裏路地の空気は常に淀んでいる。錆びた鉄と焦げたゴムの臭い、そしてどこからか漂う血の気配。そんな殺伐とした街の一角にある、古びたダイナーのテラス席に、赤いコートを羽織った小柄な男がいた。 【親指】のアンダーボス、アクロである。彼は気だるげに頬杖をつき、目の前に置かれた冷めかけのコーヒーを眺めていた。ボサボサの茶髪が風に揺れ、その瞳には隠しきれない倦怠感が漂っている。 「……あー、だるい。今日は誰も無礼なことしないでくれねえかな」 独り言を零したその瞬間だった。遠くから、静寂を切り裂くような爆音と、それに劣らず騒々しい声が近づいてくる。 「宅配便のお通り〜! どいたどいたぁ!!」 視界の端に緑色の閃光が見えたかと思うと、猛烈な速度で突っ込んできた人影が、アクロの座るテーブルのわずか数センチ横で急ブレーキをかけた。激しい摩擦音と共に舞い上がった砂埃が、アクロのコーヒーに静かに降り積もる。 そこに立っていたのは、防寒具に身を包んだ緑のコートの女性――ヂェーヴィチ協会1課のハヤテだった。彼女はゴーグルを額に跳ね上げ、肩で息をしながら、抱えているアタッシュケースをガチリと鳴らした。 「ふぅー! 間に合った! 予定時刻から三秒遅れ! ほぼ完璧! というわけで、ここに届け物ありー!」 ハヤテは勢いよくアタッシュケースをテーブルの上に叩きつけた。ドスンという衝撃で、アクロのコーヒーが器から溢れ、赤いコートの裾を汚した。 アクロはゆっくりと視線を、自分の服から、目の前の元気すぎる女性へと移した。通常であれば、『親指』の構成員がこのような無作法な振る舞いをされれば、その場で相手の指を一本ずつ折るか、あるいは礼節を説きながら焼夷弾で焼き尽くすところである。ましてや彼は一区画を統べるアンダーボスだ。礼節への執着は、組織の掟として血に刻まれている。 しかし、アクロは深い溜息をつくと、汚れた裾を軽く手で払っただけだった。 「……おい。せっかくの休憩中なんだ。もう少し静かにできないか」 「えっ!? あ、ごめん! でも配送ルート的にここが最短だったし、一刻も早く届けなきゃいけないから! わかるでしょ、タイムイズマネー! 配送遅延は死と同義なの!」 ハヤテは反省している風ではあったが、その態度は相変わらずせっかちで短絡的だった。彼女にとっての世界は「出発点」と「目的地」の直線でしか構成されていない。その間に誰がいて、どのような権力を持っているかなど、彼女のポルードニツァ(AI)が計算する「障害物」に過ぎない。 アクロは呆れたように、がっくりと肩を落とした。彼は本来、厳しい規律を重んじる組織に身を置いているが、本人の気質は極めて寛容だ。目の前の女性が、組織の理屈など微塵も気にせず、ただ「届ける」という目的のみに突き動かされている単純さに、ある種の心地よささえ感じていた。 「まあいいよ。どうせここは裏路地だ。常識なんて期待した俺が馬鹿だった。……で、その荷物は誰宛てだ?」 「えーっと、えーっと! ポルードニツァ、住所確認して!」 ハヤテがアタッシュケースに問いかけると、ケースから電子的な音声が響いた。 『目的地:親指管理区画・第C4ブロック。受取人:アンダーボス・アクロ様。内容物:特注の高級葉巻および、トレス協会製メンテナンスキット。』 「……あぁ、俺のことか。忘れてた。注文してたな」 アクロは気だるげに手を伸ばし、ケースから届けられた小包を受け取った。その動作は緩慢で、ハヤテのせっかちなリズムとは対照的だった。 「もー! もっとパパッと受け取ってよ! 私、次の配送が控えてるんだから!」 「いいだろ、少しくらい。そんなに急いでどこへ行く。死ぬまで走り続けるつもりか?」 「当たり前じゃん! 止まったら負け! 止まったら遅延! 遅延したら私の評価が下がる! それはもう、世界が終わるのと同じことなんだから!」 ハヤテは大げさに身振り手振りを加えながら叫ぶ。そのエネルギー量に、アクロは眩しさを感じて目を細めた。彼は組織の中で、常に「誰かが誰かに非礼を働いた」という報告を受け、それを粛清し、秩序を維持することに時間を費やしている。緊張感と血の匂いに満ちた日常の中で、こうしてただ「早く届けたい」という純粋な欲望だけで動いている人間との会話は、彼にとって一種の精神的な休息だった。 「……お前、面白いな。親指の奴らがこれを見たら、速攻で『処刑』のリストに入れるだろうけど」 「え? 何の話? 処刑? よくわかんないけど、私のスピードに追いつけるならいいよ! じゃあね、お疲れ様ー!」 ハヤテは嵐のように現れた時と同じ速さで、再びアタッシュケースを抱え込み、地平線の彼方へと駆け出した。彼女が走り去った後には、激しい風と、少しだけ明るくなった空気だけが残されていた。 アクロは手に入れた高級葉巻を一本取り出し、火をつけた。紫煙がゆっくりと空へ昇っていく。 「……ふぅ。あんな奴に付き合ってたら、こっちまでせっかちになりそうだ」 そう言いながらも、彼の口角はわずかに上がっていた。彼はレバーアクション式マグナムの感触を確かめ、再び深く椅子に身を沈めた。もともとマイペースな彼にとって、極端なせっかちとの遭遇は、悪い気はしなかったらしい。 「ま、たまにはこういう無礼講も悪くないな」 裏路地の喧騒に戻る。しかし、アクロの心の中には、先ほどまでの賑やかな騒がしさが、心地よい余韻として残っていた。彼は再び目を閉じ、次の「仕事」が来るまで、贅沢な静寂を楽しむことにした。 * 【お互いに対する印象】 アクロ → ハヤテ 「うるさいし、礼儀もめちゃくちゃだ。普通なら指を詰めてもらうところだけど……まあ、あんなに単純に全力で走ってる奴は珍しい。たまに見てると、こっちまで肩の力が抜けるっていうか。いい意味で『空っぽ』な奴だ。嫌いじゃないよ。」 ハヤテ → アクロ 「なんか、ずっと眠そうな人! 喋り方もゆっくりだし、受け取りももっさりしてて、見てるこっちがもどかしくなる! でも、怒らずに荷物受け取ってくれたし、いい人っぽいね。あ、でもあの赤いコート、汚れが目立ちそうだから、次は汚れ防止のカバーを一緒に届けてあげようかな!」