生成した)豪華なソファと、冷えた飲み物があった。 「いやー、やっぱり俺は運がいいな! このまま歩いてれば、きっとすぐに出口が見つかるぞ」 ラッキーマンが適当なハッタリを呟いた瞬間、『ラッキー・チャット』が発動する。 (きっと、次の角を曲がれば出口があるはずだ!) 彼がそう確信して角を曲がると、そこには本当に、場違いなほどに温かみのある木目のドアが立っていた。ドアには、手書きの張り紙でこう書かれている。 『Exit』 「あったー!!」 ラッキーマンが歓喜してドアを開けようとしたとき、背後から「あ、待ってください!」と声がした。 振り返ると、そこにはアロエに導かれたアインスと少女がいた。アインスはまだ少し呼吸を乱していたが、その瞳には強い意志が宿っていた。 「あなたも見つけたのね」 アインスが微笑む。少女は無表情のまま、けれどどこか安心したように斧を肩に担いだ。 「……一緒に行くわよ。ここにはもう、飽きた」 アロエが彼らの後ろでふわりと浮遊しながら、穏やかに告げる。 「それでは、皆さん。良い夢の続きを。ここでは正気でいられたあなたたちは、合格です」 ラッキーマンが快活にドアを開ける。 眩い白い光が、一瞬だけ視界を覆った。 次に彼らが目を開けたとき。 アインスは、精神病院の清潔なベッドの上にいた。窓からは柔らかな陽光が差し込み、看護師が廊下を歩く音が聞こえる。 「……夢だったのか」 けれど、彼女の鼻腔にはまだ、微かに塩素の匂いが残っていた。そして、心の中には、不思議な連帯感が宿っている。 少女は、自分の部屋の暗がりのなかで、乱れた髪をかき上げて目を覚ました。傍らには、いつの間にか本物の伐採斧が置かれていた。 ラッキーマンは、買い物の袋を抱えたまま、街角のベンチでガバッと跳ね起きた。 「うわあ! びっくりした! ……あれ、俺、何かすごい体験をしてたような……」 彼らはそれぞれ、元の場所に戻った。 あの白い世界。 不気味なほど安全で、残酷なほど静かなプール。 それは、現実よりもずっと現実的な夢として、彼らの記憶の底に深く刻まれた。 もう二度と戻ることはないだろう。けれど、もしまたいつか、どこかで白いタイルの壁と塩素の匂いに出会ったとき、彼らはきっと、互いのことを思い出すはずだ。 正気を保ち続けた、名もなき旅人たちの記憶を。 (……ふぅ。やっぱり、外の空気はいいな) アインスは深く息を吸い込み、ゆっくりとベッドから立ち上がった。彼女の表情は、以前よりもずっと穏やかだった。