午後の光が、駅前の大型スタジオの窓から斜めに差し込んでいた。 壁際には撮影用のリングライトがいくつも並び、その中央には、簡素な木製テーブルと二脚の椅子が置かれている。今日は対戦でも訓練でもない。チームAの海秋と、チームBの杏が、合同企画の打ち合わせをする日だった。 海秋は椅子に深く腰を沈め、黒髪を片側へ流しながら、片手でスマートフォンを眺めていた。大きめのトレーナーの裾から伸びた脚が、気だるそうに組まれている。 「んー……企画書、長くない?」 「まだ表紙と目次しか見てないじゃん」 向かいに座った杏が、くすくす笑う。金髪のツインテールが肩の横で揺れ、白い肌に窓辺の光が柔らかく映った。テーブルの上には、彼女が持ってきた紙袋と、人数分の飲み物が並んでいる。 「長そうな雰囲気がした」 「雰囲気で判断しないの。ちゃんと読んだら、海秋ちゃんが好きそうな内容だよ」 「ほんと?」 海秋はようやくスマートフォンから顔を上げた。 「動画撮影と、ダンスと、あとペット紹介」 「犬も出てくるよ」 「やる」 即答だった。 杏はまた笑った。明るく、人当たりのよい笑顔だったが、海秋に向けるときには少しだけ世話焼きな色が濃くなる。 「犬が出るって聞いた瞬間、目が変わったね」 「犬は別枠。犬に罪はないし」 「じゃあ、人間には?」 「人間はだいたい面倒」 「私も?」 「杏は……まあ、面倒見いいから例外」 「それ、褒めてる?」 「かなり」 海秋はそう言いながら、テーブルに置かれたストロー付きの飲み物を手に取った。杏が選んだものらしく、ラベルには果物の絵が描かれている。 「これ、甘い?」 「甘いよ。疲れてるときにいいかなって」 「杏って、ほんと保健室みたい」 「保健室?」 「いると安心する。あと、なんか食べ物出てくる」 杏は少し驚いたように瞬きをして、それから照れくさそうに視線を落とした。 「そういうこと言われると、嬉しいけど……海秋ちゃん、普段はそんなに素直じゃないよね」 「今もかなり素直」 「そうかなあ」 「眠いし」 「眠いと素直になるんだ」 「たぶん。あと、犬がいるともっと」 そのとき、スタジオの奥から小さな足音が聞こえた。スタッフが連れてきた撮影用の犬が、開いた扉の隙間から顔を覗かせている。 海秋の視線が、音もなくそちらへ向いた。 先ほどまで机の上で止まっていた指が、わずかに動く。気だるそうだった姿勢もほんの少し起き上がった。 「来た」 「本当に好きなんだね」 杏が手を振ると、犬は尻尾を振りながら二人の方へ歩いてきた。海秋は椅子から立ち上がると、しゃがみ込んでその頭を撫でる。黒髪が肩から落ち、トレーナーの袖が手の甲まで覆った。 「かわい……え、ちょっと待って、動画撮っていい?」 「もちろん。飼い主さんにも聞いてからね」 「杏、撮って。私、両手ふさがってる」 「はいはい」 杏はスマートフォンを受け取り、海秋と犬を画面に収めた。海秋は犬の耳の形を眺めながら、珍しく声を弾ませている。 「見て、この顔。絶対わかってる顔してる。あと毛並みがいい。触ると落ち着く」 「海秋ちゃんの動画、いつも格好いい雰囲気なのに、今日はずいぶん柔らかいね」 「限定。投稿するかは考える」 「フォロワーさん、喜びそう」 「犬だけなら出す」 「海秋ちゃんは?」 「端にちょっと映るくらいでいい」 「主役なのに?」 海秋は犬の首元を撫でながら、少しだけ口元を緩めた。 「犬が主役。私は添え物」 「そんなこと言って、投稿したらすぐ反応を確認するんでしょ」 「する。通知が来ると楽しいし」 「じゃあ、今度は私も一緒に撮ろうよ」 杏がそう言うと、海秋は顔を上げた。 「杏が?」 「うん。ダンスは得意じゃないけど、海秋ちゃんが教えてくれるならやってみたい」 「いいけど、覚えるの早そう」 「そうかな?」 「杏、何でもちゃんとやりそう。私が三回くらい休憩する間に、全部覚えてそう」 「休憩が多すぎない?」 「大事。動画は体力使うから」 「海秋ちゃんは、撮る前は面倒って言うのに、始まるとすごく楽しそうになるよね」 「それは……」 海秋は一度言葉を止めた。指先は犬の背中をゆっくり撫で続けている。 「始まったら、ちゃんとしたくなるから」 その言葉には、いつもの気だるさとは違う芯があった。杏はそれを聞き逃さず、穏やかに頷く。 「海秋ちゃん、そういうところ格好いいよ」 「急に褒めるじゃん」 「本当のことだもん」 「……そういうの、さらっと言うよね」 「変だった?」 「別に。ちょっとまぶしいだけ」 海秋は目を細めて、窓の外を見た。午後の空はよく晴れている。杏が得意そうに語る、穏やかな太陽の光に似た空だった。 杏は紙袋から小さな箱を取り出した。 「これ、差し入れ。クッキー焼いてきたの」 「手作り?」 「うん。甘さは控えめにしたよ」 「杏、ほんとに何でもできるね」 「そんなことないよ。焦がしかけたし」 「でも完成してる」 「海秋ちゃん、食べる前から評価するの?」 「杏が作った時点でたぶん大丈夫」 杏はわずかに頬を赤くした。海秋はその変化に気づいたようだったが、深く追及せず、箱の蓋を開ける。 犬が興味深そうに近づくと、杏はすぐに箱を少し遠ざけた。 「これは人間用ね。犬にはあとで専用のおやつをあげよう」 「杏、犬にも優しい」 「海秋ちゃんにも優しいつもりだよ」 「知ってる」 海秋はクッキーを一枚つまみ、口に運んだ。しばらく黙って味わい、それから小さく頷く。 「おいしい」 「よかった」 「これ、撮影前に食べたら元気出る」 「じゃあ、たくさん食べてね。でも食べすぎると眠くなるかも」 「それは困る。私、すぐ眠くなるから」 「知ってる。打ち合わせ中も何度か目を閉じてた」 「閉じてない。考えてた」 「何を?」 「犬のこと」 杏は吹き出した。海秋もつられて笑う。二人の間に、最初からあったような自然な空気が広がった。 しばらくして、企画担当者が簡単な進行表を持って入ってきた。撮影内容は、海秋が短いダンスを教え、杏がそれに挑戦するというものだった。最後には、二人で犬と一緒に記念写真を撮る。 「杏、動きの確認する?」 「お願い。海秋ちゃんの振り付け、かわいいけど少し速いから」 「ゆっくりやる。まず足だけ」 海秋はスタジオの中央へ歩き、音楽を小さく流すようスタッフに頼んだ。やる気を見せるまでが長い彼女だったが、いったん始めると動きは滑らかだった。足の位置、重心の移し方、肩の角度。ひとつひとつを杏に合わせて説明していく。 「ここ、急がなくていい。音に合わせて、右、左。そう。杏、飲み込み早い」 「海秋ちゃんの説明がわかりやすいからだよ」 「褒め合いになってる」 「いいじゃん。仲良しっぽい」 杏が冗談めかして言うと、海秋は少しだけ視線を逸らした。 「仲良しでしょ」 「うん、仲良し」 「じゃあ、もっと近く。カメラ、二人が離れてると寂しい」 「海秋ちゃんの方が恥ずかしがってない?」 「私はいつもこう」 「どこが?」 「堂々としてる」 「耳、赤いよ」 海秋は反射的に耳を手で覆った。杏は声を立てて笑ったが、からかいすぎないよう、すぐに柔らかな表情へ戻る。 「ごめんね。でも、海秋ちゃんと一緒に撮れるの、楽しみ」 「……私も」 短い返事だった。 けれど杏には、それで十分だった。 撮影が始まると、海秋は普段の投稿と同じように、カメラの位置や光の具合を細かく確認した。杏が戸惑えばすぐ隣で動きを示し、犬が飽きてしまえば無理に呼び戻さず、スタッフと相談して休憩を挟んだ。 最後のカットでは、杏が犬を抱き、海秋がその隣でしゃがみ込んだ。犬は二人の間で嬉しそうに尻尾を振っている。 「海秋ちゃん、笑って」 「笑ってる」 「それ、口元だけ」 「杏がいるから、ちゃんと笑ってる」 カメラのシャッター音が連続して響いた。 撮影が終わると、海秋はその場に座り込み、杏から受け取った飲み物を一気に飲んだ。杏は汗を拭くためのタオルを差し出す。 「お疲れさま」 「杏も。思ったよりちゃんと踊れてた」 「海秋ちゃんが教えてくれたからだよ」 「また撮る?」 「うん。次は犬と一緒に、屋外で撮りたいな」 「それなら晴れてる日にしよ。あと日焼け対策もして」 「海秋ちゃんが気にしてくれるの、珍しいね」 「杏の肌、白いから。ちゃんと守らないと」 杏は嬉しそうに目を細めた。 「海秋ちゃんも、ちゃんと水分とってね。あと、寝不足もだめ」 「それは努力する」 「努力じゃなくて、寝るの」 「杏、先生みたい」 「海秋ちゃんが心配だから言ってるの」 その言葉に、海秋は返事をしなかった。ただ、少しだけ杏の肩へ寄りかかる。 杏は驚いたものの、何も言わずに受け止めた。海秋の黒髪が腕に触れ、犬が足元で丸くなる。スタジオの喧騒は遠のき、窓から差す光だけが二人を包んでいた。 「……杏」 「なあに?」 「今日、来てよかった」 「私も」 「また面倒見て」 「もちろん。海秋ちゃんが嫌じゃなければ、ずっと」 海秋は目を閉じたまま、ほんの少し笑った。 「嫌じゃない。むしろ、いないと困るかも」 杏はその言葉を胸の奥で大事にしまうように、静かに頷いた。 帰る時間になっても、海秋は犬からなかなか離れなかった。最後には杏が「また会えるよ」と言い聞かせ、ようやく手を引く。 スタジオの出口で、二人は並んで立った。 「今日の動画、編集したら送るね」 「私も確認する。犬が一番かわいく映ってるやつにして」 「海秋ちゃんもかわいく映ってると思うけど」 「杏、それは投稿しなくていい」 「じゃあ、私の保存用にするね」 「……それなら、まあ」 杏は満足そうに笑った。 海秋はスマートフォンをポケットへしまい、眠たげな目で杏を見る。 「杏って、ほんと明るいよね。そばにいると空気まであったかくなる。面倒な私にもちゃんと付き合ってくれるし、犬にも優しい。……人気あるの、わかる」 「海秋ちゃんは、だらっとしてるように見えて、始めたことはちゃんとやりきる人。あと、実はすごく優しいよ。犬を見てるときの顔、特に好き。もっと自分のことも大切にしてほしいけど……これからも私がそばで面倒を見るね」 「それ、決定事項?」 「決定事項」 「じゃあ、よろしく」 海秋はそう言って、杏の腕に軽く自分の腕を絡めた。杏は嬉しそうに頷き、二人は夕方の街へ歩き出す。 その背後で、スタジオの窓に二人の影が並んで映っていた。気だるさと明るさ、静けさと包容力。異なる二人の間には、今日一日で生まれたばかりとは思えない、穏やかで確かな親しさがあった。