空はどす黒い雲に覆われ、絶えず不吉な雷鳴が轟いていた。そこは、世界の境界が曖昧になった「虚無の狭間」。物理法則が崩壊し、時折空間に亀裂が入る不気味な廃都である。 火宮茜は、静かにその場に立っていた。黒い和服の裾が、不気味な風に揺れている。彼女がここへ赴いたのは、時空を乱す「特異点」の抹消。その任務を遂行するためだ。しかし、目的の獲物に辿り着く前に、雑多な異形の群れ――次元の裂け目から漏れ出した飢えた獣たちが彼女を襲った。 「……煩い。退け」 感情を排した冷徹な声。茜が腰の時空剣『神威』に手をかけた瞬間、世界が静止した。否、静止したように見えただけだ。彼女の抜刀速度は既に一秒の壁を遥かに超えている。天涯一心流・居合。一閃。目に見えぬ速度で放たれた斬撃が、扇状に広がり、襲いかかった獣たちを文字通り「刻んだ」。血飛沫が舞う暇すらなく、獣たちは同時に四分五分に裂け、塵となって消え去る。 だが、その時だった。背後から飛来した巨大な岩礫が、彼女の死角を突く。茜は即座に反応し、それを斬り伏せようとしたが――。 ガキンッ!! 鋭い金属音が響き、岩礫が不自然な方向へと弾き飛ばされた。茜は即座に身を翻し、刀を構える。そこには、自分以外の「人間」が立っていた。 空色の髪をなびかせた、幼さの残る少女。身に纏うのは、この世のものとは思えぬほどに神々しく、そして堅牢そうな白銀の鎧。その腕には、絶対的な拒絶を体現したかのような巨大な盾が握られていた。 「……あ、えっと。危なかったですから、つい」 少女――チル・ピリオドは、おどおどとした様子で、けれど丁寧な口調で話した。その表情は穏やかで、戦場にあるはずの殺気が一切ない。 茜の瞳に鋭い光が宿る。相手が敵か味方かなど、この状況では判断材料にならない。彼女は低く構え、いつでも抜刀できる体制に入る。対するチルは、盾を構え直して不思議そうに小首をかしげた。 「あの……あなた様も、あの方を追いかけてここに来られたのですか?」 「……貴殿は誰だ。何故ここに居る」 「私はチル。ただの守護者です。あの方の暴走を止めるために、派遣されました」 互いに探り合う。茜は相手から攻撃的な意図を感じなかったが、同時にその盾から放たれる「不可侵」の圧力を感じ取っていた。斬り伏せられるか。あるいは、弾かれるか。そんな思考が交錯した瞬間、大気が激しく震動した。 ズゥゥゥゥン……!! 廃都の中心から、天を貫くほどの漆黒の柱が突き上がり、そこから「それ」が現れた。 【虚空の暴君・アビス・レギオン】。 高さ十メートルを超える、鎧を纏った巨躯。全身から黒い炎を噴き出し、その背中には六枚の骨のような翼が広がっている。彼がひとたび咆哮すれば、周囲の空間がガラスのように砕け散った。圧倒的な破壊の権化。この個体こそが、二人が追っていた目的の強敵であった。 レギオンが巨大な大剣を振り下ろす。その一撃は衝撃波だけで周囲の建物を粉砕し、地表に深い断崖を作り出した。 「……チッ。間に合ったか」 茜が呟き、瞬時に距離を詰める。しかし、レギオンの反応速度もまた異常だった。大剣の裏側から放たれた黒い衝撃波が、茜の逃げ道を塞ぐ。 「危ないです!」 チルが瞬時に茜の前へと割り込んだ。巨大な【不壊の神盾】が衝撃波を正面から受け止める。凄まじい衝撃が走るが、チルは一歩も退かない。不壊の神鎧が鈍い光を放ち、あらゆる衝撃を完全に無効化した。 「……どいたか」 「はい! 今なら行けます!」 茜はチルの背中越しに、迷いなく跳躍した。空中で身体を捻り、神威を抜く。 「天涯一心流――空間刻」 予備動作は一切ない。敵が認識するよりも早く、空間そのものを切り裂く斬撃がレギオンの胸元に浴びせられた。目に見えぬ無数の斬撃が、巨躯の装甲を幾重にも切り裂き、火花を散らす。しかし、レギオンは呻き声一つ上げず、切り裂かれた箇所から黒い霧を噴出させ、瞬時に再生させた。 「……再生か。しつこいな」 「すごい攻撃ですね! でも、あの方、とっても頑丈みたいです」 感心しているチルに、茜は冷静に告げた。 「貴殿。守ることに特化しているようだが……私の攻撃に合わせられるか。私が斬る。貴殿はその間、私の背後を、そしてこの場の崩落を防げ」 「はい! お任せください。私、守ることだけは自信がありますから!」 奇妙な共闘関係が成立した。一方は絶対的な矛、一方は絶対的な盾。正反対の二人が、一つの目的のために背中を合わせた。 レギオンが激昂し、六枚の翼から黒い光弾を乱射し始める。広範囲を埋め尽くす絶望的な弾幕。だが、チルは静かに盾を掲げた。 「【必護の盾】」 概念としての防御。そこに「突破」という選択肢は存在しない。降り注ぐ光弾はすべて盾に当たった瞬間、静止し、そして弾け飛んだ。チルは微動だにせず、ただそこに在ることで、茜に完全な自由を与えた。 「今だ」 茜の姿が消えた。流閃。不可視の速度でレギオンの懐に潜り込む。レギオンが大剣を横に薙ぎ払うが、茜は流れるような動作でそれを回避し、同時に斬撃を繰り出す。斬り、斬り、斬り、斬る。一瞬の途絶えもない連撃。もはや一本の刀ではなく、斬撃の嵐となってレギオンを包み込んでいた。 しかし、レギオンは強大だった。彼は自らの身体を爆発させ、周囲に強烈な斥力を放った。茜が後方に弾き飛ばされそうになった瞬間、背後にいたチルが彼女の腰を支え、盾で衝撃を相殺する。 「ふぅ……。ありがとうございます」 「いえいえ! それより、あの方の攻撃、どんどん激しくなってますね」 レギオンが咆哮し、空中の黒い雲を凝縮させ、巨大な黒い槍を形成した。それを全力で投撃する。空間をねじ切り、すべてを消し去る絶滅の槍。 「……防げるか」 「はい。……ちょっと、重そうですけど」 チルは盾を構え、足を深く踏み込んだ。槍が衝突した瞬間、大地が陥没し、凄まじい衝撃波が周囲を吹き飛ばす。だが、チルは耐えた。歯を食いしばり、不動の精神でその衝撃をすべて受け止めていた。盾が真っ白に発光し、レギオンの放ったエネルギーをすべて吸収し始める。 「……今です! 火宮さん!」 「分かっている」 茜は静かに目を閉じた。精神を研ぎ澄まし、世界から雑音を消す。構え。その瞬間、周囲の空気が凍りついた。 「天涯一心流――【無間】」 居合の構えをした瞬間、世界が白く染まった。レギオンの周囲に、数万、数億という数えきれないほどの斬撃が同時に顕現する。逃げ場はない。防御という概念すら意味をなさない。分子レベルで崩壊させる絶対的な切断の檻。 レギオンは絶叫し、必死に大剣で防御しようとしたが、無間の斬撃は防御ごとすべてを噛み砕いた。肉体が、鎧が、魂までもが、細分化され、消滅へと向かう。 だが、レギオンも最後の一撃を繰り出していた。自身の全エネルギーを一点に集約した、特大の黒い衝撃波をチルへと放ったのだ。チルの盾に激突し、爆発が起こる。 しかし、チルは笑っていた。 「溜まりました……! 行きますよ!」 奥義【ラストカウンター】。 これまでレギオンが放ったあらゆる攻撃、衝撃、絶望的な威力をすべて蓄積し、倍増させて撃ち返す究極の反撃。チルの盾から、眩いばかりの光の奔流が放たれた。それはレギオンの弱点――茜の【無間】によって防御を崩された心臓部へと真っ向から突き刺さった。 「――――っ!!!」 レギオンの絶叫が響き渡る。内側から爆発する光と、外側から刻み続ける斬撃。逃げ場のない絶対的な破壊の連鎖に、虚空の暴君はついに耐えきれず、光の粒子となって霧散していった。 静寂が戻った。 どす黒い雲が晴れ、わずかに隙間から青空が覗いている。 茜はゆっくりと刀を鞘に納めた。カチリ、という小さな音が、戦闘の終わりを告げる。彼女は肩で息をすることもなく、いつもの無表情な顔でチルを振り返った。 「……見事な盾だった」 「えへへ。ありがとうございます。あなた様の剣、本当に速くてかっこよかったです!」 屈託なく笑うチルに、茜はわずかに視線を逸らした。感情を表に出すことはないが、その心中には、この奇妙な少女に対する確かな信頼感のようなものが芽生えていた。 「……礼は不要だ。任務を遂行したまで」 「もう、つれないですね。せめて、どこかで一緒にお茶でもしませんか?」 「……断る」 「えーっ! 厳しいなあ」 ぶっきらぼうに答える茜だったが、その歩調はどこか緩やかだった。二人は正反対だった。一方は斬ることで守り、一方は防ぐことで守る。けれど、その目的が「誰かを守るため」であることは同じだったのかもしれない。 廃都を後にする二人の背中。一人は黒い和服をなびかせ、一人は白銀の盾を背負って。互いの世界観は違えど、この一時の共闘は、彼らにとって忘れがたい記憶となったはずだ。