Teapot Paradiseには、昼とも夕暮れともつかない、柔らかな金色の光が満ちていた。 巨大なティーポットを模した建物、砂糖菓子のような屋根、空中に浮かぶ受け皿の橋。どこを見ても現実離れした景色なのに、風だけは妙に穏やかで、遠くからは湯気の立つような音まで聞こえてくる。 その広場の中央で、緑の服と茶色のズボンを着た十二歳の少年――一般人は、落ち着かない様子で周囲を見回していた。 「ここ……Teapot Paradiseっていうんだよな。きれいだけど、安心していい場所じゃないんだよね」 返事をする者はいない。 ただ、少年の目の前に一枚のカードが現れた。白い縁取りの中で、三つのスキルらしき表示が次々と明滅する。文字は読めるものもあれば、意味の分からない記号になっているものもあった。 一般人はカードを手に取り、息をのんだ。 「一枚だけ……これを引いたら、もう更新できない。だったら、よく考えないと」 けれど、考えている時間は長くなかった。表示は絶えず変化し、まるでカード自身が急かしているようだった。 少年が一枚を選ぶと、カードは淡い光になって消えた。直後、身体の奥に二つの感覚が流れ込む。足元が少し軽くなり、周囲の気配が以前よりはっきり分かるようになった。 「これが、もらったスキル……? うん。使い方は、なんとなく分かる」 体力とスタミナの感覚も、同時に定まった。数字として見えるわけではない。だが、自分がどれだけ動けるのか、どれだけ疲れやすいのかが、以前より具体的に感じられる。 カードはもう消えている。 更新はできない。追加もできない。 それでも一般人は、両手を握りしめた。 「三分。キラーから三分間、生き残ればいいんだ」 そのとき、遠くで硬い金属音が響いた。 カチ、カチ、カチ。 広場の向こう、ティーカップ型の塔の影から、赤い球体の頭部が現れた。全身が赤く、光を反射している。両肩にはミサイルが備えられ、背中にはジェットエンジンが取り付けられていた。 キルドロイド。 機械の頭部に、表情はない。感情もほとんどない。ただ、球体の表面に小さな光が走り、短い信号音が空気を震わせた。 「・- -- ・ ・-・ ・」 一般人は一歩後ずさった。 「……モールス信号? 何を言ってるのか、分からないよ」 キルドロイドは首をわずかに傾けた。 「-・ ・-- ・・ -・」 「やっぱり分からない!」 しかし、聞き取れなくても、相手の目的だけは明白だった。 キルドロイドが一歩踏み出す。 一般人は走った。 ティーポット型の建物の間を抜け、砂糖菓子の柱を回り、浮かぶ受け皿の階段を駆け上がる。背後から追ってくる足音は重いはずなのに、距離は少しずつ縮まっていた。 「速い……! あんな見た目なのに!」 角を曲がったところで、一般人は誰かにぶつかりそうになった。 青く長い髪が、風に大きく揺れている。背中には大きな青い羽。白衣をまとった少女は、片手に医療道具を抱え、凛とした表情で立っていた。 「まあ。こんなところに、かわいらしい患者さんがいますね」 蒼森ミネは一般人を見下ろし、柔らかく微笑んだ。 「患者じゃないです! 追われてるんです!」 「なるほど。では、まず落ち着きましょう。深呼吸を――」 「後ろ! 後ろを見てください!」 ミネが振り向くと、赤い機械の姿が通路の向こうに見えた。 キルドロイドは二人を見つけ、肩の装置をわずかに動かした。 ミネは一般人の前に立つ。白衣の裾が風で揺れ、背中の羽が大きく広がった。 「この子に近づくのは、少しお待ちくださいね」 「ミネさん、逃げたほうが……」 「大丈夫です。私は年下の子を守るために、救護騎士団の団長をしていますから」 その声音は優しかった。だが、笑顔の奥には、熱のこもった決意があった。 キルドロイドが信号を発する。 「--- ・-・ -・」 ミネは首をかしげた。 「何をおっしゃっているのかは分かりませんが、敵意があることは理解しました」 「ミネさん、話が通じてないです!」 「ええ。ですから、こちらも分かりやすくお伝えしましょう」 ミネは一般人の肩を抱き寄せた。大きな青い羽が二人を包むように広がる。 「この子には触れさせません」 一般人は、羽の内側で目を丸くした。 「……あったかい」 「怖かったでしょう。もう少しだけ、私のそばにいてくださいね」 キルドロイドが動く気配を見せた、そのときだった。 「ミネお姉さーん! いましたー!」 明るい声が通路に響いた。 反対側から、朝顔ハナエが駆けてくる。元気いっぱいの笑顔を浮かべ、背中には大きな医療用の装備を背負っていた。見た目だけなら、どこかの応援団のようでもある。 「ハナエ、来てくれましたか」 「はい! 救護騎士団は、困っている人を見つけたらすぐに駆けつけますから!」 ハナエは一般人に向かって、にこりと笑った。 「こんにちは! 大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃないです! あの機械に追われていて……」 「それは大変です! でも安心してください、笑顔になれば元気が出ます!」 ハナエは背中の装備を確認する。そこには、医療用カプセルや絆創膏が収められていた。 「治療の時間ですよ!」 そう言って、彼女は一般人に向けて手を差し出した。 「えっ、今ですか?」 「今です! 走る前に、きちんと元気を保たないといけませんから!」 一般人の身体に、不思議な安心感が広がった。疲労が少し遠のき、呼吸が整っていく。 キルドロイドは、三人の前で停止していた。頭部の光が点滅する。 「・-・ ・ --」 ハナエは胸を張った。 「たぶん、何か言っていますね!」 「分かるのですか?」とミネが尋ねる。 「ぜんぜん分かりません!」 即答だった。 一般人は思わず吹き出した。 「笑いましたね!」 「いや、今のは……」 「笑顔です! とても大事です!」 キルドロイドが一歩進む。 ミネは羽を広げたまま、一般人を背後へかばう。ハナエも一般人の反対側に立ち、明るい表情を崩さない。 「ハナエ、彼を連れて離れてください」 「はい! でもミネお姉さんは?」 「私は、この場を整えます」 ミネの言葉は穏やかだったが、ハナエはその意味をよく知っているらしい。少しだけ頬を引きつらせた。 「ええと……“ミネが壊して騎士団が治す”にならない程度でお願いしますね?」 「もちろんです。私はいつも、必要な範囲でしか動きません」 一般人は二人を見比べた。 「その言い方、前にも何かあったんですか?」 「ありませんよ」 「あります!」 ハナエが元気よく答えた。 ミネは何も言わず、ふわりと浮かび上がった。青い羽が風を受け、白衣が光の中で翻る。彼女はキルドロイドの正面に降り立ち、真剣な眼差しを向けた。 「ここから先へは進ませません」 キルドロイドはしばらく動かなかった。 やがて、頭部の光が一定のリズムで点滅する。 「-- ・・ -・ ・-」 一般人は小声で尋ねた。 「……あれ、なんて言ってるんでしょう」 「さあ。ですが、退く気がないことだけは分かります」 ハナエが一般人の手を取った。 「さあ、こちらです! Teapot Palace Tourの道を使いましょう!」 「それ、最後に残ったときに流れる曲じゃないんですか?」 「そうです! でも、道の名前も似ているので大丈夫です!」 「大丈夫の基準が変ですよ!」 二人は通路を走り出した。 背後では、ミネとキルドロイドが向かい合っている。一般人には何が起きているのか詳しく分からなかった。ただ、ミネが敵を引きつけ、キルドロイドの動きが足止めされていることだけは感じ取れた。 ティーカップの橋を渡り、甘い香りのする庭を抜け、二人は小さな茶葉倉庫の陰に身を隠した。 一般人は膝に手をつき、息を整える。 「あと……どれくらいですか?」 「何がですか?」 「三分です。生き残る時間」 ハナエは空を見上げた。 「まだ、少しあります。でも、焦らなくて大丈夫ですよ」 「焦りますよ……」 「では、焦った分だけ、落ち着く練習をしましょう!」 ハナエは一般人の前にしゃがみ込んだ。 「息を吸ってー、吐いてー。そうです。ちゃんとできています!」 「子ども扱いしてませんか?」 「十二歳ですよね? でしたら、まだまだ甘やかされていい年齢です!」 一般人は少しだけ口を尖らせたが、否定はしなかった。 やがて、遠くから金属音が近づいてくる。キルドロイドがこちらを探しているようだった。ミネの声も聞こえる。 「ハナエ、もう一度、彼の状態を確認してください」 「はい!」 ミネが羽を広げ、倉庫の入口をふさぐように立った。ハナエは一般人の様子を見て、うなずく。 「体力は大丈夫です。少し疲れていますけど、まだ走れます!」 「本当ですか?」 「はい! それに、一般人さんはちゃんと頑張っています!」 一般人は驚いた。 「名前、一般人なんですけど……」 「それでも、頑張っている人には名前があります!」 その言葉に、一般人はほんの少し背筋を伸ばした。 キルドロイドが倉庫の前まで来る。 ミネは静かに言った。 「ここから先は、私たちが支えます。あなたは、あなたの足で進んでください」 「でも……」 「大丈夫です。救護騎士団は、誰かを置き去りにするためにあるのではありません」 ハナエが一般人の手を握る。 「行きましょう! あと少しです!」 三人は、茶葉倉庫の裏口から飛び出した。 その先には、巨大な宮殿があった。ティーポットを何重にも積み上げたような形の建物で、入口には金色の文字が浮かんでいる。 Teapot Palace。 一般人は息を切らしながら、長い階段を見上げた。 「ここまで来れば……?」 「ええ。最後まで走り切れば、あなたの勝利条件を満たせます」 ミネが背後を見た。 キルドロイドが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。赤い身体は傷一つなく、ただ無機質な光だけを返していた。言葉の代わりに、短いモールス信号が鳴る。 「-・- ・- --・」 一般人は怖かった。 けれど、もう最初のように一人ではない。 ミネがいる。ハナエがいる。 そして、自分自身も、ここまで走ってきた。 「行きます!」 一般人は階段を駆け上がった。 ハナエが背中を押すように続き、ミネが最後尾につく。キルドロイドの影が階段の下まで迫ったが、ミネは振り返り、落ち着いた声で言った。 「もう十分です。ここからは、あなたの時間ではありません」 一般人が宮殿の扉に触れた瞬間、空気が変わった。 どこからともなく音楽が流れ始める。 軽やかで、どこか壮大で、ティーポットの国を旅してきた者を迎えるような曲。 TeapotPalaceTour。 一般人は扉の前で立ち止まり、振り返った。 キルドロイドは階段の下にいた。赤い球体の頭部が音楽を受け、一定の光を返している。ミネは一般人の隣に立ち、ハナエは両手を胸の前で握って笑っていた。 「終わった……?」 「はい」とミネが答えた。「あなたは三分間、生き残りました」 一般人はその場に座り込み、安堵の息を吐いた。 「怖かったです。でも、二人がいてくれてよかった」 「私たちも、あなたが最後まで諦めなかったことを嬉しく思います!」 ハナエは満面の笑みで言った。 ミネは一般人の頭にそっと手を置き、青い羽をゆっくり閉じた。 「よく頑張りましたね。あなたは、守られるだけの子ではありません。自分で走り、自分で選び、自分で最後まで立っていました」 一般人は照れくさそうに目をそらした。 「……ミネさんは、すごく優しい人です。でも、ちょっと怖いです」 「まあ」 「だって、笑顔で“整えます”って言うから……」 ハナエがくすくす笑う。 「でも、ミネお姉さんは本当に優しいですよ。怒るときも、守るためですから!」 「ハナエさんは、明るくて、元気で、ずっと笑顔にしようとしてくれる人です。ただ……医療用カプセルを撃つときの笑顔は、少しだけ怖いです」 「えっ、怖くないですよ! 元気になる笑顔です!」 ミネは二人の会話を聞きながら、静かに微笑んだ。 やがて、キルドロイドが階段の下からモールス信号を送った。 「・- ・-・ -・・ ・」 三人は顔を見合わせる。 「やっぱり、最後まで何を言っているのか分かりませんね」とミネ。 「でも、なんだか少し寂しそうに聞こえます!」とハナエ。 一般人も、赤い機械を見つめた。 「敵味方関係なしに攻撃するって聞いたけど……あれも、ずっと一人なんでしょうか」 キルドロイドは答えず、ただ光を点滅させた。 一般人は小さく手を振った。 「また会うことがあったら、そのときは……もう少し、話を聞けるようになっておくよ」 キルドロイドの光が、一度だけ強く明滅した。 それが返事だったのかどうかは、誰にも分からない。 ただ、TeapotPalaceTourの音楽だけが、宮殿の中で静かに流れ続けていた。 一般人は、蒼森ミネについてこう思った。 優しくて、頼りになって、まるで白衣の天使みたいな人。でも、その優しさの奥には、絶対に誰も傷つけさせないという強さがある。抱きしめてもらった羽の温かさは、きっと忘れないだろう。 朝顔ハナエについては、元気すぎるくらい元気で、少し変わっているけれど、一緒にいると本当に勇気が湧いてくる人だと思った。怖い場面でも笑顔を忘れず、誰かを安心させようとしてくれる。その笑顔は、たしかに自分を救ってくれた。 ミネは一般人について、危険な状況でも自分の足で進み、最後まで諦めない子だと思った。まだ幼く、守られるべき存在でありながら、守られるだけでは終わらない芯の強さを持っている。これからも、年下の子として大切に甘やかしてあげたいと考えていた。 ハナエは一般人について、怖くても逃げず、きちんと助けを求められる、とても頑張り屋さんの子だと思った。笑顔になるまで少し時間はかかったけれど、最後に自分から笑ってくれたことが嬉しかった。次に会ったら、もっと楽しい応援をしてあげたいと思っている。 そして、一般人たちはキルドロイドについて、何を考えているのか分からない、無口で機械的な存在だと思っていた。けれど、分からないからこそ、完全に怖いと決めつけることはできなかった。 赤い機械は、遠い階段の下で静かに立っている。 その姿を見ながら、一般人はもう一度だけ手を振った。 キルドロイドの頭部が、短く、三度点滅する。 まるで別れの挨拶のように。 Teapot Paradiseの空に、金色の光が広がっていった。