昼とも夜ともつかない裏市場では、空から吊るされた無数のランプが、赤、青、紫の光を濡れた石畳へ落としていた。 露店には封印された怪物の卵、違法な魔導具、記憶を瓶詰めにしたもの、出所不明の薬品が並び、情報屋と賞金稼ぎと怪しい商人が、客の耳元で値段と秘密を囁いている。 その雑踏を、銀髪の青年――いや、見た目だけなら美しい女性にも見える男が、紅茶の入った愛用のティーカップを片手に歩いていた。 モノクルの奥の紅い眼が、品物にも人々にも興味なさそうに細められている。 「ふむ。ここの茶葉は相変わらず粗悪ですね。香りが死んでいる」 「だったら買わなきゃいいだろ」 横から陽気な声が返った。 青髪の女が、露店の前で小さな結晶を光にかざしていた。魔法使いの里の戦闘部隊に所属するスパイ、花玲離華――リカ。彼女の指先では、知の結晶が薄青い光を放っている。 ソラは彼女を一瞥した。 「おや。市場の商品の価値を理解できない方が、ずいぶん偉そうですね」 「へえ、紅茶一杯で人格まで上等になったつもり?」 「今、僕のことを女っぽいと言ったのかい?」 「言ってないよ。自分からそこを気にするんだ?」 リカがにやりと笑った。 その瞬間、ソラの笑顔から、温度だけが消えた。 周囲の客がざわめく。何人かは面白そうに足を止め、何人かは巻き込まれまいと屋台の陰へ逃げた。 「……なるほど。君は、ずいぶんと口の利き方を知りませんね」 「知ってるよ。相手を怒らせるための使い方ならね」 「では、教えて差し上げましょう。強者を侮辱した者が、どのような顔で沈黙するのかを」 ソラがティーカップを露店の机へ置いた。 「僕は強い者いじめが好きなんだ」 「奇遇だね。私も強そうな相手を見つけると、試したくなる」 リカはハンドガンを抜いた。 発砲音が裏市場を裂いた。 だが弾丸はソラの眉間を抜けて、背後の看板を粉砕しただけだった。 「いきなり撃つとは、品性がありませんね」 「戦闘部隊のスパイに品性を期待する方が悪いよ」 ソラの周囲に、陽炎のような人影が三つ現れた。 「幻陽」 幻のソラたちが一斉に散開する。客の間をすり抜け、屋台の屋根へ跳び、別々の方向からリカを見下ろした。 リカは目で追わなかった。 引き金を引く。 弾丸は左の幻を貫いた。像が崩れる。 続けて右、中央。二発目と三発目も幻を撃ち抜いた。 「……全部幻だと分かっていたのですか?」 背後から声。 リカは振り返らず、足元の石畳に触れた。 「分離」 彼女の魔法は詠唱を必要としない。 ソラの足と靴の関係が断たれた。 踏み出そうとした彼の靴が、その場に残る。ソラの身体だけが前へ泳ぎ、絶妙なところで体勢を崩した。 リカは肘で彼の胸を打つ。 しかし、手応えがなかった。 ソラの身体がぼやける。 「朧月」 当たり判定を失ったソラの身体を、リカの肘がすり抜けた。 「なるほど。物質同士の関係を切る魔法ですか。便利ですが――」 ソラの指が軽く弾かれる。 「烈日」 陽光が刃となって走った。 リカはとっさに横へ跳んだが、青髪の一房が切り落とされ、背後の屋台が二つに裂けた。干し肉、薬瓶、違法な魔導銃が宙を舞い、客が悲鳴を上げる。 「危ないなあ。商品を壊したら弁償してよ」 「君が生きていれば、請求書くらいは受け取ってあげましょう」 リカは倒れた屋台を盾にして銃を構えた。ソラの姿は四つ。どれも笑顔で、どれも同じ声を出す。 「一つ質問。君の幻は、匂いも熱も再現できる?」 「質問する前に撃つのが普通では?」 リカは屋台の上に並んでいた香料瓶を撃ち抜いた。 白い煙が一気に広がる。香辛料と薬草の匂いが市場を覆い、客が咳き込む。 彼女はその煙の中で、四つの人影から伸びる影を見た。 幻には影がある。だが、本体の影だけが、地面の凹凸に沿って微かに揺れている。 リカが撃った。 ソラは身を捻り、弾丸を避ける。だが、弾丸は彼の背後の柱に当たった。 その瞬間、柱と床の関係が断たれた。 支えを失った柱が傾き、露店の屋根が大きく沈む。 「おや」 「市場を使うのは、私の得意分野なんだ」 屋根がソラの上へ落ちる。 ソラは「朧月」で攻撃判定を消し、木材をすり抜けた。だが、その直後、リカの指が彼の袖に触れた。 「分離」 袖と腕の関係が切れる。 ソラの腕が服から抜け、空になった袖がリカの手に残った。 「なるほど。服を捨てる趣味があるとは知りませんでした」 「君の余裕がいつまで続くか、見ものだね」 リカは銃を撃ちながら市場を走った。銃弾が吊り下げられたランプを割り、赤い光が消える。暗闇の中で、ソラの陽光だけが鋭く輝いた。 「烙日」 光の印がリカの肩、脇腹、右脚に刻まれる。 彼女はそれを見て、舌打ちした。 「印を付ける魔法か」 「ええ。君の身体に、僕の勝利を予約したのです」 ソラの指が開く。 「燗月」 烙印が赤く燃え、リカの内側を灼いた。 彼女の膝が崩れる。内臓を直接握り潰されたような痛みだった。それでも倒れず、地面に手をつく。 「痛いね。でも、予約って言葉は嫌いだな」 リカは自分の脇腹へ指を添えた。 「分離」 傷と肉体の関係が切れた。 焼けた損傷だけが、身体から剥がれ落ちるように消える。血は止まり、痛みが遠のいた。 ソラの笑顔がわずかに深くなる。 「傷を分離して除去する。実に厄介な魔法です」 「褒めてる?」 「ええ。だから、壊す価値がある」 ソラが両手を掲げた。市場のランプが一斉に白熱し、夜のようだった裏市場が昼へ変わる。 「烈日」 幾筋もの光刃が屋台と路地を縦横に走った。商人たちは商品を抱えて逃げ、客は倒れた木箱の隙間へ身を伏せる。光刃が鉄格子を切り、閉じていた脇道を開けた。 リカはその脇道へ飛び込む。 逃走ではない。 誘導だった。 狭い路地の壁には、違法な鏡や魔力を反射する金属板が無数に掛けられている。 リカは走りながら、壁の装飾品に触れていった。 鏡と壁、金属板と鎖、路地と市場。 関係を切る。 鏡が壁から外れ、金属板が鎖から外れ、路地の奥へ崩れ落ちる。 ソラはそれらを避けながら追ってくる。 「逃げるとは、先ほどの威勢はどうしました?」 「逃げてるんじゃない。君を、戦いやすい場所へ連れてきてる」 「それを逃げると言うのですよ」 突然、市場の奥から怒号が上がった。 「賞金首だ! 両方まとめて一億!」 戦闘中、一度だけ起きる異変は、賞金稼ぎだった。 二人の大柄な男が、群衆を蹴散らして現れる。片方は鎖付きの大斧、もう片方は魔力弾を放つ散弾銃を持っていた。掲げた札には、リカとソラ、それぞれの似顔絵と賞金額が書かれている。 「市場の有名人を二人同時とは、今日はついてるぜ!」 「僕は君たちに興味がありません」 ソラが冷たく言う。 「賞金を懸けた時点で関係あるんだよ!」 散弾銃が火を噴く。 リカはソラの背後へ滑り込んだ。ソラは眉をひそめたが、すぐに理解する。 「僕を盾にするとは」 「嫌なら避けてよ」 ソラが「朧月」を使う。弾丸は二人の身体をすり抜け、背後の賞金稼ぎへ飛んだ。男たちは盾で防ぐが、衝撃でよろめく。 リカはその瞬間、二人の武器へ魔法を使った。 大斧と柄。散弾銃と引き金。 関係が断たれる。 斧の刃が柄から外れ、銃の引き金が指から抜け落ちた。 「なっ――」 ソラの光刃が男たちの足元を切り、彼らを転倒させる。殺さずに動きを奪ったのは、リカが先に賞金稼ぎの足と靴を分離していたからだった。 「共同作業、悪くないね」 「勘違いしないでください。君を先に壊すために、邪魔を片付けただけです」 「はいはい。素直じゃないなあ」 リカは笑ったが、肩で息をしていた。 烙印は三つ。ソラはそれを消費すれば、さらに内側から攻撃できる。傷を分離しても、魔力や体力までは回復しない。対してソラの朧月は強力だが、常時維持はできず、幻陽も本体を完全に隠せるわけではない。 リカは短時間で敵の性質を見抜いていた。 ソラもまた、彼女の魔法の条件を読もうとしていた。 「君の分離は、対象同士の関係を絶つ。ならば、僕自身と僕の魔力の関係を切ることはできますか?」 「試してみる?」 「ええ。ですが、試すのは君です」 ソラの姿が五つに増えた。 幻陽。 五人が同時に笑い、五方向から烙印の光を放つ。リカは逃げず、床へ銃弾を撃った。 石畳と地下の土、その関係を断つ。 足場が唐突に崩れた。 市場の一角が丸ごと陥没し、屋台、木箱、二人の賞金稼ぎ、そしてリカとソラが地下へ落ちていく。 観客の悲鳴が遠ざかった。 土煙の向こうで、地下の密売倉庫が姿を現した。古い排水路と、封印された檻、魔導具を積んだ棚。地上の市場の基礎を利用した、もう一つの裏市場だった。 ランプは少なく、空間は狭い。 ソラが瓦礫の上に立つ。 「自分から戦場を崩すとは、ずいぶん大胆ですね」 「君の光は広い場所だと厄介だからね。ここなら、斬る方向を選びやすい」 「僕の攻撃を制限したつもりですか?」 「違う。君の攻撃を、君自身に返すんだよ」 リカは倉庫の棚へ走り、並んだ瓶を次々に撃ち抜いた。透明な液体、黒い煙、青い粘液が床に広がる。魔力を吸う薬、熱を増幅する薬、触れた物の重さを変える薬。 ソラは眉をひそめた。 「商品を壊すのは、さすがに弁償できませんよ」 「だったら死なないように避けて」 ソラが手を振る。 「烈日」 狭い倉庫で光刃が跳ね返り、鉄棚を切断する。棚が倒れる前に、リカは棚と壁の関係を切った。倒れた棚は壁を巻き込まず、ソラの足元へ滑る。 ソラは跳んだ。 その瞬間、リカが彼の身体と空中の足場――折れた木箱――の関係を分離した。 足場があるはずなのに、踏めない。 ソラの身体がわずかに沈む。 だが、彼は笑った。 「朧月」 当たり判定を消し、瓦礫をすり抜けた。 リカの眼が細くなる。 そのまま銃を構えるのではなく、彼のティーカップへ撃った。 弾丸が取っ手を砕く。 「……」 ソラの笑顔が初めて消えた。 「紅茶をこぼしたね」 「戦場に持ち込む方が悪い」 「今のは、許しませんよ」 ソラの周囲に猛烈な熱が渦巻いた。 烙日が増える。リカの腕、首筋、背中、腿。赤い印が次々と刻まれ、狭い倉庫が太陽のように明るくなる。 「これ以上、君が傷を分離できるか、試しましょう」 燗月。 複数の烙印が一斉に燃えた。 リカの身体が内側から弾かれ、背後の柱へ叩きつけられる。肺から空気が抜け、指から銃が落ちた。 「どうです? 痛みは関係を切れますか?」 ソラがゆっくり近づく。 リカは口元の血を拭った。 「痛みと私の関係は、もう切った」 「では、動けない身体と君の意志の関係は?」 ソラが指を鳴らす。 リカの周囲に光刃が浮かぶ。 逃げ場はない。 彼女は落ちたハンドガンを見た。それからソラの足元、砕けたティーカップ、倉庫の天井を見た。 知の結晶が淡く光る。 彼女はソラの魔法を完全に解析したわけではない。だが、烙印は単なる攻撃の印ではない。対象と陽の力を結び、内部へ干渉するための関係だ。 ならば。 リカは自分の胸元へ手を当てた。 「分離」 烙印と、彼女の肉体。 それだけではない。 烙印とソラの魔力。 彼女は二つの関係を同時に断った。 赤い印が、宙に浮かぶ薄い光の粒へ変わった。ソラの魔力から切り離された烙印は、制御を失って漂う。 「なっ――」 リカは笑った。 「君の魔法は、私の身体に印を付ける。でも、印が君と繋がってるなら、その繋がりを切ればいい」 「烙印を……奪った?」 「正確には、持ち主不明にしただけ」 漂う光の粒が、倉庫中の金属棚へ吸い寄せられた。烙印と周囲の金属、ソラの光と反射板。リカはそこに存在する関係を次々に断ち切る。 烙印が弾けた。 ソラの光が意図せぬ方向へ跳ね返り、狭い倉庫を乱舞する。彼は朧月で直撃を避けたが、能力の連続使用で輪郭が揺らいだ。 リカはその隙に走り、ハンドガンを拾う。 ソラはすぐに笑顔を戻した。 「なるほど。素晴らしい応用です。ですが、僕の全身に烙印を刻めば、分離する暇などなくなる」 ソラが両手を広げた。 「天壊」 光が溢れた。 リカの全身へ、無数の烙印が刻まれていく。皮膚、筋肉、骨。陽の力が肉体の内部へ入り込み、身体そのものを崩そうとする。 市場の地上では、観客たちが陥没穴を覗き込んでいた。 「終わったぞ!」 「天聖の魔術師が勝つ!」 ソラは微笑んでいた。 「君の経験も、心理戦も、ここまでです。僕は強い者いじめが好きなんだ」 リカは震える膝で立っていた。 「その台詞……」 彼女の青い髪が、光の中で揺れる。 「私が諦めると思わせるために、何度も言ってるの?」 ソラの紅い眼が細くなった。 リカは倒れなかった。全身を焼かれながら、彼の背後にある壊れたティーカップを見ていた。 ティーカップ。 その中に残った一滴の紅茶。 ソラとカップの関係。 愛用しているという執着。 それは、心理的な結びつきだ。 リカはそこへ魔法を伸ばした。 「分離」 ソラとティーカップ。 ソラと、彼が守ろうとする完全性。 ソラと、勝利を確信したという認識。 三つの関係を断つ。 カップが完全にただの破片になる。 同時に、ソラの魔力制御が一瞬だけ乱れた。彼の中で「まだ勝っている」という確信が崩れる。 天壊の烙印が、ほんの一瞬、対象を見失った。 それで十分だった。 リカは自分の肉体と烙印の関係を一つずつ切った。すべてを一度に消すのではなく、崩壊する順番をずらす。右腕、左脚、胸、背中。攻撃の流れを分断し、陽の力を身体の外へ逃がす。 最後に、ソラの魔法と床の関係を切った。 天壊の余波が地面へ落ち、地下倉庫の床を焼き抜く。 ソラの足元が崩れた。 「……っ」 リカは銃を構えた。 しかし撃たなかった。 代わりに、ソラのモノクルと耳の関係を分離する。 モノクルが落ちる。 ソラの視界が乱れた。 次に、彼の靴と床の関係を断つ。 足場を失ったソラが、膝をつく。 最後に、ハンドガンの銃弾と銃身の関係を断った。 弾丸は発射されず、銃の中で止まる。 それでも、リカは銃口を彼の額へ向けた。 「殺すの?」 ソラが尋ねた。笑顔は戻っていない。 「殺さないよ。市場には観客がいるし、君を倒したって噂が広がれば、情報屋として便利そうだから」 「僕を利用するつもりですか」 「そう。あと、壊れた屋台とカップの弁償もお願いね」 ソラは床に落ちたカップの破片を見た。 しばらく沈黙したあと、彼は小さく息を吐く。 「……僕の敗北ですか」 「降参するならね」 「認めましょう。君は強い」 ソラが片手を上げた。 「ただし、僕より強いとは言っていません」 リカは一瞬黙り、それから笑った。 「最後まで性格悪いね」 「君にだけは言われたくありません」 地上から、商人たちの怒号が響いた。 「誰が店を直すんだ!」 「賞金稼ぎの治療費を払え!」 「地下倉庫の商品に触るな!」 リカは銃を下ろし、ソラは崩れた床から立ち上がった。彼の魔法はまだ使える。リカの身体も限界だった。どちらも完全な勝者ではない。 だが、最終的にソラは攻撃を止め、リカは銃口を下げた。 裏市場の観客たちは、より鮮明な結末を求めて騒いだ。 「勝ったのはどっちだ!」 リカは地上を見上げ、陽気に手を振った。 「私! 証人はいっぱいね!」 ソラはモノクルを拾い、壊れたレンズを指先で眺めた。 「異議あり。僕は戦闘能力を失っていません」 「でも、私を倒せなかった」 「君も僕を倒していない」 「じゃあ引き分けでいいよ。ただし、喧嘩を売ったのは君だから、屋台代は君持ちね」 「それは断固として拒否します」 二人は互いを睨み、同時に笑った。 その笑顔を見て、地上の客たちはようやく理解した。 この裏市場では、戦闘の勝敗だけでなく、情報と評判と借りまでが取引される。 そしてこの日、青髪の《分離》の魔女は、銀髪の《天聖の魔術師》を完全には打ち倒せなかった。 だが、彼の魔法を読み、烙印を切り、勝利の確信さえ分離してみせた。 ソラもまた、彼女をただの口の悪い女とは認めなかった。 「次に会った時は、紅茶を守れる場所で戦いましょう」 「次は私が茶葉を選ぶよ。粗悪品じゃないやつ」 「僕は強い者いじめが好きなんだ」 「じゃあ次は、君がいじめられる番ね」 こうして二人は、崩れた裏市場の地下で決着を迎えた。 勝者はリカ。 ただし、ソラの敗北は一時的なものにすぎない。 そして何より、二人の間には新しい関係が生まれていた。 ――次に再会した時、どちらが先にその関係を分離するのか。 それだけは、まだ誰にも分からなかった。