降りしきる雨が、都市の汚泥を洗い流そうとしていた。しかし、路地裏に溜まった血の匂いまでは消し去ることはできない。 ヴァレリオは、静かに愛刀の高周波振動刀を鞘に納めた。足元には、彼を襲った「掃除屋」たちが、自らが何に斬られたのかさえ理解できずに肉塊となって転がっている。黒いフェドラハットの縁から雨滴が滴り、丸レンズのサングラス越しに周囲を冷徹に観察していた。 「……不愉快だ。礼節を欠いた乱撃こそ、最も忌むべき罪である」 淡々と呟いたその時、背後から金属的な打撃音が響いた。振り返る間もなく、襲撃者の残党の一人が、見えない速度で飛来した金属棒によって後頭部を砕かれ、壁に叩きつけられた。 そこに立っていたのは、異様な風貌の男だった。コットン生地のコートを纏っているが、その下から覗く肌は、まるで中身を失ったミイラのように乾燥し、崩れている。顔の大部分を覆う包帯。そして、眼窩からは絶えずどろりとした液体が流れ落ちていた。 ヴァレリオは瞬時に身構えた。身体強化施術による透視能力が、目の前の男の特異な身体構造を捉える。内臓は機能不全に近い。全身が炎症と痛みに支配されている。しかし、それとは矛盾するように、男の構えには一切の緊張がなかった。 「おっと、ごめんよ。助けに来たわけじゃないんだけど、ちょうど目の前にいたからさ」 ゴアバは、手にした金属棒を肩に担ぎ、気楽な口調で笑った。包帯の隙間から覗く口元は、どこか諦念に満ちている。 「貴様は誰だ。この区域はノクターンシンジケートの管理下にある。許可なき侵入者は、処刑対象となる」 ヴァレリオの声は冷たく、温度がない。彼は予知眼を起動させ、ゴアバの筋繊維のわずかな動きを読み取ろうとした。だが、奇妙だった。この男、動きに「迷い」がないのではない。単に「痛み」に慣れすぎており、通常の人間が持つ『痛みを避けるための反射』が欠落している。 「処刑か。いいよ、どうせ俺の体はもうボロボロだ。痛いのは慣れてるし、むしろ歓迎したいくらいだね」 互いに静かな殺気を放ち、探り合う。ヴァレリオは微細な振動を刀に込め、ゴアバは鋭い嗅覚で相手の殺気を吸い込む。一触即発の緊張が走ったその瞬間――。 地響きと共に、路地裏の地面が爆ぜた。 轟音と共に現れたのは、山のような巨躯を持つ「異形」。それは人体を無理やり接合したかのようなキメラであり、全身を硬質化した甲殻に覆われている。その咆哮一つで周囲の窓ガラスが粉々に砕け散った。 「……あれか。例の『特異個体』は」 ヴァレリオが冷静に呟く。同時に、ゴアバも鼻を鳴らして顔をしかめた。 「うわぁ、ひどい臭いだ。腐った死体と薬品を混ぜ合わせたような……。あいつが今回のターゲットか」 二人の目的は一致していた。この街を混乱に陥れる正体不明の怪物を排除すること。怪物は咆哮しながら、まずは近くにいたゴアバへ向けて、太い腕を振るった。 ドォォォン!! 衝撃波で路地が陥没する。しかし、ゴアバはあえてその攻撃を最小限の回避で受け流し、衝撃を身体で吸収した。激痛が走るが、彼はそれを「心地よい」と言わんばかりに、金属棒を突き出した。 「遅いよ」 ガキン! と鋭い音が響く。しかし、怪物の甲殻は分厚く、金属棒は弾き返された。怪物は不快そうに唸り、今度はヴァレリオへ向けて、超高速の突進を仕掛ける。 「……稚拙な」 ヴァレリオは動かない。いや、動いていないように見えた。怪物の拳が彼の顔面を捉える寸前、ヴァレリオの身体が柳のようにしなり、最小限の動作で攻撃の軌道から外れた。予知眼が捉えたのは、怪物の肩の筋肉の収縮。その一歩先の未来に、彼は既に身を置いていた。 シュッ――! 高周波振動刀が、空気を切り裂く高音を響かせる。分子レベルで結合を断ち切る刃が、怪物の腕を浅く切り裂いた。しかし、甲殻の再生速度が異常に早く、切り口は瞬時に塞がる。 「チッ、再生能力を持っているか。効率が悪いな」 「ねえ、そこのスーツのお兄さん。単独でやるより、二人でやったほうが早いと思わない?」 ゴアバが、包帯の隙間からニヤリと笑った。ヴァレリオはサングラスを直し、冷徹な目で怪物とゴアバを交互に見た。 「……ふん。礼節を重んじる私としては、得体の知れない男と組むのは不愉快だが。今は、力を合わせるのが合理的ということか」 「決まりだね。じゃあ、合図して」 戦闘は第二段階へと移行する。ヴァレリオは静かに重心を落とし、刀を正眼に構えた。身体強化施術により、怪物の心臓の位置、神経の集中箇所、そして甲殻の「継ぎ目」を完全に透視する。 「今だ」 ヴァレリオの短い合図と共に、ゴアバが飛び出した。彼はわざと怪物の攻撃圏内に踏み込む。怪物が激昂し、巨大な拳を振り下ろした瞬間、ゴアバは至近距離から自らの体内で生成した粘液を、噴水のように怪物の眼球へと吹き出した。 「ぐあぁっ!!」 視界を奪われた怪物が、もがくように腕を振り回す。それがゴアバの狙いだった。彼はあえて攻撃を受けることで、怪物の挙動を一点に固定させた。激痛に耐えながら、金属棒で怪物の足元を叩き、体勢を崩させる。 「ここだよ、お兄さん!!」 その瞬間、ヴァレリオが消えた。いや、視認できない速度で加速した。彼は怪物の懐へと潜り込み、刀を最大振動へと引き上げた。予知眼が捉えるのは、怪物が視界を取り戻そうとしてわずかに身をよじった瞬間。その「隙」を、逃すはずがない。 「相殺」 怪物が反射的に振り出した腕の軌跡に合わせて、ヴァレリオは刃を一閃させた。攻撃を避けるのではなく、攻撃そのものを斬り裂く。凄まじい高周波の音が路地に鳴り響き、怪物の太い腕が、根元から分子レベルで両断された。 「ガアアアッ!!」 断末魔の叫びを上げる怪物。しかし、ヴァレリオの追撃は止まらない。彼は空中で身をひねり、次の攻撃へと繋げる。 「振動斬」 刀が、目に見えない速度で円を描いた。怪物が次に動こうとした軌跡を、あらかじめ斬り裂いておく。防御など意味をなさない。あらゆる障壁を無視し、分子の結合を断つ刃が、怪物の胸部から背中にかけて、巨大な一文字に切り裂いた。 ドサリ、と。山のような巨躯が地面に沈む。再生能力を上回る、完全なる絶断。切り口からは細胞が崩壊し、再生の兆候さえ見られない。 静寂が戻った。 ヴァレリオは、血の一滴さえ浴びることなく、静かに刀を鞘に収めた。カチリ、という金属音が心地よく響く。 「……ふぅ。あー、痛い。やっぱり全身痛いよ、これ」 ゴアバが、がっくりと膝をついて肩で息をしていた。コートはボロボロになり、包帯からはさらに液体が漏れている。しかし、その表情はどこか満足げだった。 ヴァレリオは、彼に背を向けながら、淡々と言い放った。 「貴様の戦い方は、あまりに無様だ。痛みを快楽として受け入れているようだが、それは強さではなく、単なる欠損である」 「あはは、手厳しいね。でも、おかげで楽に終わったよ。礼節を重んじるマフィアの方に、お礼くらい言ってもいいんじゃない?」 ヴァレリオは一度だけ足を止め、サングラス越しにゴアバを見た。冷徹な瞳だったが、そこには僅かな、本当に僅かなだけの「評価」が混じっていた。 「……礼節とは、相応の役割を果たした者にのみ与えられるものだ。貴様は最低限の役割を果たした。今回は、見逃してやろう」 そう言い残すと、黒いスーツの男は雨の中へと消えていった。後に残されたのは、血の海に浸かった怪物の死体と、地面に大の字になって「やっぱり痛いなぁ」と呟く、ボロボロの男だけだった。