昼とも夜ともつかない、裏市場の空は煤けていた。 巨大な天井ドームの隙間から、青白い作業灯と赤いネオンが交互に降り注いでいる。迷路のような通路には、偽造身分証、禁制薬、軍用部品、改造生物の卵、盗品の宝石、出所不明の食料まで、表の店では決して並ばない品々が山積みになっていた。 客は絶えず行き交い、情報屋は耳元で囁き、賞金稼ぎは人混みに紛れ、屋台の鉄板からは油煙が立ち上っている。誰かが値段を叫び、誰かが嘘をつき、誰かが銃声を聞いても「またか」と肩をすくめる。 その雑踏を、ティーエ――現在の名をTaと呼ばれる少女が歩いていた。 青いポニーテール。軍服。小柄な身体に不釣り合いな大型狙撃銃Vt-X5を背負い、腰には高速擲弾砲Ncr-23。機械化された四肢が、石畳の凹凸を正確に読み取っていた。 彼女の碧い瞳は、商品の値札ではなく、周囲の射線と遮蔽物を見ていた。 「……対象、未確認。情報の受け渡し地点は、この先」 声は静かだった。だが、右手の指が狙撃銃の安全装置を一度だけ撫でる。 同じ頃、反対側の通路からティティ――Ttが現れた。 茶髪の短髪。軍鉄帽。軍服とスカート。小さな身体にSv-37Mを抱え、ι仕様軍事ナイフを腰に差している。彼女は市場の人混みに怯えたように、何度も周囲を見回していた。 「す、すみません……通してください。あの、押さないでください……」 しかし、誰かが彼女の肩にぶつかった。 軽い接触だった。 だが、ティティの手から書類ケースが落ち、中に入っていた一枚の紙が舞い上がった。 紙には、アサルト・リーパー特攻部隊の識別記録が印刷されていた。 それを拾ったティーエの機械脚が、紙の端を踏んだ。 ティティの青い瞳が、凍りついた。 「……返してください」 「これは、君の?」 「はい。ですから、返してください」 ティーエは紙を拾った。そこに記された名前は、軍の規格によって抹消され、コードネームだけに置き換えられている。 ティティは手を伸ばした。 そのとき、ティーエの瞳が紙の裏に貼られた小型追跡タグを捉えた。 「……追跡用。誰かに見られている」 「え?」 「返す前に、確認する」 「返してください!」 普段なら、ティティはそこで引き下がったかもしれない。だが、名前を奪われた過去を記録した紙を、また誰かに管理されることに耐えられなかった。 彼女の声が、初めて市場の喧騒を突き抜けた。 「あなたも軍人なら、私の物を勝手に調べないでください!」 ティーエは紙を半分に折った。 「合理的判断」 「……その言い方、嫌いです」 「嫌いでも、必要」 「返せと言っているんです!」 ティティが一歩詰め寄った。 ティーエは反射的に後退した。痛みを嫌う彼女にとって、距離を詰められることは即座に危険判定へ繋がる。 「近づかないで」 「あなたが返してくださらないからです!」 「命令?」 「お願いです!」 「……お願いにしては、銃を握っている」 ティティの指がSv-37Mのグリップを強く掴んだ。 その瞬間、ティーエの表情がわずかに変わった。 「戦闘を望む?」 「望んでいません!」 「なら、下がって」 「あなたが紙を返してくだされば!」 ティーエの冷たい目が、ティティの鉄帽を見た。 「臆病者のくせに、声だけは大きい」 その言葉は、狙って放った挑発ではなかった。 しかしティティには、十分すぎるほど鋭かった。 彼女の顔から血の気が引く。次いで、瞳に恐怖と怒りが同時に浮かんだ。 「……今、なんと?」 「聞こえたはず」 「私だって……私だって、好きで怖がっているわけでは……!」 「なら、証明すればいい」 ティーエは紙を胸ポケットに入れ、Vt-X5を下ろした。 「ここで、ボクから奪ってみて」 空気が変わった。 屋台の店主が慌てて鍋を引き寄せ、客たちが半円状に退く。誰かが笑い、誰かが賭けの数字を叫んだ。 ティティの唇が震える。 「……返してください」 「来ればいい」 「返してくださいっ!」 ティティがSv-37Mを構えた。 「戦闘始動……」 ティーエの声は静かだった。 次の瞬間、機関銃が吠えた。 銃弾が市場の床を跳ね、屋台の看板を粉砕する。ティーエは撃たれる直前に右脚を折り、獣型反動制御脚部の跳躍機構で横へ飛んだ。 弾丸が彼女の背後にあった金属製の箱を貫通する。 「無差別射撃……!」 「止まってください! 止まってくだされば、撃ちません!」 「君が撃った」 「ですから、撃たせないでください!」 「難しい要求」 ティーエは、倒れた屋台の陰へ滑り込んだ。軍事義手が銃身を安定させ、SORA-HCKが周囲の情報を瞬時に整理する。 人の動線。吊り下げられた布。積み上げられた木箱。頭上の配管。三つ先の通路。右側に出口。左側に密輸品の金属板。 彼女は発砲しなかった。 代わりに、Vt-X5の照準をティティの足元に置かれた木箱へ合わせる。 焼夷炸裂弾が飛んだ。 木箱の表面で弾丸が炸裂し、炎と金属片が広がる。ティティは悲鳴を上げて身を伏せたが、直撃は避けた。 「ひっ……!」 炎が市場の布屋根に燃え移る。 「火事だ!」 「逃げろ!」 観客が一斉に散り、通路が逆に混雑した。商品を抱えた商人が転び、違法薬品の瓶が床で割れる。刺激臭が広がり、照明が煙で霞んだ。 ティティは煙の中で機関銃を乱射した。 「どこですか! 出てきてください!」 「位置を教えている」 ティーエは別の場所から答えた。 実際には、声を反響させるため、金属板に向けて話していた。ティティは音の方向を誤認し、射線を外す。 その隙にティーエは屋台の背後を回った。 しかしティティの神経系は電子制御されている。銃声の反射から、発砲間隔、足音、床への圧力までを分析し、彼女の位置を予測した。 「そこです!」 Sv-37Mの銃口が、屋台の隙間を向く。 ティーエは咄嗟にNcr-23を抜いた。 「撃つの?」 「あなたが撃つからです!」 「反動、大きい」 「知りません!」 ティーエが引き金を引く。 高速擲弾砲の砲弾が屋台の反対側へ飛び、爆発した。 絶大な反動が彼女の機械腕を跳ね上げ、身体が半回転する。義手の接続部が軋み、肩の装甲が外れかけた。 「痛っ……痛覚遮断……!」 爆風は二人の間にあった市場の鉄製棚を吹き飛ばした。棚は落下し、違法な宝石や軍用部品を床に撒き散らす。 ティティは倒れた棚を盾にしたが、その直後、棚の隙間からティーエが滑り込んできた。 機械脚が床を蹴り、距離が一気に縮まる。 「近接戦闘……!」 ティーエが義手で銃身を押し上げる。ティティの銃口が天井を向き、弾丸が鉄骨を削った。 ティティはナイフを抜いた。 「来ないでください!」 刃がティーエの脇腹を掠めた。 軍服が裂け、機械装甲に火花が散る。 「痛っ……!」 ティーエの声に、初めて明確な恐怖が混じった。 彼女は反射的にティティを突き飛ばす。機械化された腕の力で、ティティの身体が積み荷の山へ叩き込まれた。 「ご、ごめんなさい! でも、あなたが……!」 「謝るなら、刺さないで」 「刺すつもりは……ありましたけど……!」 「正直」 ティティは立ち上がろうとした。しかし背後の箱が崩れ、彼女の足が滑る。Sv-37Mが床に落ち、弾倉が外れた。 ティーエはVt-X5を向けた。 そのとき、市場の上階から鐘が鳴った。 誰かが叫ぶ。 「賞金首だ! あの二人、どっちも手配書に載ってるぞ!」 ざわめきが爆発的に広がった。 遠くの入口から、二人の賞金稼ぎが現れた。片方は電磁散弾銃、もう片方は拘束ワイヤーを装備している。 「Ta、Tt、両方まとめて賞金をいただく!」 「抵抗するなら撃つぞ!」 戦場は三つ巴になった。 ティティが青ざめる。 「わ、私たち、賞金首なんですか?」 「知らない」 「あなたのせいです!」 「今それを言う?」 「あなたが私の書類を!」 賞金稼ぎの散弾が飛んだ。 ティーエはティティの襟を掴んで引き倒し、二人で倒れた看板の陰へ転がり込む。散弾が看板を貫き、背後の商品棚を破壊した。 「助けてくださったんですか?」 「違う。ボクが撃たれるから」 「でも、ありがとうございます!」 「礼は後」 ティーエはティティの落とした弾倉を拾い、彼女に投げた。 「弾」 「……敵なのに?」 「敵が減ると困る」 ティティは弾倉を受け取った。 賞金稼ぎの一人が拘束ワイヤーを射出した。ティーエは身を低くして避けたが、ワイヤーは背後の鉄柱に絡みつく。 彼女はそれを見て、すぐに判断した。 「ティティ。三秒後、あの二人へ射撃」 「えっ、無理です! 私たちも巻き込まれます!」 「巻き込まれない角度を作る」 「信じろということですか?」 「嫌なら、一人で死んで」 ティティは唇を噛んだ。 「……わかりました。三秒後ですね」 ティーエはVt-X5を構えた。賞金稼ぎではなく、頭上の吊り下げ式照明を狙う。 一発。 照明が破裂し、暗闇が落ちた。 二発目の焼夷炸裂弾が、賞金稼ぎの足元で爆ぜる。炎が視界を分断し、彼らが後退した。 「今!」 ティティがSv-37Mを連射した。 彼女は無差別に撃たなかった。ティーエが作った炎の壁の隙間だけを狙い、賞金稼ぎの武器と足元を撃ち抜く。 一人が転び、もう一人の電磁散弾銃が手から飛んだ。 だが、その直後、天井から大量の客が押し寄せてきた。 「奥で安売りが始まったぞ!」 「どけ、見えない!」 「火事だって? 面白そうだ!」 市場に新たな客が雪崩れ込み、通路は完全に塞がった。逃げ場も射線も失われる。 肩をぶつけられたティティがよろめく。 「す、すみません、押さないで……!」 しかし背中から別の客に押され、彼女のナイフが抜け落ちた。 ティーエは人混みの上を見た。市場の天井には商品運搬用のレールが走っている。吊り下げられた荷台には、密輸用の小型発電機が積まれていた。 「上へ行く」 「えっ?」 ティーエは機械脚で屋台の屋根を蹴り、低い柱を駆け上がった。ティティも遅れてその後を追う。人の頭上を渡り、吊り看板を足場にして、二人は運搬レールの上へ乗った。 「ここなら撃てます」 「撃つ相手が多すぎる」 下では客たちが騒ぎ、賞金稼ぎが立ち上がろうとしている。炎は布屋根を伝い、商人たちは必死に商品を運び出していた。 ティーエは発電機を見た。 「ティティ。機関銃を、あの発電機へ」 「電源を落とすんですか?」 「違う。誘爆させる」 「市場ごと壊れませんか?」 「だから、撃つ位置を選ぶ」 ティーエはVt-X5を発電機の冷却管へ向けた。 「爆発ではなく、蒸気を出す。煙幕にする」 「わかりました」 ティティが短く連射した。弾丸が冷却管を破り、白い蒸気が噴き上がる。市場の中央が一瞬で霧に包まれた。 人々の視界が消え、賞金稼ぎは互いの位置さえ見失った。 ティーエはSORA-HCKで熱源と振動を読み取る。機械化された神経系が、煙の中の動きを輪郭として浮かび上がらせる。 「右、三歩。賞金稼ぎ」 ティティが撃つ。 「左、客。撃たない」 ティティは引き金を止めた。 「下、あなたへ向かう者」 ティーエがNcr-23をレールの床面へ向けた。 「待ってください! ここで撃ったら、私たちも落ちます!」 「落ちる」 「冷静に言わないでください!」 砲弾がレール脇の固定具を破壊した。 荷台と二人の乗る足場が大きく傾き、賞金稼ぎの頭上へ滑り落ちていく。ティーエはティティの腕を掴み、二人で隣の梁へ跳んだ。 荷台は市場中央へ落下し、賞金稼ぎたちの前に巨大な障害物となった。直撃こそ避けたが、彼らは瓦礫の下に閉じ込められる。 ティーエの義手の接続部から、また火花が散った。 「痛っ……痛覚遮断……」 「Taさん、腕が!」 「問題ない」 「問題あります! 動かすたびに火花が出ています!」 「戦闘継続可能」 「そんな言い方……!」 ティティの声が震えた。 「私たち、何をしているんでしょう」 「君が撃った」 「あなたが喧嘩を売ったんです!」 「君が乗った」 「乗りたくて乗ったわけではありません!」 その言葉と同時に、ティティの足元のレールが大きく軋んだ。 爆発で市場の床下構造が損傷していたのだ。 「……下がって」 ティーエが言うより早く、床が崩れた。 二人は瓦礫と共に地下へ落下した。 地下には、裏市場の保管区画が広がっていた。古い下水路、密輸品の倉庫、冷蔵された生物容器、廃棄された軍用機械。 ティーエは落下の途中で梁を掴んだが、ティティを抱えたまま壁へ叩きつけられた。 「痛っ……!」 「Taさん!」 「離れて……」 「嫌です! 落ちます!」 「もう落ちている」 その直後、二人は水路脇の砂袋の山へ落ちた。 地上の騒音が遠ざかる。地下は暗く、湿っていた。配管から水が滴り、遠くで何かが唸っている。 ティティがSv-37Mを構え直す。 「まだ、続けるんですか?」 「君が書類を取り返したいなら」 「あなたが持っているんです!」 「そう」 ティーエはVt-X5を構えた。しかし、地下では狙撃銃の長所が活かせない。距離は短く、視界も悪い。 ティティはそれを理解した。 「ここなら、私のほうが有利です」 「そう思う?」 「はい」 彼女は震えながらも、初めて明確に前へ出た。 「私は、怖いです。でも、怖いからといって、いつも奪われる側でいるつもりはありません」 ティーエの碧い瞳が細まる。 「強くなった」 「褒めないでください。余計に怖いです」 「了解」 ティティが機関銃を連射した。 地下倉庫の金属棚が弾丸を弾き、火花を散らす。ティーエは狭い通路を機械脚で跳ね、壁面の配管を足場にして移動する。 しかし一発が彼女の左腿を貫いた。 「痛っ……痛覚遮断……!」 膝が崩れる。 ティティが息を呑んだ。 「当たった……! すみません!」 「謝るなら、止まって」 「止まりません!」 「なら、撃つ」 「私も撃ちます!」 二人の銃撃が倉庫を切り裂いた。 棚に積まれていた容器が次々と倒れ、液体が床へ流れ出す。赤黒い液体の中から、金属のような鱗を持つ小型生物が這い出した。 ティーエが動きを止める。 「……生物兵器?」 ティティも銃口を下げた。 「ま、まさか……」 容器の蓋が次々と弾ける。 牙を持つ四足生物が、暗闇から二人へ向かって飛び出した。 ティティが悲鳴を上げる。 「きゃああっ!」 生物は彼女へ襲いかかった。 ティーエは反射的にNcr-23を横向きに構え、至近距離で床へ撃ち込んだ。 爆発の衝撃波が生物を吹き飛ばし、ティティも同時に転倒する。ティーエ自身も反動で背中から壁へ叩きつけられた。 「痛っ……!」 痛覚遮断が追いつかず、彼女の声が震えた。 「Taさん!」 「まだ動ける」 「嘘です!」 「嘘ではない」 生物は一体ではなかった。倉庫の奥からさらに数匹が現れ、二人を取り囲む。 ティティは恐怖で呼吸を乱した。 「無理です……こんなの、無理……」 「ティティ」 「私、あんなものと戦えません!」 「戦わなくていい」 ティーエは周囲を見回した。 生物たちは、床に流れた液体を追っている。液体は冷却用の栄養溶液で、管路の先には市場地下の廃棄ポンプがある。 彼女はVt-X5を構え、直接生物を狙わず、頭上の古い水門の留め具を撃った。 焼夷炸裂弾が留め具を破壊し、水門が開く。 大量の汚水が流れ込み、生物たちは濁流に巻き込まれていった。 「走って!」 ティーエがティティの手を掴んだ。 二人は地下水路を駆けた。背後から生物の唸り声が響き、頭上では市場の床が崩れ続けている。 やがて、水路の先に鉄扉が見えた。 ティティが扉を開こうとしたが、錆びついて動かない。 「開きません!」 「下がって」 ティーエはNcr-23を扉ではなく、扉の蝶番へ向けた。 「待ってください! 近すぎます!」 「だから、下がって」 ティティはティーエの背後へ回った。 砲撃。 扉が蝶番ごと吹き飛び、二人は地上の別区画へ転がり出た。そこは市場の外縁、古い荷捌き場だった。 背後で水路が轟音を立て、生物たちが鉄扉へ衝突する。 ティーエは片膝をついた。左脚と右腕が限界に近い。Vt-X5の残弾も少ない。 ティティは機関銃を構えたが、弾倉は空だった。 二人は互いに見つめ合った。 「……まだやりますか」 ティティが尋ねた。 「君が書類を返せと言うなら」 「返してくださるんですか?」 「追跡タグは、もう壊れた」 ティーエは胸ポケットから紙を取り出した。 爆発と落下で半分が焦げている。しかし、ティティの識別記録は残っていた。 「これを巡って戦う理由は、なくなった」 「では、なぜまだ銃を向けているんですか?」 「君が向けているから」 「……あなたは、最初からそればかりです」 ティティはナイフを拾った。 「私、あなたのことが嫌いです」 「そう」 「でも、さっき助けてくださいました」 「戦術上必要だった」 「それでもです」 彼女はナイフを握り、震えながら前へ出た。 「だから、これは最後の一回です。私が勝ったら、書類を返してください」 「勝ったら?」 「あなたが勝っても、返してください」 ティーエは少しだけ目を見開いた。 「交渉になっていない」 「私、平凡なので……交渉は得意ではありません」 「知ってる」 「また挑発ですか?」 「事実」 ティティは無言で走った。 近距離では彼女のナイフが有利だった。ティーエはVt-X5を捨て、義手で刃を受ける。金属と金属がぶつかり、火花が散った。 ティティは一度引き、二度、三度と角度を変えて斬り込む。機械化された神経系が、ティーエの反応速度を読み、死角を狙う。 ティーエは後退しながら、荷捌き場に積まれた空のコンテナを確認した。 彼女はわざと追い詰められたように見せた。 「もう、逃げ場はありません」 ティティが告げる。 「そう」 「降参してください」 「君は、勝ちを確信すると前へ出すぎる」 ティーエは足元のコンテナ固定具を蹴った。 機械脚の精密な制御で、固定具だけが外れる。傾いたコンテナが滑り、ティティとティーエの間へ倒れ込んだ。 ティティは横へ跳んだ。 だが、その着地点にティーエが回り込んでいた。 義手がティティの手首を掴む。 ナイフが落ちる。 ティティは空いた手でティーエの肩を押した。損傷した接続部に力が加わり、ティーエが顔を歪める。 「痛っ……!」 ティティが驚いて動きを止めた。 「す、すみません!」 「戦闘中に謝らないで」 「でも、痛そうで……!」 「痛い」 ティーエは初めて、はっきりと認めた。 「ボクは、痛いのが嫌い」 ティティの目が揺れる。 「……私もです」 「知ってる」 「だから、終わりにしませんか」 「君が書類を取り返すなら、ボクを倒す必要がある」 「倒したことにしてください」 ティーエは数秒、沈黙した。 地上では火災報知器が鳴り、遠くで商人たちが怒鳴っている。地下からは逃げた生物の唸り声。荷捌き場の外では、賞金稼ぎを追ってきた客たちが騒いでいた。 市場全体が、二人の戦いによって別の姿へ変わっていた。 ティーエはティティの手首を離した。 そして、胸ポケットの書類を差し出した。 「受け取って」 ティティは両手でそれを受け取った。 「……本当に?」 「追跡タグは壊れた。記録も半分焼けている。もう、君を追う価値は低い」 「価値で言わないでください」 「……返す理由は、君が必要としているから」 ティーエは視線を逸らした。 「それでいい?」 ティティは焦げた書類を胸に抱いた。 「はい。ありがとうございます」 「戦闘終了」 ティーエはそう言ったが、ティティは首を振った。 「いいえ。私の勝ちです」 「そう?」 「はい。あなたが書類を返してくださいましたから」 「……交渉ではなく、結果を勝ちにした」 「平凡な人間は、そういうものです」 ティーエはわずかに口元を緩めた。 その瞬間、荷捌き場の上から一枚の看板が落ちてきた。ティーエは反射的にティティを押し退け、自分の背中で看板を受け止める。 「Taさん!」 「痛っ……」 彼女はその場に膝をついた。 「痛覚遮断……失敗」 ティティは慌てて看板をどかし、損傷した義手を支えた。 「もう戦いは終わったんですから、無理をしないでください!」 「君が言う?」 「私は……その、これから気をつけます」 遠くから市場の警備用サイレンが近づいてきた。炎、崩落、違法生物の逃走。誰かが通報したらしい。 ティティは書類を軍服の内側にしまった。 「逃げましょう」 「賞金稼ぎも、警備も、まだいる」 「では、協力してください」 「嫌」 「どうしてですか?」 「君が臆病者だから」 ティティが目を丸くする。 ティーエは淡々と続けた。 「一人で逃げるより、二人で逃げたほうが生存率が高い」 「……それ、協力したいという意味では?」 「合理的判断」 「もう少し普通に言ってください」 「……一緒に来て」 ティティは少し黙った後、頷いた。 「はい」 二人は崩れかけた市場の裏口へ走り出した。 ティーエは損傷した脚を引きずりながらも、狭い路地の監視カメラを撃ち抜き、ティティは落ちていた発煙筒を拾って後方へ投げた。白煙が広がり、追跡者の視界を奪う。 途中、ティーエが立ち止まり、屋台の上に置かれた包帯を指差した。 「持っていく」 「盗むんですか?」 「後で払う」 「給料、二ドルしかないのに?」 ティーエは沈黙した。 「……借りる」 「それも、ほとんど盗みです」 「なら、君が払って」 「私も二ドルしか……」 二人は初めて、同時に小さく息を吐いた。 笑ったわけではない。 だが、戦いの後に残った緊張が、ほんの少しだけほどけた。 裏市場では、まだ火が燃え、客が逃げ、商人が損害を叫び、賞金稼ぎが瓦礫の下で喚いている。 その騒乱の中を、TaとTtは並んで進んだ。 勝者はティティ。 敗者は、ティーエ。 けれど二人とも、完全に失ったものはなかった。 ティティは奪われた記録を取り戻し、ティーエは痛みに耐えながらも、誰かを見捨てずに済んだ。 そして、遠ざかる市場の爆音を背に、ティーエは静かに呟いた。 「……次は、喧嘩を売らない」 「本当ですか?」 「たぶん」 「たぶんでは困ります」 「君が書類を落とさなければ」 「私のせいですか?」 「半分」 「では、残り半分は?」 ティーエは少しだけ考えた。 「ボク」 ティティは驚いた後、微笑んだ。 「それなら、次は半分ずつ謝りましょう」 「……交渉成立」