冬の朝、星光流の道場には、場違いな鈴の音が響いていた。 ちりん、ちりん、と軽やかな音が板張りの床を渡り、壁に掛けられた木刀や手入れ道具の間を抜けていく。まだ稽古の始まる時刻には早い。道場の外では白い息が薄くほどけ、庭の木々には昨夜の霜が残っていた。 音の主は、赤い衣装をまとった白髪の老人だった。 赤い帽子。白い縁取り。腹のあたりで大きく膨らんだ衣装。背中には、なぜか空っぽの大きな袋まで背負っている。本人はたいそう満足そうに胸を張り、道場の中央に立っていた。 「メリークリスマスじゃ!」 ツルギおじいちゃんは、朗らかに宣言した。 入口でその姿を見たアストロは、しばらく何も言わなかった。手には稽古用の木剣が二本。静かな性格の彼は、驚いても声を荒らげることは少ない。だが、今だけはさすがに眉間へ深いしわが寄っていた。 「……師範。今日は、何月でしたっけ」 「十二月だな。そこだけは合ってる」 背後から答えたのはツキカゲだった。無精髭の目立つ四十一歳の男で、いつもなら陽気な笑みを浮かべている。しかし今朝は、笑顔の端が引きつっていた。片手には紙袋、もう片方には老人ホームから受け取ったらしい連絡帳がある。 その隣で、ステラが赤い衣装を指差した。 「でも、どうしてサンタさんの格好をしてるの? しかも道場で!」 「ワシはサンタじゃからのう」 「そこはもう、何回聞いても変わらないんだね……」 「プレゼントを配りに来たんじゃ。ほれ、そこの若者には剣を。そっちの元気な娘には靴下を。髭の男には胃薬をやろう」 ツルギは袋の中から、順番に品物を取り出した。 アストロには、古びた木製の鞘。ステラには、なぜか片方だけの靴下。ツキカゲには、箱に大きく「胃にやさしい」と書かれた薬の包みだった。 ツキカゲは薬を見つめ、それから老人を見つめた。 「……自分で言うのもなんだが、胃痛の原因はあなたなんだよ」 「ほう。ワシは善良なサンタじゃぞ?」 「その善良なサンタが、昨日だけで老人ホームから三回逃げ出してるんだ」 「ワシが? 老人ホームから?」 「そうです」 ステラが即答した。 「夜中に屋根を伝って出て、商店街でトナカイを探してたって聞いたよ」 「トナカイは見つかったかのう」 「見つかるわけないでしょ!」 ステラの声が道場に響いた。だがツルギは怒る様子もなく、頬を緩めている。昔の彼を知る者が見れば、その変化に胸を痛めたかもしれない。 かつてツルギは、二刀剣術・星光流の開祖だった。星光という異名を持ち、悪神と呼ばれた星神さえも自身の剣技で切り捨てたと伝えられている。冷静で寡黙な剣士。余計な言葉を使わず、ただ一度の動きで相手を圧倒する老人。 少なくとも、記録の中のツルギはそうだった。 今の彼は、赤いサンタ衣装で道場を歩き回り、門下生に菓子を配り、時々自分をトナカイだと言い出す。 そして、老人ホームから脱走するたびに、ツキカゲたちが迎えに行くことになる。 「今日は大人しく戻ってもらいますよ、おじいちゃん」 ツキカゲが、できるだけ穏やかな声で言った。 「老人ホームでは、クリスマス会を用意しているそうです。赤い服も必要なら貸してくれる。だから、わざわざ道場へ来なくてもいいでしょう」 「嫌じゃ」 「即答か」 「ここには弟子がおる。弟子には稽古が必要じゃ。サンタにも鍛錬が必要じゃ」 「サンタに剣の稽古は必要ないと思うよ」 ステラが口を挟むと、ツルギはきょとんとした。 「何を言う。良いサンタは、煙突を抜けるための足腰を鍛えねばならん」 「理屈が妙にそれっぽい……」 アストロは手にした木剣を見下ろした。彼はいつか最強の剣士になることを夢見ている。伝説の剣士、星光に強い憧れを抱き、星光流の門下生となった。 その憧れの本人が目の前にいる。けれど今のツルギは、憧れの剣士としてではなく、赤い帽子をかぶった困った老人として立っている。 アストロは、木剣を持ち直した。 「おじいちゃん。戻りましょう」 「おお、若者よ。ワシを手伝ってくれるのか」 「はい。老人ホームまで」 「では、そなたはワシのトナカイじゃ」 「……」 アストロは黙った。ステラが口元を押さえ、ツキカゲは空を仰いだ。 「アストロ、無理に返事しなくていいよ」 「分かってる」 「静かに受け入れたね……」 「騒いでも、状況は変わらないから」 その落ち着きぶりに、ツキカゲは少しだけ感心した。弟子たちは成長している。成長しているが、なぜ成長の方向が老人の扱いに特化しているのかは、考えないことにした。 ツキカゲは連絡帳を開いた。 「ええと、今日の予定は……老人ホームの職員さんが迎えに来るまで、ここで待機。ツルギさんを刺激しない。危険な物を持たせない。勝手に外へ出さない」 「ワシを子ども扱いするでない」 「子どもより手がかかる時があるから言ってるんです」 「ワシは八十九歳じゃぞ」 「そこは知ってます。誕生日も祝いましたよね。ケーキを三つ食べたあと、庭で雪だるまを作って、そのまま門を越えようとしたでしょう」 「雪だるまは門下生じゃった」 「違います」 またも即答したステラの声に、道場の空気が少し和らいだ。 普段の稽古なら、アストロとステラは木剣を手に向かい合い、互いの技を磨いている。アストロは星一閃や流星を学び、ステラは抜刀-光を極めようとしている。二人とも十六歳でありながら、剣士としての才能は高い。 だが、今日の課題は剣術ではなかった。 いかにしてツルギを怒らせず、逃げ出させず、老人ホームへ送り届けるか。 星光流の門下生にとって、それはもはや日常の課題だった。 「おじいちゃん、まずは朝ごはんを食べようか」 ステラが明るい声で言った。 「サンタは朝ごはんを食べるのかのう」 「食べるよ。トナカイだって食べるし」 アストロの目がわずかに動いた。 「俺もトナカイなのか」 「今はそういうことにしておいて」 「分かった」 ツルギは満足そうに頷いた。 「では、トナカイと娘よ。食堂へ行くぞ」 「私、娘じゃなくてステラって名前があるんだけどなあ」 「ステラ……星の名じゃな」 「そう。星光流だから、星にちなんだ名前なの」 「星光流?」 ツルギの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。 赤い帽子の下で、老いた瞳が静かに細められる。陽気なサンタの面影が薄れ、深い夜空のような落ち着きが戻った。 「うむ。良い名じゃ」 その声は、先ほどまでより低く、穏やかだった。 ステラは息を呑んだ。アストロも顔を上げる。ツキカゲだけが、わずかに目を伏せた。 ほんの一瞬でも、かつての師の姿が見えたからだ。 「ツルギさん」 ツキカゲが、静かに呼びかける。 「ワシは……」 ツルギは自分の手を見つめた。赤い手袋。その手袋の下には、幾十年も剣を握ってきた手がある。悪神を切り、弟子を導き、幾多の時代を見送ってきた手だ。 「ワシは、何をしておったのかのう」 誰もすぐには答えられなかった。 ステラは、無理に明るくしようとするのをやめた。アストロも木剣から手を離し、師を見つめていた。 「道場に来てくれたんだよ」 やがてステラが言った。 「私たちに会いに来てくれた。だから、それでいいんじゃないかな」 「そうかのう」 「うん。サンタの格好で来た理由は、まだ分からないけど」 「サンタじゃからじゃ」 ツルギはすぐに胸を張った。 ステラは苦笑し、アストロは小さく息を吐いた。だが、先ほどまでの困惑とは違う。そこには諦めだけではなく、受け入れようとする気持ちがあった。 ツキカゲは、連絡帳を閉じた。 「……朝飯にしましょう。今日は俺が作ります」 「師範が?」 「簡単なものならな。ツルギさんを見張りながら食事を作るくらい、もう慣れた」 「師範、最近ずっと胃が痛そうだけど」 「気のせいだ」 「その薬、飲んだほうがいいよ」 「ステラまで言うな」 四人は道場の隣にある小さな食堂へ移動した。 ツルギは椅子に座ると、袋から小さな鈴を取り出して机の上に置いた。鈴は動くたびに鳴り、ツキカゲの眉をぴくぴくと震わせた。 「それ、置いておいて大丈夫なの?」 ステラが尋ねる。 「大丈夫じゃない」 ツキカゲが即答した。 「でも、取り上げると騒ぐ」 「では、鈴を鳴らす競争をするかのう」 ツルギが言った。 「競争?」 「誰が一番長く鈴を鳴らせるかじゃ」 ステラの目が輝いた。 「それ、楽しそう!」 「乗るな!」 ツキカゲの叫びが食堂に響いた。 しかし、すでに遅かった。ステラは自分の前にあった匙を手に取り、鈴の横へ置く。アストロは少し迷ったあと、机を傷つけないように鈴を手のひらで包んだ。 「アストロまで……」 「老人ホームへ戻す前に、機嫌を良くしておく必要がある」 「お前は本当に合理的だな」 「師範も参加する?」 「俺はしない」 そう言いながら、ツキカゲは椅子に座った。結局、完全に離れることはできないらしい。 しばらくして、食堂には奇妙な音が満ちた。 ちりん、ちりん、ちりん。 ステラが笑いながら鈴を振り、アストロが一定の間隔で鳴らし、ツルギが突然思い出したように高らかに振る。ツキカゲは頭を抱えながらも、湯気の立つ粥をよそっていた。 朝食は穏やかに終わった。 穏やかに終わったように見えた。 しかし、食事を終えたツルギが窓の外を見た瞬間、その目が再び輝いた。 「そろそろ出発じゃ」 「どこへ?」 ステラが聞く。 「子どもたちにプレゼントを配りに行く」 「今日はまだ朝だよ」 「サンタの仕事に時間は関係ない」 「関係あるよ!」 ツキカゲが立ち上がった。 「ツルギさん、今日は老人ホームでクリスマス会があります。そこなら子どもたちも来る。プレゼントも配れます」 「本当かのう」 「本当です」 「では行くぞ」 ツルギは立ち上がり、袋を背負った。 アストロとステラもすぐに左右へつく。ツキカゲは前方へ回り、逃走経路を確認した。道場を出てから老人ホームまでは、歩いて十五分ほどの距離だ。 何度も通った道だった。 そして、何度も途中で逃げられた道でもある。 「おじいちゃん、今日は手をつなごうか」 「ワシは子どもではない」 「分かってるけど、転んだら危ないから」 「ワシは転ばぬ」 「でも、昨日は雪だるまに話しかけながら転んだよね」 「雪だるまが動いたのじゃ」 「動いてないよ」 ステラが笑い、ツルギも笑った。 アストロは反対側から、さりげなく老人の歩幅に合わせていた。急かさず、遅れすぎないようにする。剣の稽古ではないが、彼にとっては集中力のいる仕事だった。 やがて老人ホームの門が見えてきた。 職員が数人、ほっとした顔で待っている。だが、ツルギは門の前で足を止めた。 「ここは……どこじゃったかのう」 「老人ホームです」 ツキカゲが答える。 「ワシの家か?」 「今は、あなたの家の一つです」 「そうか」 ツルギは門を見上げ、それから三人の弟子を振り返った。 「お前たちは、ワシを知っておるのか」 問いは突然だった。 ステラは胸の前で手を握った。アストロは背筋を伸ばす。ツキカゲは少し考えてから、ゆっくり口を開いた。 「知っています。あなたは星光流の開祖、ツルギ。伝説の剣士、星光です」 「伝説……」 「はい。俺たちはあなたの弟子です」 ツルギは三人を見た。 その瞳には、困惑と懐かしさが入り混じっていた。完全に記憶を失ったわけではない。けれど、記憶は霧の中に散らばり、手を伸ばすたび形を変えている。 「弟子か」 「うん」 ステラが頷いた。 「私たちは、あなたの剣術を学んでる。私は、いつかもっと強くなりたい。伝説の剣士に憧れてるから」 「そうか。強くなりたいのか」 「うん!」 アストロも続けた。 「俺も、最強の剣士を目指しています。星光流を学んでいるのは、あなたのような剣士になりたいからです」 「最強の剣士か」 ツルギは、赤い帽子のつばを指で直した。 「ならば、強さを急ぐでない」 三人が黙って聞く。 「剣は速さだけではない。技の鋭さだけでもない。握る者が何を守りたいか、それを忘れぬことじゃ」 ツキカゲは目を伏せた。 それは、かつて何度も聞いた言葉だった。ツルギがまだ冷静で寡黙な開祖だった頃、弟子たちに伝えていた言葉。今の彼が、どこまで意識して語っているのかは分からない。 だが、ツキカゲには十分だった。 「覚えているんですね」 「何をじゃ?」 「……いえ。なんでもありません」 職員が門の内側から声をかける。 「ツルギさん、今日は中でクリスマス会がありますよ。皆さん、お待ちです」 「クリスマス会か!」 ツルギはぱっと顔を輝かせた。 「ワシはサンタじゃから、行かねばならん!」 今度は誰も否定しなかった。 ステラが手を振り、アストロが深く頭を下げる。ツキカゲは老人の袋を職員へ渡し、ようやく肩の力を抜いた。 「では、また来るんじゃぞ」 ツルギは門の中へ歩いていく。数歩進んだところで振り返り、三人を見た。 「弟子たちよ」 「はい」 「良い子にしておれば、来年もプレゼントをやろう」 「来年じゃなくても会いに来るよ」 ステラが笑う。 「そうかのう」 「うん。何度でも来る」 アストロも頷いた。 「俺たちは弟子ですから」 ツキカゲは少し遅れて、苦笑した。 「逃げ出したら迎えにも来ますよ。できれば、職員さんに迷惑をかけない形で」 「ワシは逃げ出さん。サンタは煙突から出入りするものじゃ」 「それを逃げ出すと言うんです」 ツルギは笑いながら、老人ホームの建物へ消えていった。 三人は門の前に残った。 冬の風が吹き抜ける。遠くで、ツルギの鈴の音が聞こえた。 ちりん、ちりん。 「……行ったね」 ステラが言った。 「今日は」 ツキカゲが答える。 「今日は、な」 アストロは空を見上げた。淡い青空の中に、昼の星は見えない。それでも彼は、そこに星があると知っている。 「師範」 「なんだ」 「俺たちは、いつか本当に最強になれるでしょうか」 ツキカゲはすぐには答えなかった。 彼自身、人類最強の一角と呼ばれている。神速を超えた独速を扱い、現代最強の剣士の一人とされている。それでも、ツルギには勝てない。昔も、今も。 だが、強さだけが答えではないことを、彼は知っていた。 「なれるかどうかは、これからのお前たち次第だ」 「師範らしい答えだね」 ステラが笑う。 「でも、私はなれると思うよ。アストロも、私も」 「根拠は?」 「毎日稽古してるから。それに、困ったおじいちゃんを何度も老人ホームへ連れていけるくらい、私たちは息が合ってるもん」 「それを強さの根拠にするのか」 「するよ」 アストロは、しばらく考えた。 「俺も、なれると思う」 「お、珍しく強気だな」 「最強になりたいから」 「そうだな」 ツキカゲは二人の頭を軽く撫でた。 「なら、帰って稽古だ。ツルギさんが次に逃げ出す前に、少しでも腕を上げておけ」 「えっ、今日も稽古するの?」 「当然だ」 「師範は休まないの?」 「休むと胃が痛いことを考えてしまう」 「それ、休んだほうがいいんじゃないかな……」 三人は道場へ向かって歩き始めた。 その背中を、老人ホームの建物の窓からツルギが見ていた。赤い帽子をかぶり、手には小さな鈴を持っている。 「良い弟子たちじゃのう」 そう呟いたあと、彼は首を傾げた。 「……弟子たち? ワシは何の弟子じゃったかのう」 けれど、窓の外へ手を振ることだけは忘れなかった。 道場へ戻る途中、ステラがふと足を止めた。 「ねえ、二人とも。最後に、ツルギおじいちゃんへの印象を言ってみない?」 「印象?」 「うん。今日みたいな日がずっと続くなら、ちゃんと言葉にしておいたほうがいい気がする」 アストロは考え、静かに答えた。 「俺にとってツルギおじいちゃんは、憧れの剣士です。それと同時に、放っておけない人でもあります。サンタの格好をしていても、記憶が曖昧でも、俺が学びたいと思った星光流の始まりにいる人です。だから、これからも弟子としてそばにいたいです」 「アストロらしいね」 ステラは笑い、それから前を向いた。 「私にとっては、伝説の人で、すごく強い人で、ちょっと困ったおじいちゃん。でも、笑っていてくれると安心するんだ。昔みたいに全部覚えていなくても、私たちを見て笑ってくれるなら、それでいいと思う。私はツルギおじいちゃんが大好きだよ」 最後に、ツキカゲが腕を組んだ。 「俺にとっては、師匠で、目標で、胃痛の原因です。勝てない相手であり、守らなければならない老人でもある。正直、毎日大変だ。だが……あの人がいなければ、俺は今の俺になっていない。だから、これからも迎えに行く。何度逃げ出してもな」 「師範、優しいね」 「陽気なだけだ」 「胃薬を持ってるのに?」 「これは優しさじゃなくて自衛だ」 三人は笑った。 遠くから、また鈴の音が聞こえた気がした。 ちりん、ちりん。 星光流の道場では、今日も稽古が始まる。最強を夢見る少年と、伝説に憧れる少女と、人類最強の一角である師範。 そして、その中心には、サンタクロースを名乗る八十九歳の開祖がいる。 平穏とは程遠い。しかし彼らにとって、それは確かに、いつもの一日だった。