昼夜の区別など、この裏市場には存在しなかった。 天井を覆う鉄骨の隙間から昼の光が差し込んだかと思えば、数歩先では魔導灯が青白く瞬き、さらに奥では違法な太陽石が人工の夕焼けを作っている。情報屋、賞金稼ぎ、密輸商、呪具職人、偽造薬の売人、異形の客。誰もが値札のない品を手に、怒鳴り、笑い、騙し、時には悲鳴を上げていた。 その雑踏を、天乃奏穂は白衣の上に黒い外套を羽織って歩いていた。 表の学校では保健委員長。裏では、負傷者が最後に頼る医者。 銀髪のウルフカットが人波を裂き、赤い瞳が無数の商品を見抜いていく。毒物、麻酔薬、薬草、錬金用の鉱石。必要なものを買い集めるだけのつもりだった。 だが、薬品街の一角で、彼女は薔薇の意匠を刻んだレイピアを持つ少女と肩をぶつけた。 「……ごめんなさい」 先に頭を下げたのは、近藤香だった。病弱そうな白い顔、柔らかな表情。それでも、彼女の周囲だけは不思議なほど人の流れが乱れなかった。 奏穂の目が、香の腰のレイピアへ落ちる。 「その剣、ここで抜くものじゃない。周囲に人が多すぎる」 「ええ。だから抜くつもりはないわ」 「なら、なぜ持っているの」 「風紀委員長だからよ。場所がどこでも、乱れを正す必要があるでしょう?」 その言葉に、奏穂の眉がわずかに動いた。 ちょうどその時、露店の主人が彼女の買った薬瓶を奪い取った。 「おいおい、医者様よ。代金が足りねえぞ」 「払った」 「証拠は?」 「あなたの袖の中にある、私の財布」 奏穂が冷たく言うと、店主は舌打ちした。香はすぐに間へ入る。 「返してあげてください。盗みはよくないわ」 「正義ごっこかよ、嬢ちゃん。ここは裏市場だぜ」 周囲から笑い声が上がった。 香は困ったように微笑み、奏穂のほうを向いた。 「あなたも、これ以上騒ぎを大きくしないで。薬は返ってくるわ」 「その言い方は嫌い」 「え?」 「あなたはこの市場を知らない。善意だけで踏み込めば、誰かが死ぬ」 「だからこそ、止めるのよ」 「止める? 私の仕事を邪魔して?」 奏穂の声から温度が消えた。 彼女は露店の主人の袖をつかむと、手首をひねり、財布を取り戻した。軽い動きだったが、店主の巨体は屋台の机へ叩きつけられる。薬瓶が跳ね、周囲の客が悲鳴を上げた。 「私は、患者を助けるためなら手段を選ばない。邪魔をするなら、あなたも治療対象にする」 香の表情から笑みが消えた。 「……今のは、やりすぎよ」 「あなたに決められる筋合いはない」 「そう。では、仕方ないわね」 香は薔薇のレイピアに手を添えた。 「私は持っているわ勝算、説明するわ対戦相手の敗因」 市場の喧騒が、一瞬だけ遠のいた。 香の声は小さい。それなのに、天井から地下の下水道まで、すべてに届いたようだった。 「私の勝算は、あなたが誰かを守るために戦うこと。あなたの敗因は、守るべき人が多すぎること」 奏穂の赤眼が細まる。 「勝手に決めないで」 「決めたのではないわ。確認したのよ」 「なら、確認不足ね」 奏穂は外套の内側からハンドガンを抜いた。 周囲の商人たちが一斉に身を伏せる。だが奏穂は人に向けず、香の足元へ麻酔弾を撃ち込んだ。弾丸は床板をかすめ、薬液の霧を広げる。 「話し合いで済ませる気はないの?」香が尋ねた。 「最初に喧嘩を売ったのは、あなたでしょう」 「ええ。だから受けてくれるかしら」 「断る理由がない」 香が一歩踏み出した。 レイピアが抜かれる。しかし刃は薔薇の花弁のように柔らかく、殺傷力を持たない。それでも、突きの軌道は鋭かった。 奏穂は紙一重でかわし、手首を取る。合気道の崩しで香の体勢を崩し、肩を押して屋台の陰へ投げた。 だが香は転ぶ前に、ありえない角度で足をついた。未来に倒れるはずだった身体が、過去の「倒れなかった」位置へ戻る。 「事後の修正……?」 「そうね。あなたの投げは成功した。でも、私は倒れなかった」 香のレイピアが返す刀のように奏穂の脇腹を打つ。殺傷力のない剣先でも、衝撃は強い。奏穂は薬棚へ吹き飛び、瓶を何本も割った。 紫色の液体が床に広がり、周囲の商人が慌てて荷物を持ち上げる。 「その薬、吸わないで!」奏穂が叫んだ。 「自分で割ったのに?」 「だから言っている」 奏穂は床を滑りながら、割れた瓶の中身を見極めた。毒ではない。揮発性の鎮静剤だ。 彼女は袖から小型の容器を取り出し、床へ投げた。別の薬液が反応し、刺激臭のある気体が発生する。鎮静剤の拡散が抑えられ、風向きが変わった。 「薬を組み合わせて、霧の流れを変えたのね」 「市場には風がある。屋台の排気管、地下通路、魔導灯の熱。利用できるものは全部使う」 奏穂は棚を蹴った。吊り下げられた布が落ち、香と奏穂の間に幕を作る。 千里眼が発動した。 布越しでも、香の筋肉の微細な動き、呼吸の乱れ、重心の移動が見える。病弱な身体。長期戦には向かない。だからこそ、一撃一撃に迷いがない。 奏穂は背後に回り、腕を極めようとした。 しかし香が言う。 「あなたの勝算は、私の体力が先に尽きること」 その宣言と同時に、奏穂の腕が空を切った。 「そして敗因は、私を分析しすぎること」 香のレイピアが、奏穂の肩を打つ。奏穂の身体が勝手にその軌道へ引かれたようだった。 「……なるほど。宣言が、結果を固定する」 「そうよ」 「なら、固定された結果以外を使う」 奏穂は肩から血を流しながら笑った。 赤い瞳が青へ変わる。 天使と堕天の魔法。光と影が同時に市場の壁を走り、香の視界を白黒に分断した。魔法が効いたわけではない。奏穂は魔法そのものを攻撃にせず、照明と影、鏡面の鍋、濡れた床を利用して、香の認識だけを乱した。 香は目を閉じた。 「見えなくても、結果は見えるわ」 「そう?」 奏穂はハンドガンを二挺に持ち替え、毒弾と麻酔弾を別方向へ発射した。弾は香を狙わず、屋台の柱、吊り看板、鉄製の鍋へ当たる。 反射音が市場中に響いた。 香の耳がわずかに動く。 その瞬間、奏穂は踏み込んだ。 ジークンドーの直線的な打撃。香はレイピアの柄で受けたが、衝撃を完全には殺せず、後ろへ下がる。そこへ奏穂の足払いが迫った。 「あなたの敗因は――」 香が口を開く。 奏穂は咄嗟に身をひねった。 「まだ言わせない」 肘打ちが香の胸元をかすめ、香は屋台の奥へ倒れ込んだ。 その時だった。 市場の入口から、怒号が響いた。 「両方に賞金がかかったぞ! 銀髪の医者に三百万、薔薇剣の風紀屋に五百万だ!」 ランダムイベント――賞金稼ぎが二人に賞金を懸け、乱入した。 黒装束の男たちが、観客を蹴散らして現れる。片方は鎖斧、もう片方は散弾銃を構えていた。 「勝負の邪魔をしないで」香が言う。 「それはこっちの台詞だ」奏穂も吐き捨てた。 賞金稼ぎたちは同時に攻撃した。 鎖斧が奏穂へ飛び、散弾が香へ放たれる。 奏穂は鎖をつかみ、引き寄せた男の喉元へ麻酔弾を撃ち込む。香はレイピアで散弾をすべて逸らした。無数の弾が壁に埋まり、壁の裏に隠されていた違法な魔石が爆ぜる。 爆風で屋台が倒れ、人々が一斉に逃げ出した。 「あなた、一般人まで巻き込む気?」香が叫ぶ。 「巻き込ませない」 奏穂は倒れた棚を支え、下敷きになりかけた少年を片手で引き抜いた。能力によって、相手に合わせて全身の性能が引き上げられている。重い棚を持ち上げながらも、視線は香から離さない。 「先に賞金稼ぎを片づける。異論は?」 「ないわ」 二人は初めて同じ方向を向いた。 香がレイピアで鎖斧の軌道を固定し、奏穂がその鎖を足場にして跳ぶ。空中からの踵落としで男を屋台へ沈めた。 散弾銃の男が奏穂へ照準を戻す。 香が一歩前へ出た。 「彼の敗因は、撃つ前に私が間に合うこと」 宣言通り、香の身体が弾丸の前へ滑り込む。 だが不殺のレイピアが銃身を跳ね上げ、散弾は天井へ抜けた。奏穂は男の懐へ入り、軍用格闘術で腕を折らずに関節を封じる。最後に麻酔弾を首筋へ撃ち込み、男を眠らせた。 「共同戦線は終わりね」奏穂が言う。 「ええ」 「あなたの勝算は、今の連携で私が油断すること」 「違うわ」 香はゆっくりレイピアを構えた。 「私の勝算は、あなたが人を傷つけない選択をすること。あなたの敗因は、冷徹に見えて優しいこと」 奏穂の目が細くなる。 「それも、固定する?」 「固定するわ」 香が踏み込む。 奏穂はライフルを取り出した。密集した市場で長銃を使えば、周囲に危険が及ぶ。だから銃口は香ではなく、頭上の魔導灯へ向けられた。 一発。 魔導灯が砕け、暗闇が落ちる。 二発。 向かいの鏡板が割れ、光の残滓が無数の方向へ散った。 三発。 床に撒かれた薬品の入った瓶が割れ、香の周囲だけに薄い霧が生まれる。 千里眼で見れば、霧の中の香の位置は明白だった。奏穂は銃を捨て、闇の中へ突入する。 香の剣が来る。 奏穂は腕で受けた。骨が折れた。しかし次の瞬間には【完成回復】が発動し、傷は完全に消える。 「効かない……?」香が驚く。 「効いた。だから治した」 奏穂は香の手首を取った。合気道で崩し、ジークンドーで間合いを詰め、逮捕術で両腕を封じる。香は未来の位置へ逃れようとしたが、奏穂は逃げ道そのものを限定するように、周囲の屋台と柱を使って動線を塞いだ。 「あなたの能力は、起きたことを変えられる。でも、起きる可能性が一つしかない状況は変えにくい」 「……そこまで読んだのね」 「医者は、症状だけじゃなく環境も診る」 香はなおも抵抗した。過去へつながる力で、奏穂の足元の床板を「すでに崩れていた」ことにしようとする。 だが奏穂はその前に、床へ薬液を撒いていた。木材を硬化させる即効薬だ。 床は崩れない。 香の力は働いた。それでも、硬化した床が「崩れなかった過去」へつながった。 奏穂は香のレイピアを奪い取らず、刃を握り込んで止めた。 「終わり」 「まだよ。私は持っているわ、勝算――」 奏穂は香の首筋へ麻酔弾を当てた。 「言わせない」 引き金が引かれる。 香の身体がよろめいた。能力は麻酔そのものを無効化できない。彼女は倒れまいと過去と未来をつないだが、奏穂は薬を改良していた。即効性ではなく、意識を保ったまま筋力だけを奪う薬。 香は膝をついた。 「……私の敗因は、あなたを怒らせたことかしら」 「違う」 奏穂は香を支え、倒れた瓦礫から遠ざける。 「あなたの敗因は、勝算を宣言すれば誰も傷つかないと思ったこと。結果を決めても、途中で誰かが怪我をする」 香は静かに奏穂を見上げた。 「あなたの勝算は?」 「私が、あなたを殺さずに勝つこと」 周囲では、逃げ遅れた客が泣き、商人たちが壊れた屋台を立て直している。賞金稼ぎは眠り、毒薬の瓶は奏穂が回収し、負傷者にはすでに応急処置が施されていた。 奏穂は香の手首に簡易の包帯を巻いた。 「……優しいのね」 「仕事」 「裏の医者として?」 「保健委員長として」 香が小さく笑った。 「では、あなたを乱闘騒ぎの主犯として連行するわ」 「あなたも原因の一人」 「そうね。だから一緒に行きましょう」 奏穂は少し考えたあと、香の腕を肩に回した。 「歩ける?」 「ええ。でも、あなたに勝ったことにはしておくわ」 「寝言は寝てから言って」 「勝算と敗因は、もう確定しているもの」 奏穂は呆れたように息を吐いた。 「次に会ったら、最初から交渉する」 「それは、次も戦うという意味?」 「あなたが喧嘩を売らなければね」 二人が市場の通路へ進むと、周囲の観客たちは道を開けた。恐れと敬意、そして面白い見世物を見た満足感が入り混じった視線だった。 壊れた魔導灯の下、薔薇のレイピアと銀髪の医者が並んで歩く。 決着は、天乃奏穂の勝利。 ただし、香の宣言どおり、彼女が誰も殺さず、誰かを守りながら勝つという形で。 市場の片隅では、先ほどの露店主人が震えながら奏穂の財布を返していた。 奏穂はそれを受け取り、店主の腫れた手首へ薬を塗った。 「治療費は、薬瓶の弁償から引いておく」 「お、お前ら本当に何なんだ……」 香が穏やかに答えた。 「風紀委員長と、保健委員長よ」 奏穂は横目で香を見た。 「裏市場で名乗る肩書きじゃない」 「でも、間違ってはいないでしょう?」 「……まあね」 雑踏は再び騒がしさを取り戻した。 戦場になった市場は、完全には元へ戻らない。割れた瓶、倒れた屋台、壁に残る弾痕、そして二人の戦いを語る噂が、新たな裏市場の情報として売買され始めていた。 その日の夜、情報屋たちはこう記録した。 ――銀髪の医者、天乃奏穂。 ――薔薇の風紀委員長、近藤香。 ――勝敗は一対一ではなく、戦場そのものを制した者に微笑んだ。 ――そして二人は、次に会えばまた必ず揉める。