ダイオブデスの夕暮れは、いつも少しだけ騒がしい。 空は茜色に染まっているのに、街の広場では誰かが笑い、誰かが楽器を鳴らし、誰かが逃げ道を確認している。危険な場所であることに変わりはない。それでも、ほんの短い休息の時間には、住民たちはそれぞれのやり方で日常を作ろうとしていた。 その広場の端に、黒いマジック棒を指先でくるくる回す男がいた。 アートフル。 黒を基調にした衣装の上で、彼のマジック棒だけが妙に鮮明だった。全体は黒く、端のあたりには黒を挟むように白い線が入っている。遠目にはただの細長い棒に見えるが、彼が軽く振るだけで、目の前の空間に簡素な長方形の壁が現れた。 壁は、隠れ場所としては十分な大きさだった。 「おおーっ! 今日も出たな、秘密基地!」 広場の反対側から、明るい声が飛んできた。 バナナペールが、ギターケースを背負って歩いてくる。まだ十二歳の少年らしい軽やかさで、足取りは弾むようだった。彼は周囲を見渡すと、壁の脇から顔を出しているアートフルに手を振る。 「やあ、アートフル。新作マジック? それとも、ただの壁?」 「見れば分かるだろう。壁だ」 「そこをなんとか、夢のある言い方にしてくれよ。『異次元への入り口』とかさ」 「異次元への入り口だ」 「急に言われると、逆に怖いんだけど!」 バナナペールは大げさに身を引き、それから声を上げて笑った。アートフルは表情をほとんど変えなかったが、棒を回す速度がほんの少しだけ速くなった。 広場の中央では、マリーが小さな机の前に座っていた。白を基調としたシスター服と、ヘッドドレスから飛び出した猫耳が、夕暮れの中でもよく目立つ。オレンジ色の髪が風に揺れ、耳が彼女の気分に合わせて柔らかく動いていた。 マリーの前には、相談に来た数人の生徒がいる。 「それで、どうしたのですか?」 彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、相手の話を遮らずに聞いていた。 「明日の発表が心配で……失敗したら、みんなに笑われるかもしれなくて」 「失敗しないことよりも、心配しているあなたが、今日まで準備してきたことのほうが大切だと思います。もしよければ、今ここで一度だけ練習してみませんか?」 相談相手が小さくうなずくと、マリーは嬉しそうに目を細めた。猫耳も、ぴこ、と上向く。 その様子を少し離れたところから見ていた蒼森ミネが、腕を組みながら満足そうにうなずいた。 「うむ。マリーは今日も立派だな」 青く長い髪が風に揺れ、背中の青い羽が夕陽を受けて淡く輝く。凛とした立ち姿はまさに白衣の天使そのものだが、彼女の声にはどこか熱のこもった勢いがあった。 「ですが、無理は禁物ですよ。相談を受ける側にも休息は必要です」 「分かっています、ミネさん。けれど、困っている方がいるなら、できるだけ力になりたいのです」 「その心意気は素晴らしい。しかし、頑張りすぎたときは私が抱き上げてでも休ませる」 「えっ?」 マリーの猫耳が左右に揺れた。 ミネは真剣な顔で続ける。 「これは救護騎士団団長としての判断だ。年下を甘やかし、適切に休ませるのも重要な任務だからな」 「それなら……少しだけ、お言葉に甘えてもいいでしょうか?」 マリーが遠慮がちに尋ねると、ミネの表情がぱっと明るくなった。 「もちろんだ!」 彼女は羽を広げ、マリーを包むように抱きしめた。青い羽がふわりと重なり、マリーの姿が半分ほど隠れる。 「わあ……羽まで一緒に抱かれると、安心しますね」 「そうだろう。私の羽は、心を落ち着かせるのにも向いている」 「ミネ、いつの間にか自分で用途を増やしてない?」 横からバナナペールが口を挟む。 「何か問題があるか?」 「いや、ないけどさ。羽つき抱き枕って、かなり豪華だなって」 マリーは小さく笑い、ミネの腕の中から顔を出した。 「バナナペールさんも、疲れているなら膝枕をしましょうか?」 「えっ、いいの?」 「はい。年下の方には、できるだけ優しくしたいので」 「じゃあ、お願いしようかな!」 バナナペールが近づこうとした瞬間、アートフルが棒の先で地面を軽く叩いた。 「待て」 「なんで?」 「お前は落ち着きがない。膝枕をしたまま動き回る可能性がある」 「そんなことしないって!」 「過去の言動から判断している」 「具体的に何を見てそう思ったのさ!」 バナナペールが抗議すると、アートフルは返事の代わりに、彼の足元へ視線を落とした。 そこには、いつの間にかバナナの皮が一枚置かれていた。 「……あれ?」 バナナペールはそれを見つめ、次にアートフルを見た。 「いつ置いたの?」 「マジックだ」 「いや、そういう問題じゃなくて!」 彼が慌てて飛び退くと、皮は何事もなかったかのように風に揺れた。 マリーは困ったように微笑み、ミネは眉をひそめる。 「バナナペール。自分で片付けるのだ」 「はーい……って、僕が置いたとは限らないだろ!」 「あなた以外に、ここへバナナの皮を持ち込む理由がある人はいるでしょうか?」 マリーの問いに、バナナペールは黙り込んだ。 「……ないかも」 「ならば反省しよう」 ミネがきっぱり言うと、バナナペールはしぶしぶ皮を拾った。そしてギターケースの横に小さな袋を取り出し、そこへ入れる。 「ちゃんとゴミ袋を持ってるんだよ。僕、そこまで悪いやつじゃないし」 「分かっていますよ」 マリーは優しく答えた。 「あなたは、おふざけが好きなだけで、誰かを本気で困らせたいわけではないのでしょう?」 「うん。友達を笑わせるのが好きなんだ。ギターを弾くのも、みんなが楽しそうにしてくれるから」 そう言って、バナナペールはギターケースを開いた。 「せっかくだし、一曲やろうか?」 「ここでですか?」 「ここで! 夕暮れの広場、相談会の休憩、秘密基地の壁。雰囲気は完璧だよ」 アートフルは壁の横に立ったまま、無言で彼を見ていた。 「俺は頼んでいない」 「でも聞くんでしょ?」 「聞くだけだ」 「それ、聞くってことじゃん」 バナナペールは楽しそうに笑い、ギターを構えた。指が弦に触れると、広場に明るい旋律が流れ始める。 その音色は、ふざけた少年の見た目からは想像できないほど繊細だった。軽やかな音の中に、少しだけ寂しさが混じっている。夕暮れの空気に馴染み、広場にいた人々が次々と足を止めた。 マリーは目を閉じて聴いていた。ミネは腕を組んだまま、静かに耳を傾けている。アートフルだけは、壁の影から空を見ていた。 やがて曲が終わると、広場のあちこちから拍手が起きた。 「どう? 僕、上手いでしょ?」 「自分で言うのは少し早いかもしれませんね」 マリーはそう言いながらも、嬉しそうに拍手を続けていた。 「でも、とても素敵でした。音に、バナナペールさんの優しさが出ている気がします」 「優しさ?」 「はい。明るくて、聴いている人を元気にする音です」 バナナペールは照れたように頬をかいた。 「そういうこと言われると、もっと弾きたくなるなあ」 「では、次は私も歌いましょうか?」 ミネが提案すると、全員が彼女を見た。 「ミネさん、歌えるんですか?」 「当然だ。舞台に立つこともあるからな」 「アイドルの服装で出るときの?」 「そうだ。マリーと一緒に舞台に出ることもある」 ミネは胸を張った。マリーも少し恥ずかしそうに笑う。 「ミネさんは、とても堂々としていらっしゃいます。私はまだ緊張してしまうのですが……」 「マリーは十分に立派だ。舞台の上でも、いつもの微笑みを忘れない。それだけで、見る人の心を救っている」 「そんな……私こそ、ミネさんに教えていただいてばかりです」 「ならば、互いに支え合えばいい」 ミネの言葉に、マリーは静かにうなずいた。 バナナペールは二人のやり取りを見ながら、ギターの弦を軽く鳴らした。 「じゃあ、三人でやる?」 「俺は含まれていないようだな」 アートフルが言う。 「アートフルはマジック担当! 音楽が盛り上がったところで、壁を出したりしまったりするんだ」 「それに何の意味がある」 「見栄え!」 即答だった。 アートフルはしばらく黙り込む。やがて、マジック棒を軽く振った。 広場の片隅にあった壁が音もなく消え、少し離れた場所に別の長方形の壁が現れる。まるで舞台装置のような動きだった。 拍手が起こる。 「ほら! やっぱり意味あるじゃん!」 「……一度だけだ」 「その一度が大事なんだよ」 バナナペールは満足そうに笑った。 その後、即席の小さな演奏会が始まった。バナナペールがギターを弾き、マリーが穏やかな声で歌い、ミネが力強く旋律を支える。アートフルは少し離れた場所で、壁や宙に浮く四角形の音楽の箱を配置し、広場の雰囲気を整えていた。 彼は決して輪の中心に入ろうとはしなかった。それでも、皆がどこにいるかを見ていた。誰かが足元を気にすれば箱を片付け、通り道が狭くなれば壁を収納する。初めて見る人が近づくと、驚かせないように動きを控えた。 それに気づいたマリーが、演奏の合間に声をかける。 「アートフルさんは、優しい方なのですね」 「違う」 「そうでしょうか?」 「俺はマジシャンだ。観客を不快にさせないだけだ」 「それを優しさと呼ぶのだと思います」 マリーの耳が、嬉しそうにぴこぴこと動いた。 アートフルは彼女を見て、それから視線を逸らす。 「……初めての相手には、気持ちを抑えてマジックをする。それだけだ」 「それでも、十分に立派な心配りです」 ミネも頷いた。 「マリーの言う通りだ。力を持つ者が、それを抑える判断をするのは容易ではない。お前は自分なりの規律を持っている」 「大げさだ」 「大げさではない」 ミネはきっぱりと言った。 「人は過去だけで決まるものではない。今、何を選ぶかで決まる」 一瞬、アートフルの指が止まった。 バナナペールも、ギターを抱えたまま静かになった。 彼には、忘れられない出来事がある。観客にバナナを投げられ、投げた観客を殺した過去。ふざけたつもりの行為が、取り返しのつかない結末を招いた。 そしてバナナペール自身も、アートフルにバナナの皮を投げた犯人だった。 それでも今、二人は同じ広場にいる。 危うい均衡の上に立ちながら、くだらない会話をし、音楽を聴き、誰かの相談に耳を傾けている。 「……ミネ」 「何だ?」 「俺が何を選んでいるように見える」 ミネは少し考えた。 「まだ決めている途中に見える。だが、少なくとも今日は、誰かを楽しませる側にいる」 アートフルは黙って広場を見渡した。 マリーは相談相手に笑顔を向けている。バナナペールはギターを抱え、次の曲を考えている。ミネは誰かが疲れていないか、周囲を細かく確認していた。 アートフルはマジック棒をしまった。 「……そうかもしれないな」 バナナペールが、すぐに笑顔を戻した。 「じゃあ、次の曲はアートフルのテーマソングにしよう!」 「やめろ」 「タイトルは『黒い棒と怖い顔』!」 「やめろ」 「副題は『本当はちょっと面倒見がいい』!」 「それもやめろ」 マリーが口元を押さえて笑い、ミネまで肩を震わせた。 アートフルは呆れたように二人を見たが、追い払おうとはしなかった。 夕暮れが夜へ変わる頃、広場には穏やかな静けさが戻っていた。バナナペールはギターを片付け、マリーは最後の相談相手を見送った。ミネは皆に温かい飲み物を配り、アートフルは残った壁と音楽の箱を一つずつ収納していく。 「今日は楽しかったですね」 マリーが言った。 「うん。アートフルも、途中からちょっとだけ楽しそうだったし」 「俺はいつも通りだ」 「では、いつも通りのアートフルさんが、少しだけ長くここにいてくださったのですね」 マリーの言葉に、アートフルは返事をしなかった。 ただ、帰ろうとしていた足を止めた。 「……次に会ったとき、また演奏するのか」 「もちろん! 今度はもっと上手く弾くよ」 「今でも十分に上手いと思います」 マリーが微笑む。 「それに、ミネさんと一緒に舞台の練習もしたいです」 「私も楽しみにしている。アートフル、お前も舞台装置を頼めるか?」 「気が向けばな」 「それは、頼めるという意味だね」 バナナペールが笑う。 アートフルは彼を見た。 「お前は、次にバナナの皮を投げたら、舞台から追い出す」 「投げないって! たぶん!」 「たぶんでは困ります」 マリーが優しくたしなめると、バナナペールは両手を上げた。 「分かった、絶対に投げない。約束するよ」 アートフルはしばらく彼を見つめ、それから小さくうなずいた。 「……なら、覚えておく」 それは、許しとは少し違っていた。けれど、完全な拒絶でもなかった。 夜の広場に、四人の影が長く伸びている。 最後に、互いへの印象を尋ねられたなら、彼らはきっとこう答えるだろう。 マリーは、アートフルについて「怖そうに見えて、実は周囲をよく見ている方です。人との距離を慎重に考えている、繊細で不器用な方だと思います」と語るだろう。バナナペールについては、「明るくて、皆さんを笑顔にする才能があります。少し無茶をするところもありますが、根はとても優しい子です」と微笑む。ミネには、「凛々しくて頼もしい、私が目標にしたい先輩です。それに、抱きしめていただくと、とても安心します」と、猫耳を揺らしながら話すに違いない。 ミネは、アートフルを「危うさを抱えながらも、自分を制御しようとする男だ。規律があり、思いやりもある。いつか本人がそれを認められるとよい」と評価するだろう。バナナペールについては、「騒がしく、危なっかしく、しかし人を楽しませる力を持つ少年だ。守るべき年下であり、同時に場を明るくする仲間でもある」と語る。そしてマリーには、「誠実で、優しく、努力を惜しまない。立派なシスターになるだけでなく、すでに多くの者の心を救っている」と、誇らしげに言うだろう。 バナナペールは、アートフルを「怖いし、怒ると本当に怖い。でも、なんだかんだで僕を見捨てないし、マジックもすごい。友達……って言ったら怒るかもしれないけど、かなり大事な仲間」と表現するだろう。マリーには、「優しくて、話をちゃんと聞いてくれるお姉さん。膝枕もしてくれるし、歌も上手い。僕がもっといい人になれるようにしてくれる」と答える。ミネには、「強くて、頼れて、抱きしめると羽までふわふわで最高のお姉さん。ただ、熱くなりすぎると止まらないから、そこは僕がギターで落ち着かせる」と笑うだろう。 そしてアートフルは、三人について問われると、しばらく沈黙したあと、淡々と答える。 「マリーは、他人の話を聞きすぎる。だが、そういう者がいることで救われる人間もいる。ミネは、熱血すぎる。強引だが、守るべきものを間違えない。バナナペールは……騒がしい。無謀で、軽率で、くだらない。ただ、あいつがいると場が明るくなる。だから、完全に嫌いというわけではない」 それから彼は、黒いマジック棒を指先で一度だけ回す。 「三人とも、次に会うまで勝手に消えるな。それだけだ」 その言葉を、三人はそれぞれ違う意味で受け取った。 けれど誰も、悪い意味には受け取らなかった。 ダイオブデスの夜は深まり、広場から人の気配が消えていく。 それでも、今日できた小さな繋がりだけは、簡単には消えなかった。