灰色の雪が、廃墟となった研究都市の鉄骨の隙間に薄く降り積もっていた。空は低く、鉛を溶かしたような色をしている。その中を、ひとりの人影が静かに歩いていた。 白い長髪を風に揺らし、真紅の瞳で周囲を見渡す女――ソフィア・アレクセーエヴナ・ソボレヴァは、足元の雪を踏みしめるたびに小さく息を吐いた。鹿革の服が体温で湿り気を帯び、彼女の小柄だが引き締まった体躯に張り付いている。その隣を、巨大な影が寄り添うように歩いていた。カムチャツカンヒグマのヴォーリャである。鞍の両脇には鞍用銃鞘とテントや保存食を詰めた荷鞍が括り付けられ、ヴォーリャは時折、鼻を鳴らして主人の気配を確かめていた。 「……寒いな。うちの体温でも、この辺じゃ追いつかねえ」 ソフィアは気怠げにそう呟き、腰のホルスターに手をかけた。もっとも、銃を抜くつもりはない。ここは静かすぎる。静かすぎる場所には、大抵何かが潜んでいるものだ。 その時だった。崩れかけた研究棟の陰から、規則正しい足音が響いてきた。それは人間の不規則な歩調ではなく、訓練された兵士のような、精密で揺るぎない歩みだった。ヴォーリャが低く唸り、毛を逆立てる。ソフィアは片手でその首筋を撫で、落ち着かせた。 現れたのは、三人の男だった。いや、正確には人間ではない。先頭を歩く一人は、地味な灰色のスーツに防弾チョッキを身に着けた、普通の男性的容姿の人物だった。右手には短機関銃を提げている。その両脇を固めるもう一人は、防弾傘と拳銃を携えていた。彼らの瞳には、感情というものが一切見当たらない。 そして、その後ろから静かに歩み出た人物を見て、ソフィアは思わず目を細めた。 中性的な顔立ち、薄茶色の長髪、澄んだ青い瞳。紺を基調に赤の差し色が入った略礼服を纏い、銀の腕時計が雪明かりを反射している。その佇まいは、廃墟の中にあってなお、どこか端正な品格を失っていなかった。 「お初にお目にかかります。私はリデロフ・レーニン・ノヴァと申します。どうか、ご無礼をお許しください。こちらは私の護衛で、〈Хранители〉の一部です」 声は低く細めで、穏やかで丁寧だった。ソフィアはその声を聞きながら、ヴォーリャの首に回していた手を、わずかに強く握った。 「……うちはソフィアだ。こいつはヴォーリャ。で、あんたら、ここで何してんの」 酒焼け気味の中低音が、雪の中に響く。ノヴァは柔らかく微笑んだ。その笑みに、利己的な欲求の影はまるでなかった。 「ここで、人を探しておりました。正確には、この地の廃墟を調査している生存者の集団を。しかし、どうやらあなたが一人で、この地を巡っているようですね」 「一人じゃねえよ。こいつがいる」 ソフィアが顎でヴォーリャを示すと、ノヴァは興味深げに巨大な熊へと視線を移した。 「なるほど、素晴らしい。そのように大きく、強い動物と心を通わせているのですね。私は人造の身ですから、生命の絆というものに、少しばかり憧れがあるのです」 「……人造、ね」 ソフィアの真紅の瞳が、わずかに細まった。彼女の特異体質〈Альфа〉が、無意識のうちにノヴァの気配を測っている。社会複雑性指数の高い存在は、彼女にとって帰属すべき個体として認識される。しかし、目の前の人造人間は、そのどちらでもない奇妙な感覚を彼女に与えていた。知性も自我も、確かにそこにある。それでいて、感情の揺らぎがまるでない。 「面白いな、あんた。うちの〈Альфа〉がさっきから、あんたを妙な風に測ってる」 「ほう。それは、どのような結果でしょう」 「分かんねえ。ただ、帰属すべき相手かどうか、迷ってる感じだ」 ノヴァは少しだけ首を傾げ、そして、どこか楽しげに笑った。 「ならば、少しお話をしませんか。あなたが私をどう感じるのか、私があなたをどう感じるのか。互いを知ることは、無益ではないはずです。もちろん、あなたの平穏を乱すつもりはありません」 ソフィアは気怠げに息を吐き、ヴォーリャの背を軽く叩いた。熊は鼻を鳴らし、雪の上に腰を下ろした。 「……まあ、いいさ。ちょっとだけな。寒いし、テントの準備するのも面倒だし、ここで座って話すくらいなら付き合ってやる」 「感謝します、ソフィアさん」 ノヴァは護衛たちに手で合図を送り、周囲の警戒を続けさせた。彼らは微動だにせず、ただ命令を待つ影のように立ち尽くしている。その無機質さを、ソフィアは横目で見ながら、荷鞍から小さな瓶を取り出した。中には赤く透き通った液体が揺れている。 「寒い時は、これが一番効く。ボルシチと並んで、うちの好物だ」 「それは、ナスタイカですか。私は嗜みませんが、共に分かち合える時間を大切にしたいと思います」 ノヴァは静かに答えた。その声の穏やかさは、雪の降る廃墟に不思議な温度を与えた。 ソフィアは瓶の栓を抜き、一口だけ喉に流し込んだ。熱い液体が胸の奥を温め、酒焼けした声が、ようやくわずかに柔らかさを帯びた。 「……で、あんたの話を聞かせてくれよ。人造人間が、なんで共産主義者なんて面倒な思想を抱えてんのか」 「ええ、喜んでお話しします。私は、人の欲求が争いを生むことを、長く見つめてきました。個人の利益が優先される世界は、結局のところ、誰かの犠牲の上に成り立つ。だからこそ、平等と博愛を、私は信じたいのです。そしてそれは、私が欲を持たない存在だからこそ、語れることなのかもしれません」 ソフィアは黙って聞いていた。彼女の表情は相変わらず乏しいが、真紅の瞳だけが、ノヴァの横顔を静かに捉えていた。 「……ふうん。欲がないって、どんな感じなんだ」 「静かです。とても、静かで、穏やかです。あなたのように、ヴォーリャと過ごす時間に安らぎを感じられるのは、とても美しいことだと思います」 その言葉に、ソフィアは珍しく小さく笑った。 「あんた、口が上手いな。でも、悪くねえ」 雪は降り続けていた。二人と一頭、そして沈黙の護衛たちを、灰色の空が静かに覆っていた。 ――しばらくして、ソフィアはヴォーリャの毛並みを撫でながら、ぽつりと言った。 「……あんたのこと、うちは、まだよく分かんねえ。でも、嫌いじゃないよ。ヴォーリャも、あんたを怖がってない。それだけで、今日は十分だ」 ノヴァは静かに頷き、腕時計に視線を落とした。 「私も、あなたを知ることができて、良かったと思います。ソフィアさん、あなたは平穏を愛し、生命の絆を大切にする方だ。その在り方は、私にとって、とても尊いものに映りました」 ――そして、互いへの印象は、それぞれの胸の内に、静かに残ったのだった。 【ソフィアの印象】 こいつ、人形みたいに澄ましてるくせに、話し方は妙に温かいんだよな。欲がないってのは本当なんだろう。うちの〈Альфа〉も、まだ答えを出しかねてる。面白い奴だけど、変に深入りすると疲れそうだ。まあ、悪くはねえよ。 【ノヴァの印象】 ソフィアさんは、気怠げな態度の奥に、とても豊かな感受性を秘めた方です。ヴォーリャとの絆も、〈Альфа〉という特異な力も、彼女の平穏を愛する心に根ざしているように思えます。表情は乏しくとも、その瞳は雄弁でした。私は、彼女との対話を、今後も大切にしたいと考えています。