夕暮れの音楽室には、使われていない譜面台が二つと、窓辺に積まれた古い楽譜があった。 西日が床を細長く染める中、烟は部屋の中央に立ち、背負っていたギターケースをゆっくり下ろした。金具を外す音が、静かな室内に小さく響く。 「……ここ、誰かいる?」 返事の代わりに、窓際から声がした。 「いるとも。君が来る少し前から、ずっとここにいた」 振り向くと、譜面の山の向こうに青年が座っていた。穏やかな目をしている。けれど、その視線は煙の表情だけでなく、言葉になる前のためらいまで見つめているようだった。 「驚かせたかな」 「ちょっとだけ。音楽室に人がいると思わなかったから」 「音楽室だからこそ、人の心が集まりやすいのかもしれないね。歌や楽器は、隠していたものまで表に出してしまうことがある」 青年は立ち上がり、軽く頭を下げた。 「カイタ=キリ。君は?」 「烟。……烟って書いて、えん」 「いい名前だ。煙のように掴めないものを、君は音に変えるのかな」 「そんなに大したものじゃないよ」 烟はギターケースの中身を確かめながら答えた。弦の張りを指先で確かめる。その仕草は慣れているようで、同時にどこか慎重だった。 カイタはそれを見逃さなかった。 「弾きに来たのかい?」 「うん。誰もいない場所で、少しだけ。……誰かに聞かれると、まだ落ち着かないから」 「それでも弾くんだね」 「弾きたいから。怖いけど、弾きたい気持ちのほうが、ほんの少し強い」 烟は椅子に腰を下ろし、ギターを膝に乗せた。チューニングを始める。弦を弾くたび、短い音が部屋の隅へ転がっていった。 「カイタは、ここで何をしていたの?」 「夢について考えていた」 「夢?」 「ああ。誰しもが夢を持って然るべきだと思っている。大きくても、小さくてもいい。人に語れる形でなくてもいい。夢は、その人の生き方を支えるものだから」 「……夢って、支えてくれるだけじゃないよ」 烟の指が止まった。 「重い。見れば見るほど、届かないところにあるって分かる。手を伸ばすほど、自分の足りなさも見えてくる。だから、夢を見るのは楽しいだけじゃない」 「それでも、諦めたくない?」 問いかけは静かだった。責める響きはなかった。ただ、烟の言葉の奥にあるものを、丁寧に拾おうとしている。 烟はしばらく黙ったあと、弦を軽く鳴らした。 「うん。どれだけ夢が重くても、諦めたくないから」 「その夢は、いつから君の中にあるのかな」 「……昔から、音楽が好きだった。最初は、聞くのが好きだっただけ。誰かの音を聞いていると、知らない場所に行ける気がしたんだ」 烟は窓の外を見た。校庭の端で、風に揺れた木の葉が何枚か舞っている。 「それで、自分でも鳴らしてみたくなった。でも、実際にやってみると全然うまくいかない。指は痛いし、音は変だし、録音を聞いたら思っていたよりずっと下手で……」 「やめようとは思わなかったのかい?」 「何度も思ったよ」 烟は苦笑した。 「それに、エレキは嫌いなんだ」 「ほう?」 「昔、アンプに足の小指をぶつけたことがあるから」 真剣な表情で告げられ、カイタは一瞬だけ目を丸くした。それから、堪えきれないように笑う。 「それは……確かに、忘れがたい出来事だね」 「笑わないでよ。ものすごく痛かったんだから」 「すまない。でも、君の夢の話の中に、小指の思い出が混ざるとは思わなかった」 「夢って、そういうものじゃない? 立派な理由だけで続くわけじゃない。悔しかったこととか、恥ずかしかったこととか、変なきっかけとか。そういうのが全部くっついて、いつの間にか重くなるんだと思う」 カイタは黙って烟を見つめていた。 心は、いつでも整った形をしているわけではない。夢と挫折、誇りと不安、憧れと諦め。相反するものが絡まり、時には本人でさえ名前をつけられないまま、胸の内に残っている。 「君は、自分の心をよく見ているね」 「そうかな」 「少なくとも、見ないふりをしてはいない」 「見ないふりをしたくなることはあるよ。だって、見たら苦しくなるから」 「それは余程強い心でないと、溶けてしまうようなものだね」 烟はギターを抱え直した。 「カイタは、そういう心を見つけるのが得意なの?」 「得意というより、見つけたいと思っている。相手の中にあるものを、相手自身が見失わないように」 「それって、ちょっと怖いね」 「怖い?」 「心を見られるってことは、自分でも隠していたものまで知られるってことでしょ。僕なら、たぶん怖い」 「そうだろうね。だから、勝手に暴いてはいけないと思っている。心は、無理に外へ晒せば壊れてしまう。語る準備ができるまで、待つことも必要だ」 「じゃあ、今の僕は?」 「君が語ってくれた分だけ、私は受け取っている」 その答えに、烟は少しだけ目を細めた。 「……変な人だね」 「よく言われるよ」 「褒めてないよ」 「それでも構わない。心の形は、他人からの評価だけで決まるものではないから」 烟は呆れたように息を吐いた。それから、ギターの弦を一本、二本と確かめる。やがて深く息を吸い、肩の力を抜いた。 「少し、弾いてもいい?」 「もちろん」 「途中で止めるかもしれない」 「それも君の演奏だ」 「歌詞、聞かれても笑わないでね」 「笑わないよ」 「約束?」 「約束だ」 烟は目を伏せ、ギターを軽く鳴らした。 最初の音は、迷いを含んでいた。けれど、その迷いを隠そうとはしなかった。指先が弦の上を進むにつれ、音は少しずつつながっていく。静かな部屋に、煙の呼吸と旋律が重なった。 彼女の演奏は、完璧ではなかった。揺れるところもあったし、音の強さが不揃いになる瞬間もある。それでも、一音ごとに込められたものがあった。 弾くことへの憧れ。 届かない夢を見上げる苦しさ。 何度もやめようとした自分への悔しさ。 それでも、まだ続けたいという願い。 烟は歌い始めた。声は決して大きくない。けれど、言葉を置き去りにしないよう、一つひとつを確かめながら歌っている。 カイタは目を閉じた。 聞こえてくる音の奥に、烟の心があった。過去の痛みだけではない。痛みを抱えたままでも前へ進もうとする、強さだけでもない。強くなりきれない日にも、諦めきれない夢を手放さずにいる、その不器用な姿そのものだった。 曲が進むにつれて、烟の表情から緊張がほどけていく。演奏しているというより、自分の中に溜まったものを、音へ置き換えて外へ送り出しているようだった。 最後の音が消えたあと、部屋には長い沈黙が残った。 烟は両手を止めたまま、俯いていた。 「……どうだった?」 「君の物語が聞こえた」 「感想になってないよ」 「そうかな。私は、とても美しいと思った」 烟は顔を上げた。 「美しいって、上手って意味?」 「違う。君の心が、崩れずに形を保っていたという意味だ」 「崩れそうだったけど」 「それでも、形を失わなかった。夢の重さも、怖さも、諦めたくない気持ちも、全部が君の中でひとつになっていた」 烟はしばらく返事をしなかった。やがて、ギターの表面を指で撫でる。 「僕は、自分のことをそんなふうに考えたことなかった」 「人は、自分の心を近くで見すぎるからね。混ざり合ったものを、ただの苦しさだと思ってしまうこともある」 「カイタは、僕がこれからどうなると思う?」 「それは、私には決められない」 カイタは穏やかに答えた。 「君がどこへ行くのかを、他人が決めてしまえば、それは君の夢ではなくなる。私はただ、君が自分の心を見失わないように願うだけだ」 「夢を叶えられなくても?」 「ああ。夢の形が変わっても、歩いてきた時間まで消えるわけではない。君が弾いた音、悩んだこと、続けたこと。それらはすべて君の本質を形作る」 「本質、か」 「君は、音楽で誰かの人生を変えたいと思っているのかな」 烟は目を伏せた。 「……思ってる。そんなの傲慢だって分かってるけど。人生を変えるなんて、自分が相手より大きい存在みたいで、偉そうだよね。でも、憧れるんだ。昔、誰かの曲に救われたから。僕もいつか、誰かにとってそういう音を鳴らしたい」 「それは傲慢ではなく、願いだと思うよ」 「同じじゃない?」 「違う。相手を変えようとすることと、相手の心に届くものを差し出すことは、似ているようで違う。君ができるのは、君の物語を音にすること。その先で何を受け取るかは、相手の心に委ねられている」 烟は何度か瞬きをした。 「……僕の音を、押しつけなくていいってこと?」 「押しつけずとも、真剣なものは届くことがある。届かないこともある。それでも、君が音を鳴らした事実は消えない」 「辛いね」 「ああ。夢は見るだけならただだけれど、抱えて歩くのは辛い。だからこそ、夢を持つ者には休む場所も必要だ」 「ここが?」 「今日のところは、そうかもしれないね」 烟は窓の外を見た。夕日はもうほとんど沈み、音楽室の中は薄紫色の影に包まれている。 「ねえ、カイタ」 「何かな」 「またここに来てもいい?」 「もちろん。君が弾きたいと思った時に来ればいい」 「その時、また聞いてくれる?」 「喜んで」 「途中で止まっても?」 「それも君の物語だ」 「同じことしか言わないね」 「大切なことは、何度でも言うものだよ」 烟は小さく笑った。先ほどまで胸の奥にあった重さが消えたわけではない。夢も、迷いも、これから向き合う苦労も、何ひとつなくなってはいない。 けれど、重さを知っている誰かと、その重さについて話せた。それだけで、抱え方は少し変わるのかもしれなかった。 烟はギターをケースへ戻し、立ち上がった。 「今日は、来てよかった」 「私も、君の音を聞けてよかった」 「……じゃあ、最後に聞かせて。僕のこと、どう思った?」 カイタは少し考えた。すぐに答えを出すのではなく、煙の言葉と音をもう一度心の中で確かめるように。 「君は、傷つきやすいのに、夢を手放さない人だと思った。強がっているのではなく、怖さを知ったまま進もうとしている。その心は不器用だけれど、だからこそ美しい。私は、君のこれからを見ていたいと思うよ」 烟は照れくさそうに視線を逸らした。 「そんなに真面目に言われると、困るな。……でも、ありがとう。僕がカイタに抱いた印象は、心配になるくらい優しい人。相手のことを分かろうとしすぎて、自分のことを後回しにしそう。変で、少し胡散臭くて、それでも話していると安心する人だよ」 「褒められているのかな」 「半分くらいは」 「なら、十分だね」 二人は音楽室を出た。廊下には、夕暮れの残光が細く伸びている。 扉が閉まる直前、烟は一度だけ振り返った。 「カイタ」 「うん?」 「夢、まだ重いけど……もう少し持っていけそう」 「それは何よりだ」 「次は、今日よりもう少し上手く弾くから」 「楽しみにしているよ」 烟はギターケースを背負い、廊下の先へ歩き出した。 その背中を見送りながら、カイタは思う。 心は、誰かに変えてもらうものではない。自分の内側にあるものを見つめ、受け入れ、時には形を変えながら、それでも自分のものとして抱えていくものだ。 そして、音はその心を、ほんの少しだけ他者へ渡すことができる。 夕暮れの音楽室には、まだ演奏の余韻が残っていた。完全には消えず、静かな空気の中で、次の音を待つように揺れていた。